以前に、関東大震災のときに奇跡的に火災を免れた神田佐久間町・和泉町の話をブログでご紹介しました。それから、今月になって「映像の世紀」で神田佐久間町・和泉町の軌跡として取り上げられたのです。しかし、「映像の世紀」をみて、それが戦時中、プロパガンダとして利用されたことを知り、驚きました。空襲によるひどい火災になっても、逃げずにバケツリレーをして消火活動をせよというもの。
時の内務大臣、田辺治通は「大震災の時をおもいたまえ。うろたえ騒いだものにどんな不幸が見舞ったかを」。また農林大臣だった井野碩哉は「関東大震災のときに玄米と梅干で辛抱して帝都を復興させたことを思えば何でもなくできる」と。
つまり、根性で乗り切れみたいなことを時の大臣が言ったのですね。ひどい話です。震災時の神田佐久間町と和泉町の奇跡は、住民たちの頑張りもありますが、彼らの頑張りよりも、神田川に面しているとか地の利のほうが大きかったのです。ところが、そういった地の利については置き忘れられ、住民たちの頑張りばかりが強調されたのですね。過去の成功例が必ずしも次の成功に結び付くとは限りません。
かつて、プロ野球の名将だった野村克也さんは「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とおっしゃっておりました。成功例は実は様々な偶然が重なって、それが成功につながったことが往々にしてあるのです。
僕はこれまで芸能人やら有名会社の社長さんらの本を何冊か読んだことがあります。往々にして、自分がいかにして成功したかという自慢話が多く、うんざりさせられることが多いのですが、いかりや長介さんの本だけは例外でした。いかりやさんはドリフターズの成功を、「運が良かっただけ」と語られておりました。なんて謙虚な人なんだと思う反面、そうだろうなって。だって、成功するには努力も大事だが、運だとかご時世ってそれ以上にすごく大事だから。「愛の貧乏大作戦」がYouTubeであがっていたのですが、そこで主人の腕がすごく良いのになぜか繁盛しないお店が出てきました。そのお店はいまはないのですが、もし現在だったら、YouTubeとかで隠れた名店だと取り上げられ、人気店になっていたかもしれない。
話を戻しますが、神田佐久間町・和泉町におけるバケツリレーの話は戦時中も美談というか模範として取り上げられ、教科書や紙芝居の題材にまでなったのです。空襲に備え防空訓練がおこなわれたのですが、これもバケツリレーで火を消せというものでした。そうした防空訓練は実際空襲が起きたときに全く役に立たないと切って捨てたのが信濃毎日新聞の主筆だった桐生悠々。彼は1933年(昭和8)8月11日の新聞に「関東防空演習を嗤ふふ」というコラムをのせたのです。
桐生のこの発言はのちに現実のものとなるのですが、この気流の言葉に軍部は激怒。軍部は大々的な不買運動を起こすと信濃毎日新聞に通告。すると信濃毎日新聞は全面謝罪。それで桐生も新聞社をやめてしまうのです。あとからみたら、全面謝罪すべきは軍部のほうだと思うのですが、当時はそうした常識が通用しなかったのですね。それだけでなく軍部は、信濃毎日新聞社だけでなく、マスコミ各社を恫喝し、時には甘い汁を吸わせ、軍部にとって都合の悪い記事を書くことを禁じたのです。甘い汁というのは、軍部は実際に新聞社の幹部を料亭で接待したといいます。ある日、一晩で686円、今の価値で300万円近いお金を軍の機密費で使ったといいます。そんな不正が軍部とマスコミの間で行われていたのです。
さらには防空法という法律ができてから、焼夷弾で火事になっても、持ち場を逃げずに火を消すことが命じられたのです。しかし、焼夷弾はガソリンが使われているから、燃え広がるのがすごく早いのです。そうなったら消火活動よりも逃げたほうがいいのですが、政府はそれを許さなかった。むしろ「避難をすることは、其の防衛の責任を放棄するものであって、いたずらに右往左往の大混乱を来すのみである」というのが政府の言い分。そういた政府の姿勢で、どれだけ多くの人を犠牲にしたか。
しかし、1945年3月10日の東京大空襲。焼夷弾1600トンが投下され、東京は壊滅。関東大震災に匹敵する10万人が亡くなったのです。防空法で逃げることが禁じれていなければ、もっと多くの命が救えたかもしれないのに。その東京大空襲のとき、神田佐久間町・和泉町も焼野原になり、ふたたびの奇跡は起きず、多くの人々が逃げ遅れ亡くなったのです。
