
1 法隆寺を守った人々
法隆寺は聖徳太子によってつくられました。しかし、670年に雷が落ちてすぐに焼け落ちてしまったといいます。法隆寺はたびたび火事にあったり、雷に打たれたりしたそうです。
けれど、歴代の法隆寺の宮大工たちは、毎日法隆寺のなかを見て回り、いたんだところを見つけたらすぐさま修理をしたといいます。それくらい宮大工たちだけでなく、時の権力者までも法隆寺を大切に守ってきたのです。
たとえば、鎌倉時代に五重塔にカミナリが落ちたのですが、そのとき4人の大工が火を消して、五重塔の焼失をふせいだといいます。
そして安土桃山時代には法隆寺の宮大工・中井正吉(なかいまさよし)をリーダーとする大工集団が大坂城づくりにかかわったといいます。法隆寺は、豊臣秀頼(とよとみひでより)によって大改修を行われましたが、それも中井達大工集団の大坂城づくりに活躍したことに、秀頼が感謝したからかもしれません。
元禄時代(五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代)にも、法隆寺は大修理を行いました。その時は綱吉のお母さんである桂昌院(けいしょういん)が法隆寺に修理に必要なお金をたくさん出したといいます。
法隆寺は今日まで持っているのは、その時生きている人たちの努力、たびたびのメンテナンスのたまものでもありました。
2 昭和の大改修
明治30年になると法隆寺は国宝に指定され、法隆寺の大改修が昭和九年(1934)から始まりました。いわゆる昭和の大改修で、西岡常一(にしおかつねかず)も棟梁として、やはり宮大工だった西岡常一の父もかかわっておりました。
しかし、戦争で日本中が空襲にあってしまいます。空襲で法隆寺が焼けたら大変だと解体工事をしようとするのですが、なにしろ男たちは兵隊にとられ、西岡常一も例外ではなく仕事半ばにして、戦地に赴いたのです。仕方がないので女性を多く集めて、女性たちが協力し合い、まず五重塔を解体したのです。その解体したものを山に隠したそうです。金堂の天井の下の壁には、ほとけさまの壁画があったので、さすがに解体が難しいので、天井から上の部分だけを解体したといいます。それと金堂の本尊の釈迦三尊の仏像も、別の建物に移したといいます。
このほかの建物は、縄をあんでつくった、大きな網をすっぽりかぶせて敵機が見えないようにしたといいます。幸い飛行機からの空襲はなく、法隆寺は無事だったといいます。戦争が終わって、西岡常一も現場に戻ってきましたが、困ったことに仲間の宮大工が集まりません。戦争のごたごたで、宮大工の給料ではとても食っていけないからです。何しろ法隆寺でもらう賃金は民家を建てる大工の6分の1。これじゃあ食べていけません。普通の大工さんのほうが割にあう。それでも、西岡は一人頑張ったのです。
しかし、そんな西岡の努力を無にするかのような出来事が起こります。昭和24(1949)年1月26日に法隆寺の金堂が火事になってしまい、壁画などが焼失したのです。戦火から守ったと思ったのに。西岡や工事事務所の人間も必死に消火活動を行い、消防隊も駆けつけたのですが、金堂の炎の勢いは止まることを知りません。このままだと金堂の壁画も燃えてしまう。法隆寺の最高責任者佐伯 定胤は、「壁画だけは守ってほしい」と叫んだそうです。佐伯は炎の中の金堂の中に飛び込もうとしたのですが、西岡常一の父親が、佐伯を後ろから抱きかかえ引き留めたといいます。結局、金堂は灰になってしまい、ありがたい壁画もなくなってしまったのです。
いまのように自動火災報知機があれば、もっと早く火を消すことができたけれど、この時代にそんなものもなかったし、政府も戦後の復興のほうが重要で、文化財を保護する余裕なんてなかったのです。けれど、この火災がきかっけで昭和25年(1950)に文化財保護法が国会で成立。法隆寺の金堂が燃えた1月26日を「文化財防火デー」となったのです。そればかりではなく、宮大工たちの賃金を増やすことも政府で決められ、それまでの賃金の50倍もアップしたといます。金堂は焼けたのは残念だけれど、そのおかげで文化財を守る事の大切さが見直されたのです。
そうして昭和9年から始まった大改修は戦争を挟んで昭和29(1954)年にひとまず区切りがつきました。
3 仏法を知らずに、塔伽藍を論ずべからず
平成5年に法隆寺は世界遺産に登録され、今日まで至っております。
それにしても、宮大工だけでなく時の権力者までも法隆寺を守ろうとしましたが、彼らの心をつき動かしたのは何しょう?おそらく、聖徳太子の仏教の教えで世の中を救いたいという願いが法隆寺に込められていたのではないかと。飛鳥時代という時代も戦乱があったり、疫病や貧困の問題があって、大変な時代だったそうです。そんな乱れた時代を仏の力ですくってもらいたいと聖徳太子は願っていたのではないかと。
また、法隆寺の宮大工の口伝(※1)の一つとして、
「仏法を知らずに、塔伽藍を論ずべからず」
というものがあります。お寺を建てるのに、仏様のことをしらないでただ形ばかりを語ってはダメだということです。法隆寺の歴代の宮大工たちは、技術だけでなく仏教の教えを理解していたといいます。だからこそ、宮大工たちは聖徳太子の理想を肌で感じることができたし、時の権力者たちも聖徳太子の思いに少しでも応えようと思ったのだと思います。
※1 言葉で伝えること
※ 参考文献