history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:昭和天皇

テレビはいろいろ見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今、どういう番組をみているかということにはこたえられません。


この発言は、記者会見で記者が「どういうふうなテレビ番組をご覧になりますでしょうか」と気軽な質問をしたときに出た言葉。そうですよね、具体的なテレビ番組名をあげたら、昭和天皇が見ている番組というプレミアムがつきますもんね。そりゃ天皇陛下だって言いづらいでしょ。

実際、昭和天皇はテレビをよくご覧になられたといいます。側近たちの話によるとニュースや「皇室アルバム」はもとより相撲、それからドラマもご覧になったといいます。とくに『おしん』が大好きだったそうです。『おしん』の主人公の田倉しんは、昭和天皇と同い年という設定になっております。


ええ、その当時、今「おしん」の映画(ドラマのまちがい?)を終始見て、その当時の女性の苦労というものを非常に察していましたが、当時のそういうことはあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知ってましたけれども、それは非常におおざっぱな感想しか私はその当時は承知してませんでした。その映画を見て非常にあの時の苦労を思い出しました。


貧乏、奉公そして戦争、当時の女性というか庶民の苦労というのは風のウワサでは聞いていたが、まさかこれほどひどいものだったなんて。そんな思いを『おしん』をみて昭和天皇は衝撃を受けられたかもしれません。自分が宮中で体験した現実と庶民が味わった現実があまりに違う。もちろん、昭和天皇は昭和10年にこのような言葉をおっしゃってました。

東京のような都会に住んでいるから、そんな呑気なことを言う。東北、北海道の人たちが、今この瞬間、天を仰いでどんなに心配しているか、なぜそのことを思ってみないか。



東北、北海道の人たちが冷害に苦しんでいることは昭和天皇も戦前からご存じでした。冷害のために農村の困窮も伝え聞いておりました。けれど、まさかこれほどとはって昭和天皇は『おしん』をみて思われたそうですよ。もし、昭和天皇が今の上皇様のように被災地を訪れ、被災者の人に膝をつけて、被災者の話を聞いていたら、もっと実感できたかもしれない。

また、昭和天皇は『さかなちゃん』というドラマや『サザエさん』に『小公女セーラ』もご覧になられたといいます。『さかなちゃん』とは、生物学者でありタレントのさかなクンが主人公のどらまではないですよwこれは1976年に放送された昼のドラマ小説です。魚市場で働く男勝りの女性が主人公のドラマだったようです。

『サザエさん』のファンである昭和天皇は春の園遊会で作者の長谷川町子さんをよばれたのですね。それで、長谷川町子さん直々に昭和天皇は、こう言われたのです。

あのサザエさんね。漫画とかね、テレビで時々見てるから。なかなか面白いものをやってますね。水面喜んでいるようですから。しっかりやってください。


また、昭和天皇が『小公女セーラ』をご覧になられたという話をきいて、僕も昭和天皇に僭越ながら親近感が持てましたw僕もセーラみていましたから。セーラは金持ちのお嬢様だったのが父親の破産でミンチン女学院のメイドになってしまい、さらにミンチン院長やラビニアから過酷ともいえるイジメを受けるのですね。そんなつらい境遇に耐え抜くセーラに僕もいじめられっ子だった自分と重ねたっけ。昭和天皇陛下はセーラを見て何を思われたか、あいにく資料はないのですが、昭和天皇陛下の心を打ったことは間違いないと思います。







サザエさん 1巻
長谷川町子
朝日新聞出版
2020-01-07

朝ドラで「らんまん」が話題になっております。植物学者の牧野富太郎をモデルにしたドラマです。その牧野富太郎が「雑草という草はない」という名言を残したといいます。その牧野を皇居に招いたのが昭和天皇陛下。昭和22年(1947年)ごろから牧野を皇居によび植物学のレクチャーを受けたといいます。昭和天皇陛下は植物に関して非常に造詣が深い方。旧天皇誕生日(4月29日)が、「昭和の日」ではなく当初は「みどりの日」という名前の祝日だったこともその表れです。