時の内務大臣、田辺治通は「大震災の時をおもいたまえ。うろたえ騒いだものにどんな不幸が見舞ったかを」。また農林大臣だった井野碩哉は「関東大震災のときに玄米と梅干で辛抱して帝都を復興させたことを思えば何でもなくできる」と。
つまり、根性で乗り切れみたいなことを時の大臣が言ったのですね。ひどい話です。震災時の神田佐久間町と和泉町の奇跡は、住民たちの頑張りもありますが、彼らの頑張りよりも、神田川に面しているとか地の利のほうが大きかったのです。ところが、そういった地の利については置き忘れられ、住民たちの頑張りばかりが強調されたのですね。過去の成功例が必ずしも次の成功に結び付くとは限りません。
かつて、プロ野球の名将だった野村克也さんは「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とおっしゃっておりました。成功例は実は様々な偶然が重なって、それが成功につながったことが往々にしてあるのです。
僕はこれまで芸能人やら有名会社の社長さんらの本を何冊か読んだことがあります。往々にして、自分がいかにして成功したかという自慢話が多く、うんざりさせられることが多いのですが、いかりや長介さんの本だけは例外でした。いかりやさんはドリフターズの成功を、「運が良かっただけ」と語られておりました。なんて謙虚な人なんだと思う反面、そうだろうなって。だって、成功するには努力も大事だが、運だとかご時世ってそれ以上にすごく大事だから。「愛の貧乏大作戦」がYouTubeであがっていたのですが、そこで主人の腕がすごく良いのになぜか繁盛しないお店が出てきました。そのお店はいまはないのですが、もし現在だったら、YouTubeとかで隠れた名店だと取り上げられ、人気店になっていたかもしれない。
話を戻しますが、神田佐久間町・和泉町におけるバケツリレーの話は戦時中も美談というか模範として取り上げられ、教科書や紙芝居の題材にまでなったのです。空襲に備え防空訓練がおこなわれたのですが、これもバケツリレーで火を消せというものでした。そうした防空訓練は実際空襲が起きたときに全く役に立たないと切って捨てたのが信濃毎日新聞の主筆だった桐生悠々。彼は1933年(昭和8)8月11日の新聞に「関東防空演習を嗤ふふ」というコラムをのせたのです。
「敵機を関東の空に帝都の空に迎え撃つということは我が軍の敗北そのものである。敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして一挙に焼土たらしめるだろうからである。関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも想像されるからである」と。
桐生のこの発言はのちに現実のものとなるのですが、この気流の言葉に軍部は激怒。軍部は大々的な不買運動を起こすと信濃毎日新聞に通告。すると信濃毎日新聞は全面謝罪。それで桐生も新聞社をやめてしまうのです。あとからみたら、全面謝罪すべきは軍部のほうだと思うのですが、当時はそうした常識が通用しなかったのですね。それだけでなく軍部は、信濃毎日新聞社だけでなく、マスコミ各社を恫喝し、時には甘い汁を吸わせ、軍部にとって都合の悪い記事を書くことを禁じたのです。甘い汁というのは、軍部は実際に新聞社の幹部を料亭で接待したといいます。ある日、一晩で686円、今の価値で300万円近いお金を軍の機密費で使ったといいます。そんな不正が軍部とマスコミの間で行われていたのです。
さらには防空法という法律ができてから、焼夷弾で火事になっても、持ち場を逃げずに火を消すことが命じられたのです。しかし、焼夷弾はガソリンが使われているから、燃え広がるのがすごく早いのです。そうなったら消火活動よりも逃げたほうがいいのですが、政府はそれを許さなかった。むしろ「避難をすることは、其の防衛の責任を放棄するものであって、いたずらに右往左往の大混乱を来すのみである」というのが政府の言い分。そういた政府の姿勢で、どれだけ多くの人を犠牲にしたか。
しかし、1945年3月10日の東京大空襲。焼夷弾1600トンが投下され、東京は壊滅。関東大震災に匹敵する10万人が亡くなったのです。防空法で逃げることが禁じれていなければ、もっと多くの命が救えたかもしれないのに。その東京大空襲のとき、神田佐久間町・和泉町も焼野原になり、ふたたびの奇跡は起きず、多くの人々が逃げ遅れ亡くなったのです。