1 馬刺し
みなさんは馬刺しを食べたことがありますか?僕は何度か食べたことがあります。おいしいんですよね。こくがあって。肉なのにあっさりしていて食べやすいんですね。それに、馬の肉は生で食べることもできるんです。馬刺しは日本のあちこちで食べることができますが、馬刺しは熊本の名物グルメなんですね。馬の肉を生で食べる風習はは馬の名産地、たとえば群馬だとか山梨だとか福島だとかが多いですが、熊本ではどうしたわけか、生で食べる風習はなかったようです。馬の肉を生でたべるようになったのも加藤清正がかかわっているのです。朝鮮出兵のさい、食料に困って、清正たちは馬肉を食べたのです。馬肉がおいしかったので、清正が熊本に伝えたと言い伝えられております。
2 慶長の役
一度、日本と朝鮮で和睦し、戦いは終わりました。しかし、秀吉が朝鮮側が言った和平案に納得できなかったのです。再び秀吉は朝鮮に出兵を命じました。これが慶長の役(1592)です。
ちなみに、このころになると清正は秀吉からの謹慎処分が許され、再び朝鮮半島で戦うことになるのです。なぜ、秀吉からの謹慎処分が解かれたのかは次回の記事で詳しく取り上げますが、文禄5年(1596年)9月5日に起きた伏見地震です。この地震のとき、清正が秀吉を救ったんです。それで許されたんですね。
で、慶長の役では文禄の役以上に日本軍は苦戦を強いられました。明と朝鮮連合軍の猛反撃の上に、極端な食糧不足に襲われたのです。実は、日本からの食糧補給船が朝鮮の水軍に撃破されて、朝鮮に食料が十分に届かなくなったのです。そのうえ地元の民衆の不満もさらに高まり、現地徴収もきたいできません。そのうえ、朝鮮政府は、日本軍の進路にあたる村々の民衆たちに、日本軍に食料家財を一切残さずに山岳地域に避難せよって命じたのです。日本は飢えに苦しむ一方です。
そして、明と朝鮮軍は朝鮮半島の南部にある蔚山城にまで攻め寄せたのです。蔚山城には日本軍がたてこもっておりました。その蔚山城を明と朝鮮の大軍は蔚山城をすっかり囲んでしまいました。城内の日本軍は4千500ほど、かたや明と朝鮮軍は5万7千。勝負になりません。取り囲まれた日本軍は大ピンチ。
清正はこのころ、蔚山城から10キロほど離れた西生浦城にいましたが、蔚山城の仲間を助けるべく、わずか500人だけで蔚山城に向かったのです。清正はたった500名で、明と朝鮮の大軍を押しのけ、蔚山城に入城。すごいですね。清正も、その家臣たちもそうとう強かったのですね。清正の援軍に、蔚山城の仲間たちは大喜び。
3 蔚山城の籠城戦
しかし、そこからが地獄でした。
反撃はおろか、壊滅寸前、食料も水も2,3日分しかないうえに、骨まで凍るほどの寒さで凍死するものも出てくる有様。しかし、清正は一言も弱音をはきませんでした。大将だけに与えられた一善のごはんも自分が食べずに部下に与えたといいます。
食料が尽きた城内では紙をむさぼり、壁土を煮て食べたり、大事な軍馬までも食べたといいます。ある兵士は「すねあてがずり落ちたので外してみると、足の肉は落ち骨と皮ばかりになっていた」と。
そんな状況のなか、味方の援軍がかけつけ、蔚山城に立てこもっていた清正たちは九死に一生を得たのです。蔚山城の籠城戦は清正の戦歴でもっとも過酷なものでした。そして蔚山城の戦いの経験が熊本城の建築に役立ったのです。
結局、この戦も豊臣秀吉の死によって、日本軍は兵を引き上げることになり、2度にわたる朝鮮出兵は幕を閉じたのです。
みなさんは馬刺しを食べたことがありますか?僕は何度か食べたことがあります。おいしいんですよね。こくがあって。肉なのにあっさりしていて食べやすいんですね。それに、馬の肉は生で食べることもできるんです。馬刺しは日本のあちこちで食べることができますが、馬刺しは熊本の名物グルメなんですね。馬の肉を生で食べる風習はは馬の名産地、たとえば群馬だとか山梨だとか福島だとかが多いですが、熊本ではどうしたわけか、生で食べる風習はなかったようです。馬の肉を生でたべるようになったのも加藤清正がかかわっているのです。朝鮮出兵のさい、食料に困って、清正たちは馬肉を食べたのです。馬肉がおいしかったので、清正が熊本に伝えたと言い伝えられております。
2 慶長の役
一度、日本と朝鮮で和睦し、戦いは終わりました。しかし、秀吉が朝鮮側が言った和平案に納得できなかったのです。再び秀吉は朝鮮に出兵を命じました。これが慶長の役(1592)です。
ちなみに、このころになると清正は秀吉からの謹慎処分が許され、再び朝鮮半島で戦うことになるのです。なぜ、秀吉からの謹慎処分が解かれたのかは次回の記事で詳しく取り上げますが、文禄5年(1596年)9月5日に起きた伏見地震です。この地震のとき、清正が秀吉を救ったんです。それで許されたんですね。
で、慶長の役では文禄の役以上に日本軍は苦戦を強いられました。明と朝鮮連合軍の猛反撃の上に、極端な食糧不足に襲われたのです。実は、日本からの食糧補給船が朝鮮の水軍に撃破されて、朝鮮に食料が十分に届かなくなったのです。そのうえ地元の民衆の不満もさらに高まり、現地徴収もきたいできません。そのうえ、朝鮮政府は、日本軍の進路にあたる村々の民衆たちに、日本軍に食料家財を一切残さずに山岳地域に避難せよって命じたのです。日本は飢えに苦しむ一方です。
そして、明と朝鮮軍は朝鮮半島の南部にある蔚山城にまで攻め寄せたのです。蔚山城には日本軍がたてこもっておりました。その蔚山城を明と朝鮮の大軍は蔚山城をすっかり囲んでしまいました。城内の日本軍は4千500ほど、かたや明と朝鮮軍は5万7千。勝負になりません。取り囲まれた日本軍は大ピンチ。
清正はこのころ、蔚山城から10キロほど離れた西生浦城にいましたが、蔚山城の仲間を助けるべく、わずか500人だけで蔚山城に向かったのです。清正はたった500名で、明と朝鮮の大軍を押しのけ、蔚山城に入城。すごいですね。清正も、その家臣たちもそうとう強かったのですね。清正の援軍に、蔚山城の仲間たちは大喜び。
3 蔚山城の籠城戦
しかし、そこからが地獄でした。
反撃はおろか、壊滅寸前、食料も水も2,3日分しかないうえに、骨まで凍るほどの寒さで凍死するものも出てくる有様。しかし、清正は一言も弱音をはきませんでした。大将だけに与えられた一善のごはんも自分が食べずに部下に与えたといいます。
食料が尽きた城内では紙をむさぼり、壁土を煮て食べたり、大事な軍馬までも食べたといいます。ある兵士は「すねあてがずり落ちたので外してみると、足の肉は落ち骨と皮ばかりになっていた」と。
そんな状況のなか、味方の援軍がかけつけ、蔚山城に立てこもっていた清正たちは九死に一生を得たのです。蔚山城の籠城戦は清正の戦歴でもっとも過酷なものでした。そして蔚山城の戦いの経験が熊本城の建築に役立ったのです。
結局、この戦も豊臣秀吉の死によって、日本軍は兵を引き上げることになり、2度にわたる朝鮮出兵は幕を閉じたのです。