昭和天皇もそんな牧野に影響を受けてか、このような言葉を述べられております。


どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのいはいけない」


名言だと思います。植物はみな命があるということでしょう。昭和天皇のお人柄が出ています。このお言葉は、昭和天皇が皇居を離れ留守にしていた時、吹上御所にある庭に雑草が生い茂っていたのですね。吹上御所にはかつてゴルフ場があったようですが、自然を愛する昭和天皇はそのゴルフ場を自然のままに放置したのですね。それで当時の田中直という侍従が全部、草をとってきれいにしたのです。昭和天皇が御帰りになって、田中侍従は褒められるだろうと期待したのです。ところが、昭和天皇から返ってきた言葉は意外なもので、

「どうして庭を刈ったのかね」

でした。それで田中侍従が「雑草が生い茂ってましたので」と言ったところ、出てきた言葉が「雑草という草はない」だったのです。

また、三木武夫内閣の時代にも昭和天皇は「雑草という草はない」とおっしゃったといいます。旅行先で、旅行での案内役をしていた安倍晋太郎農林相が「ここから先は雑草です」と言ったところ、やはり、「雑草という草はない」とおっしゃったとか。このエピソードは政界でも話題になり、のち福田 赳夫内閣の時、田村元運輸相が「非常に感動しました」と直接、天皇に話しました。すると昭和天皇は、

「そんなに感動されてもはずかしいのだけれども、ただ、雑草というのは人間のエゴからつけている呼び名である。かわいそうだよね。猛獣という言葉もあるけれど、ライオンやトラからみたら、一番の猛獣はあるいは人間かもしれないね」

もっともですね。我々は気が付かないけれど、よく考えたら人間こそ、地球でも最も獰猛な猛獣かもしれない。ちなみに、この時、田村運輸相は、「私は生き物を殺すハンティングや釣りは好まない」って言ったのですね。それは本心ですかね?。ハンティングはともかく釣りは好きなのに、昭和天皇にゴマすってそう言っているだけなんじゃね?そんな田村の腹が読めたのか、昭和天皇は「あえてコメントはしないでおこう」って述べられました。

さらに昭和天皇が雑草という言葉を嫌がる理由について、このように述べられております。

どうも雑草という名前は、少し侮辱的な感じがして好まないのです。(雑草とは)道端に雑然と生えている植物をさすのではないかと考えています。麦やコメなどの生長を妨げるものもありますが、きれいな花が咲いたり、役に立つのもあるので、(雑草という名前は)どうも面白くないのです。


※ 参考文献



1 朕はたらふく食ってるぞ!
「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)

「たらふく食ってるぞ」というセリフ、なかなかインパクトありますね。もちろん、昭和天皇は、「朕はたらふく食っている。おまえら貧乏人は死ね」なんて言っておりません。昭和21年(1946J)、共産党員である松島松太郎という人物がプラカードに書いたものです。で、松島松太郎は不敬罪で逮捕されてしまいます。え?不敬罪って戦後もあったの?と思われるかもしれませんが、戦後間もないころも不敬罪があったのです。

後述しますが、当時の人たちは食べ物に困って飢えており、かつては現人神としてあがめた天皇までも疑問を抱く人間が出てきたといえます。そうした不満が爆発し、デモ隊が皇居前まで押し寄せ、天皇に直訴しようと思ったのです。「おれたち食べるものがねえ!コメよこせ」、「俺たちは死にもの狂いでお国のために戦ったのに、政府はなにやってるんだ!」。また、共産党とか労働組合主導で演説も行われたといいます。

2 デモ隊が宮内庁でみたもの
結局、デモ隊は天皇には会えなかったものの、許可を得て宮内庁の調理場をのぞくことができたといいます。夕食のメニューがメモに張り出されていて、それによると

「平貝、きゅうり、のりの酢の物、おでん、まぐろの刺身、焼き物とからあげ、煮込み、タケノコ、ふき、みそおでん、このほか2品」

さらにゴミ箱には「まだ食える、ぜいたくな魚のあらが5,6貫捨ててあった」と。調理場の様子は新聞にも取り上げられ、国民はやりきれない気分になったといいます。「おれたちはこんなに食べるものに苦労しているのに、天皇一家は贅沢していやがる」って。

