今年は良い年になるとよいですね。昨年はコロナ禍でしたからね。今年最初のエントリーは中国の話です。毛沢東夫人の江青です。文化大革命で4人組の一人として非常に評判の悪い女性として有名です。
江青はもともとは上海映画界の女優でしたが、藍蘋(ランピン)という芸名を名乗っておりましたが、女優としては大成せず、それどころか不倫スキャンダルで映画の仕事もなくなってしまったのです。江青は、逃げるように上海から1300キロ離れた延安に行ったのです。そこには共産党が国民党の弾圧から逃れるように潜んでいたのです。共産党は自分たちの支持を得るにはまず農民たちだと考え、農民たちに共産主義のすばらしさを説いたのです。しかし、農民は識字率が低かったので、小難しい共産主義の理論など伝わるはずがありません。僕もマルクスの『資本論』を読んだのですがちんぷんかんぷんで。まあ、資本家や経営者が悪い!俺たち労働者が正しいと言っているのはなんとなく伝わりましたがw
それで役立ったのが江青。江青は売れなかったとはいえ女優。共産主義のすばらしさを説く演劇を演じたのですね。江青は演劇の指導も行ったといいます。その江青は毛沢東と恋をするのです。しかし、毛沢東には妻がいたのですね。江青はなんと、毛沢東の妻が療養で留守にしている間に、毛沢東に接近。いわゆる略奪愛をしたのですね。毛沢東も毛沢東で、江青を気に入り、妻を追い出して、江青と結婚したいといいだしたのですね。すると周恩来ら共産党の幹部たちは大反対。
しかし、毛沢東は譲りません。江青と結婚できなければ、おれは共産党をやめる!って駄々をこねたのですね。子供みたいですね。さすがにそれはこまると思ったのが幹部たち。幹部たちは江青に条件を付けたうえで結婚を許しました。
この約束は戦後になって破られてしまうのですね・・・
戦後、共産党は中国を仕切るようになりましたが、毛沢東の大躍進政策の失敗により政治的に遠ざけられてしまったのです。毛沢東に代わって中国の政治を担ったのが劉少奇。劉少奇をささえたのが妻の王光美。英語、フランス語、ロシア語が堪能で夫の通訳をして夫を支えました。王光美の優雅なふるまいに世界的にも評価が高かったのです。そんな王光美に嫉妬の念をたぎらせたのが江青。また毛沢東も毛沢東で劉少奇から権力を奪い返そうと虎視眈々とチャンスを待っていたのです。毛沢東は江青にひそかに劉少奇を陥れいれる策略を命じたのです。江青は王光美が憎かったので、毛沢東の命令をあっさり承知。江青は全国の大学を回り、講演を行い、毛沢東が若者のために新たな改革をしたいと考えている事を伝えたり、劉少奇の悪口を言いまくったのですね。無知な学生たちを味方につけたかったのでしょう。そうした江青に扇動された学生たちは紅衛兵となったのです。文化大革命のはじまりです。文化大革命で紅衛兵は知識人や教師や自分の親まで攻撃したのですね。
その文化大革命で一万人もの人間が命を失ったといいます・・・・
そして、文革の波は劉少奇夫妻にも及びました。江青は学生らの前で涙を流して王光美を批判。
王光美の批判大会になんと30万人もの紅衛兵が集まったというのです。王光美はその会場に引きずりだされ、紅衛兵たちはピンポン玉でネックレスを作り、そのネックレスをかけて罵倒したといいます。アメリカのスパイという濡れ衣を着せられ、なんと12年間も王光美は投獄されてしまうのですね・・・
国家主席の劉少奇も紅衛兵たちに罵倒され、共産党の裏切り者として除名され、捕らえられてしまいます。劉少奇は獄中で亡くなってしまうのです。そんな文革の嵐が吹く中で、ニクソン大統領が中国に電撃訪問。そのころ体調を崩していた毛沢東に代わって江青がニクソンのホスト役を務めました。世界の目がに自分に向いている。江青は得意になっていたのです。しかし、夫の毛沢東が1976年に亡くなってしまいます。江青はこの時、最高権力者になろうとたくらんでいたのです。江青を中心に4人組を結成していたのです。
中国では伝統的に女は政治に口出しするなという考え方が根強かったのですね。そんな常識に江青は苦々しく思っていたのでしょう。ルーマニアの独裁者だったニコラエ・チャウシェスク夫妻が中国に訪れたことがありまして、チャウシェスクの奥さんに江青が「女性ももっと政治にかかわるべきです」と伝えたほど。
しかし、先手を打ったのが毛沢東のやり方に不満を抱いていた党幹部たち。党幹部たちは江青ら4人組を突然逮捕。江青は文化大革命を起こし、国を大きな混乱に陥れたとして罪に問われたのです。江青の裁判には、釈放されたばかりの王光美の姿もあったといいます。
江青はこの裁判においても、自分の正しさを主張し、劉少奇は裏切り者だと批判。そして江青は死刑が決定。江青は死刑が執行される前に自ら命を落としました。遺書をのこして。
そして劉少奇の名誉は回復されたのです。
※この記事は『映像の世紀』を参考にして書きました。