さらに、『芦田均』の日記によると「(皇室お抱えの)料理人が60人」という記載があるのですね。

松島松太郎のプラカードに「たらふく食ってるぞ」って書かれていたけれど、あながちそれはウソではなかったのですね・・・

ちなみに昭和天皇は1947年6月3日に記者会見を行ったといいます。記者から「ふだん、どんな食事をお召しになられておりますか」とたずねたところ、昭和天皇は

「いろいろなもの。うどん、すいとん、いもなど種々雑多な代用品を食べている」


と答えられたといいます。なんか「いろいろなもの」とか「種々雑多」って言い方がひっかかるんだよなあ。うどん、すいとん、いもばかり食べていたのなら、「うどん、すいとん、いもばかり食べている」ってお答えになられると思うんですよねえ。それに、上皇様のこどものころのあだ名は「チャブ」でした。チャブってちゃぶ台が語源ではないですよ。「肌が茶色っぽく日焼けしていて、小太りだったから」です。当時は食糧難で、子供たちはガリガリだったんですよ。しかし、幼いころの上皇様は違っていた。天皇家が庶民と全く同じだったら、幼い上皇様だってガリガリのはず。

それと、昭和天皇の侍従が書いた本に、「料理はいつもフランス料理で、オードブル、スープ、魚、肉といったコース料理でした」って書いてありました。

もちろん、それは戦前ないし戦争が始まったころの話で、戦後間もないころは昭和天皇も食糧難に苦しむ国民に気を遣って、イモや野菜を混ぜた代用パンをよく食べていたって聞きますが、少なくとも当時の国民と全く同じものを食べていたわけではなさそうです。

何言ってるんだ!昭和天皇陛下のお食事は質素だったんだぞって声も聞こえてきそうですが、確かに、昭和天皇のお食事は晩餐会はともかく、普段は一般の人とさほど変わらぬ食事メニューです。けれど、それは飽食の現代の感覚。戦後間もないころは、コンビニ弁当でさえ贅沢に思えるほど厳しい食糧難だったのです。昭和天皇が食べ物についてたたかれたのは、そういった時代背景もありました。

3 当時の事情
終戦直後、日本は未曽有の食糧難になったのです。戦時中も苦しかったのは言うまでもなく「火垂るの墓」でもその描写があるのですが、しかし戦時中よりひどかったとは想像もつきませんね。戦後も配給制がつづいたのですが、配給される食料はとても少なく、庶民は困っていたのです。そりゃ、あれだけ無茶な戦争をした上に、植民地を一気に失ったのですから、物資がなくなってしまうのは当然の事です。闇市(※1)にいけば食事にありつけたのですが、大変なぼったぐりもいいところだったそうです。品物の値段は政府の統制価格の30倍から40倍。コメに至っては130倍にも及んだといいます。

1945年(昭和20)当時の大蔵大臣だった渋沢敬三が「病気と飢えで一千万人の死者がでる」と発表したほど。実際、このころ毎日、栄養失調と飢えで亡くなり、一日に6人もなくなることもザラだったそうです。特に悲惨だったのは夫を戦争で失った女性。幼い子供のいるある女性の悲痛な叫び。

「栄養不足のせいか、お乳がでませんでねえ。お米を水につけてすり鉢でつぶしてから、ゆでたのを(こども)に飲ませた。そのお米もなかなか手に入らない。なにを食べたらいいか。どうしていきたらいいか。」

私ごとになりますが、僕の父も幼少のころ、祖父母に連れられ、地方の農家までリアカーをひいて行きコメをいただいたといいます。このころはお金が紙くず当然だったので、祖母の着物とコメを交換したといいます。無事、コメを手に入れても、警察に見つかったら容赦なく警察に没収されてしまいます。当時子供だった父も警察に見つからないようにコメを隠すのに、祖父も祖母も苦労したって話していました。

そして戦地に赴いていた兵士たちも戻ってきて、東京の人口も2割増になったといいます。それで、ますます食料難になったのですね。お国のために戦った復員兵の現実は、ひどいもので、称賛されるどころか、家族を失い、仕事も失い、結局闇商売をするしかなかったのですね。

翌年の1946年になると、頼みの配給もだんだん滞るようになり、2,3時間待ちは当たり前、三週間以上配給が行われないこともあったといいます。それに追い打ちをかけるように、軍部が戦時中から国民から巻き上げた物資やコメなどを隠匿していたことが発覚。それを政治家や特権階級がこっそり闇市に売りさばき、莫大な利益を得ていたことまで発覚。



戦後どころか、東北の農村なんて明治からひどい状況でした。最近、『おしん』を最初から見直しているのですが、おしんの実家は、毎日、大根飯で、おかずもろくになし。明日のコメさえ心配するほど飢えていたのです。

そんなひどい生活を送ってきた人間からみたら、天皇家の食卓どころか、コンビニの弁当でさえ、贅沢に見えてしまうでしょうね。まして、賞味期限が切れたからって、スーパーやコンビニの店員さんが、じゃんじゃん食べ物を捨てる様子を、この時のデモ隊が見たら発狂するでしょうね。

現代人の目から見ると、「朕はたらふく食ってるぞ」とのたまうデモ隊の主張はおかしいって思うかもしれないが、毎日食べることさえままならなかった生活を過ごしてきた人たちからみたら、天皇の食事の献立をみて、とんでもない!って思ったのかなって。




昭和天皇のお食事 (文春文庫 わ 14-1)
渡辺 誠
文藝春秋
2009-01-09






※1 非合法の自由市場。並んだ品物は飛ぶように売れた。闇市はヤクザが仕切っており、この闇市でもうけたお金で、のし上がった組も少なくない。たとえば関東尾津組の組長の尾津喜之助は、新宿の区画に闇市を開き、尾津マーケットと呼ばれた。「光は新宿より」というキャッチフレーズで、約7万人の商店主および商店関係者を傘下に収め隆盛を極めた

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まずは、この写真。有名ですよね。マッカーサーと昭和天皇のツーショット。この写真は新聞に掲載され、その新聞を見た日本人は衝撃を受けたのです。今までは現人神として崇めていた天皇が正装とはいえ、平民と同じようなモーニングを着てかしこまっている。一方のマッカーサーはよく言えばリラックス、悪く言えば我がもの顔をしてふんぞり返っている。両国の力関係を感じさせる写真でした。そして、日本は負けたのだと改めて国民に再認識させるほどのインパクトがこの写真にありました。「いいや、昭和天皇は正装をしているのに、マッカーサーはラフな格好で礼儀を知らない、むしろ昭和天皇のすばらしさを物語る写真だ」という意見もありますが、終戦まで日本国民が現人神として昭和天皇の写真に礼をしていたことを考えると、これは大変なことなんですね。この写真はマッカーサーと昭和天皇の第一回の会見のときに撮られました。第一回ということは、何度も会見があったってことですが、そのマッカーサーと昭和天皇の会見はなんと11回も行われたのです。


日本がポツダム宣言を受けいれた最大の理由は国体の護持、つまり天皇制の存続でした。


またマッカーサーは天皇の権威を利用して、占領政策を進めようとしたのです。その一環としてマッカーサーは天皇と会う必要があると考えたのです。敗戦のみじめさを日本に思い知らせようと天皇を呼びつけようという連合国側であったのですが、マッカーサーは、「天皇を呼びつければ、天皇を国民の殉教者に仕立てあげるようになる」と言って反対。つまり、国民の反感を買って今後の占領がやりにくくなることを恐れたのでしょう。こうした日米のおもわくがマッカーサーによる天皇呼び付けに繋がりました。 



1945年(昭和20)の9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館に到着します。そして、マッカーサーの部屋に通されました。天皇のお供をしたのは通訳ただ一人。天皇が入るなり、マッカーサーは迎え入れ、すぐに写真撮影に入ったのです。撮影をするなんて天皇は全く知らなかったので、天皇もびっくりしたのです。だから、天皇も戸惑い、三枚写真を撮って、その三枚目でやっと天皇は体勢を整えることができたとのこと。