江青はもともとは上海映画界の女優でしたが、藍蘋(ランピン)という芸名を名乗っておりましたが、女優としては大成せず、それどころか不倫スキャンダルで映画の仕事もなくなってしまったのです。江青は、逃げるように上海から1300キロ離れた延安に行ったのです。そこには共産党が国民党の弾圧から逃れるように潜んでいたのです。共産党は自分たちの支持を得るにはまず農民たちだと考え、農民たちに共産主義のすばらしさを説いたのです。しかし、農民は識字率が低かったので、小難しい共産主義の理論など伝わるはずがありません。僕もマルクスの『資本論』を読んだのですがちんぷんかんぷんで。まあ、資本家や経営者が悪い!俺たち労働者が正しいと言っているのはなんとなく伝わりましたがw
それで役立ったのが江青。江青は売れなかったとはいえ女優。共産主義のすばらしさを説く演劇を演じたのですね。江青は演劇の指導も行ったといいます。その江青は毛沢東と恋をするのです。しかし、毛沢東には妻がいたのですね。江青はなんと、毛沢東の妻が療養で留守にしている間に、毛沢東に接近。いわゆる略奪愛をしたのですね。毛沢東も毛沢東で、江青を気に入り、妻を追い出して、江青と結婚したいといいだしたのですね。すると周恩来ら共産党の幹部たちは大反対。
しかし、毛沢東は譲りません。江青と結婚できなければ、おれは共産党をやめる!って駄々をこねたのですね。子供みたいですね。さすがにそれはこまると思ったのが幹部たち。幹部たちは江青に条件を付けたうえで結婚を許しました。
今後、江青が公に毛沢東夫人を名乗らない事。そしてその地位を利用して政治に参加しない事。
この約束は戦後になって破られてしまうのですね・・・
戦後、共産党は中国を仕切るようになりましたが、毛沢東の大躍進政策の失敗により政治的に遠ざけられてしまったのです。毛沢東に代わって中国の政治を担ったのが劉少奇。劉少奇をささえたのが妻の王光美。英語、フランス語、ロシア語が堪能で夫の通訳をして夫を支えました。王光美の優雅なふるまいに世界的にも評価が高かったのです。そんな王光美に嫉妬の念をたぎらせたのが江青。また毛沢東も毛沢東で劉少奇から権力を奪い返そうと虎視眈々とチャンスを待っていたのです。毛沢東は江青にひそかに劉少奇を陥れいれる策略を命じたのです。江青は王光美が憎かったので、毛沢東の命令をあっさり承知。江青は全国の大学を回り、講演を行い、毛沢東が若者のために新たな改革をしたいと考えている事を伝えたり、劉少奇の悪口を言いまくったのですね。無知な学生たちを味方につけたかったのでしょう。そうした江青に扇動された学生たちは紅衛兵となったのです。文化大革命のはじまりです。文化大革命で紅衛兵は知識人や教師や自分の親まで攻撃したのですね。
その文化大革命で一万人もの人間が命を失ったといいます・・・・
そして、文革の波は劉少奇夫妻にも及びました。江青は学生らの前で涙を流して王光美を批判。
王光美は外遊の際、私の進言を無視しネックレスをつけた。これはブルジョワ的なものだ。なんと悪い女だ。
王光美の批判大会になんと30万人もの紅衛兵が集まったというのです。王光美はその会場に引きずりだされ、紅衛兵たちはピンポン玉でネックレスを作り、そのネックレスをかけて罵倒したといいます。アメリカのスパイという濡れ衣を着せられ、なんと12年間も王光美は投獄されてしまうのですね・・・
国家主席の劉少奇も紅衛兵たちに罵倒され、共産党の裏切り者として除名され、捕らえられてしまいます。劉少奇は獄中で亡くなってしまうのです。そんな文革の嵐が吹く中で、ニクソン大統領が中国に電撃訪問。そのころ体調を崩していた毛沢東に代わって江青がニクソンのホスト役を務めました。世界の目がに自分に向いている。江青は得意になっていたのです。しかし、夫の毛沢東が1976年に亡くなってしまいます。江青はこの時、最高権力者になろうとたくらんでいたのです。江青を中心に4人組を結成していたのです。
かつて中国は西太后のような女帝が君臨した時代がありました。共産主義においても女性の指導者が必要です。男は位を譲り、女がこの国を管理すべきです。(江青の言葉)
中国では伝統的に女は政治に口出しするなという考え方が根強かったのですね。そんな常識に江青は苦々しく思っていたのでしょう。ルーマニアの独裁者だったニコラエ・チャウシェスク夫妻が中国に訪れたことがありまして、チャウシェスクの奥さんに江青が「女性ももっと政治にかかわるべきです」と伝えたほど。
しかし、先手を打ったのが毛沢東のやり方に不満を抱いていた党幹部たち。党幹部たちは江青ら4人組を突然逮捕。江青は文化大革命を起こし、国を大きな混乱に陥れたとして罪に問われたのです。江青の裁判には、釈放されたばかりの王光美の姿もあったといいます。
江青はこの裁判においても、自分の正しさを主張し、劉少奇は裏切り者だと批判。そして江青は死刑が決定。江青は死刑が執行される前に自ら命を落としました。遺書をのこして。
毛主席、愛しています。あなたの生徒、あなたの戦友が、いま会いに行きます。(江青の遺書)
そして劉少奇の名誉は回復されたのです。
※この記事は『映像の世紀』を参考にして書きました。