2人のツーショットは翌日(28日)の新聞で掲載される予定でした。しかし、時の内務大臣の山崎巌が「不敬フケイだ!」と激怒。結局、28日の新聞にはマッカーサーと天皇の写真は載らなかったのです。それに怒ったはGHQ。依然として日本に旧体制のものがいるとして、言論に関する一切の制限令を撤廃テッパイさせたのです。

そして結局、9月29日の新聞に2人の写真は載ったのです。

話を9月27日の天皇とマッカーサーの会談の日に戻します。写真撮影が終わってから、2人は会談をします。開戦のことと、それからポツダム宣言の履行の確認です。会談の途中、マッカーサーは不安になったのです。天皇が戦争責任を逃れようと、あれこれ言い訳をするのではないかって。

ところが、天皇はマッカーサーが思いも寄らない言葉を述べられたのです。


「私は国民が戦争遂行にああって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお訪ねした」


つまり戦争責任は自分にあると天皇は述べられたのです。この天皇のお言葉にマッカーサーはいたく感動。「責任を受けようとするこの男気に満ちた態度は私の骨の髄まで揺り動かした。天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士しんしであることを感じた。」

会見は予定より大幅にオーバーしたといいます。会見が終わって、マッカーサーは大使館の玄関まで天皇を見送ったといいます。

しかし、連合国側には天皇を裁判にかけ、戦犯として裁くべきだという意見も根強かったのです。マッカーサーは考えました。天皇を告発したら、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊はそのまま日本の崩壊につながると考えましたし、もしそんなことをすれば日本各地でゲリラ戦が起こる恐れもあると。それで、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀長官に「過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからない」と伝え、天皇は無実であるとしました。

マッカーサーは天皇を無実にするために色々と工作をしたといいます。


  • 人間宣言をさせることで、新たな天皇像を作りあげ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとした。


  • マッカーサーはキーナン首席検事とともに、天皇をさばかれないことを前提に裁判を進めるよう他国に説得をし、同意を求めた。


「人間宣言」とは、1946年(昭和21)の元旦の新聞紙上で、昭和天皇の詔書が発表し、天皇が自ら人格性を否定したこと。日本人は衝撃ショウゲキを受けましたが、これにより天皇が独裁者であるというイメージは崩れたのですね。


しかし、そんなマッカーサーの様々な工作を水の泡にさせるようなことを言ってしまった人物がいました。

東條英機です。


東條英機は、「自分は陛下の命令に反いたことがない」と裁判で発言。これでは、天皇の命令で戦争がおこわなわれたことになります。そこでマッカーサーは東條の知人を通して、天皇に責任はないと発言するよう説得。そして東條はしぶしぶ「陛下は責任がない。全責任は私にある」と発言。

1946年(昭和21)10月16日にマッカーサーと天皇の第3回目の会見が行われました。その時は大日本帝国憲法に変わる新しい憲法が作られている時期でした。新憲法は、民主化、封建社会の否定、そして戦争放棄が盛り込まれておりました。特に戦争放棄には天皇も賛同されたといいます。


ちなみに、日本国憲法が1946年(昭和21)11月3日に公布され、翌年の1947年(昭和22)5月3日に施行されました。

天皇とマッカーサーの会談は、1945年の9月27日から、1951年(昭和26)4月15日まで11回行われました。回を重ねることに、天皇とマッカーサーの信頼は深まり。マッカーサーも当初は皇帝(エンペラー)と呼んでいたのが、次第に陛下と呼ぶようになったといいます。ただし、マッカーサーは一度も皇居に訪れていないのですね・・・

そして1951年の4月16日、マッカーサーは日本を後にしまいた。その時、日本人20数万人が日の丸と星条旗を持って、マッカーサーの帰りを見守ったといいます。

のちにマッカーサーは「天皇は日本の精神的復活に大きな役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」と語っておりました。天皇の協力がなかったら、占領政策は失敗していたかもしれない。また、マッカーサーは天皇個人のことを「天皇は私が話し合ったほとんどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた」と高く評価。


昭和天皇も「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことが、国のためにも良かった。一度約束をしたことは必ず守る信義の厚い人だ。元帥としての会見は今思い出しても思い出深い」とマッカーサーを評されました。確かにマッカーサーではなく、スターリンや毛沢東が日本に来ていたら大変なことになっていましたね。毛沢東もスターリンも独裁的な手法で国民を苦しめたわけですから。

ただ、昭和天皇は「私が全責任をとる」といった証拠はないって意見もあるのですね。後から付け加えた話だって可能性もあるのです。東条英機が「「自分は陛下の命令に反いたことがない」」と裁判で発言したにも関わらず、マッカーサーが圧力をかけたのが気になります。東条英機からすれば「陛下が戦争をしろ」といったから従ったまでなのに、戦後になって昭和天皇に責任がないというのもおかしいって思った可能性もあるのです。いづれにせよ、昭和天皇の戦争責任を問わないほうが、統治するGHQとしてはありがたかったことは間違いないのですね。


*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。また、「図説マッカーサー」も参考にしました。

図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01











1 昭和天皇はクズ?









ネットを検索すると昭和天皇陛下のクズエピソードが結構出てきます。じゃあクズかといえば結論から言えばグレーです。完全に擁護はできないが、クズ断定まではできないんですよ。








昭和天皇の発言は『昭和天皇独白録』、『木戸幸一日記』や『杉山メモ』などに書かれておりますが、それらに書かれている昭和天皇の発言すべてが、本人自ら発した言葉なのかどうかわからないのですね。また自ら発した言葉であっても、官僚が書いた作文をただ読み上げただけかもしれない。





それに昭和天皇陛下といえば、「あ、そう」に代表されるようにベラベラしゃべる方じゃない。悪く言えば言葉足らず。だから、真意もろくに伝わらず、誤解する人間が出てきたり、周りの人間に脚色された面もあった可能性も否めないんです。








最近、真子さまが「自分たち(皇室の人間)が言ってもいないことを言ったかのように報道されている」って大変憤られてました。そのご発言をうかがった時、僕は、ああ、これが皇室の人たちの本音であり、昭和天皇陛下や上皇さまや美智子さまも含め皇室の人たちは長年それで苦しめられてきたんだなって思いましたね。






2 絶対君主制とは言えなかった大日本帝国

たとえば、1936年の2・26事件のあった直後の3月10日に昭和天皇は、寺内寿一陸相に訓戒の言葉をかけました。以下のとおり。





最も信頼せる股肱ここう(※1)たる重臣及大将を殺害し、自分を真綿にて首を締むるが如く苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。面して其行為たるや、憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭ちょくゆにももとり、国体を汚し、其明徴めいちょうを傷つくるものにして、深く之を憂慮す。此際このさい、十分に粛軍の実を挙げ、再び斯かる失態なき様にせざるべからず。






昭和天皇は2・26事件のことでたいそうお怒りで、青年将校のやったことは軍人勅諭にも違反しているし、昭和天皇を真綿で首をしめるのと同じだと大変手厳しい。ところが、実際の軍隊向けの訓示は以下のようになりました。





近来陸軍において縷々るる(※2)不詳なる事件を繰り返し、遂に今回の如き大事を惹き起こすに至りたるは、実に勅諭に違背し、此の際部内の禍根を一掃し、将士一致して各々其本務に専心し、再びかかる失態なきを期せよ。






最初、昭和天皇は強いトーンで陸軍の青年将校たちを批判されていたのに、この訓示は控えめなトーンになっております。陸軍の幹部たちは青年将校たちに同情しているものもすくなくなく、あわよくば、この若者たちのことを足掛かりに軍部の発言力を高めようと企てたものさえいたのです。そのせりか、昭和天皇がどれだけ怒っているか、いまいち伝わらないようなかんじになってしまったのですね。このように昭和天皇のお言葉も側近や官僚、はたまた軍部によって捻じ曲げられてしまうこともたびたびあったようです。




また、大日本帝国憲法はたしかに天皇に大きな権限を持たせたことに特徴がありますが、では、天皇がそれをいいことに好き勝手してよいかといえば、そうとも言えず、天皇といえど、やたらと口出しできなかったようです。昭和天皇が戦前ならびに戦時中に直接、政治的な発言をしたのは、総理大臣である田中義一を失脚させたことです。



ことの起こりは張作霖爆破事件。関東軍が張作霖を殺してしまい問題になったのです。ときの首相の田中義一は軍の責任者を一度は軍法会議にかけると言ったものの、陸軍の反発を買ってしまったんですね。田中は、それまでの態度をコロッと変えて、責任者も軽微な処罰で終わったのです。それに対し昭和天皇が田中首相にいった言葉が「辞表したらどうか」って。



そして、田中首相は総辞職。それから間もなくして、田中義一は突然亡くなってしまうのですね。心労で病気になったか、自殺したか、それとも暗殺されたか。いづれにせよ、早すぎる死でした。この突然の田中の死に昭和天皇も心を痛めたといいます。戦後になって昭和天皇陛下は「若気の至りだと今は考えている」って語られたとか。そして、戦後になってこのように回想されております。





この事件(田中義一失脚事件)あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した。










田中義一失脚事件以降、昭和天皇といえど内閣の意見に従わざるを得ず、逆に言えば、政治家や側近、軍部が天皇の威を借りて好き勝手できるようになったってことでしょうね。何か問題があったら、取り巻き連中は天皇のせいにして逃げることもできたってことでしょう。


3 世間とのずれ
 


ただ、戦後の行幸の際、家を失い、家族を失った子供にどこか他人事のようなことを言っているのは気になりました。申し訳ないが、あなたの終戦の決断がもう少し早ければ、この子の家も、そして家族も失わずに済んだのに。もちろん、昭和天皇はコミュ不足で、気の利いた言葉をかけてあげられなかったって見方もできますが、上皇様やいまの天皇陛下だったら、もっと優しい言葉をかけていたと思うし、「こんな目に合わせてしまって、本当に申し訳ない」って謝っていたと思います。

昭和天皇はたぶん悪気は無かったと思います。「こち亀」で中川が両津に、フェラーリに乗ったとか、100均なにそれ?みたいな発言など、さりげない庶民離れのセレブな言動が、両津に反感買われた、あの感じに似ている。

無理もありません。幼少の頃から山縣有朋や乃木希典あたりから、世界を束ねる神になれって叩き込まれ、庶民との接触も禁じられてきたのですから。

ダイアナ妃は幼少時のウィリアム王子をスラム街に連れてきて「これがイギリス社会の現実よ」って教えましたが、おそらく昭和天皇は、こういう教育を受けなかった、というより受けさせてもらえなかった。




(膝をつかれて国民と同じ目線に立つ天皇皇后両陛下ならびに上皇さま上皇后さま)





(ネトウヨらしき人の発言)

実際、上皇様やいまの天皇陛下は被災地ご訪問の際、普段着を着て、膝をついて国民と同じ目線を合わせておりますが、そうした天皇陛下のご姿勢は多くの国民から支持され、海外では「エンペラーが国民と同じ目線にいる」って大変驚き、称賛されています。けれど上皇様や天皇陛下の姿勢に批判をする保守言論人やネトウヨも少なくないのです。

何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であろうと車上であろうと良いのです。(江藤淳の発言)



これじゃあ、いくら天皇が国民に寄り添おう、配慮しようと思っても、それすら許してもらえないですね。


あくまで天皇は超然としていて一般国民と距離を置いているのが望ましいってことでしょうね。

こんな連中に囲まれたら昭和天皇も時々、「ん❓」って言動をされるだろうし、仮に本音を語られても、周りの人間に捻じ曲げられこともあるでしょう。

逆に上皇様や今の天皇陛下は周りに何言われようと国民に寄り添おうとされているんですね。












※1 もっとも頼りになる家臣の事


※2 しばしば






























* 参考文献







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