源義経の家臣である弁慶が怪力の持ち主だったのは有名な話。というか弁慶なる人物が実在したかどうかは疑わしいのですが、それはともかく置いておいて、奈良県の吉野にある吉水神社に弁慶の力釘というものがあります。
源義経は、源平の合戦で平家と戦い輝かしい活躍ぶりでしたが、平家が倒れたとたんに、兄の源頼朝から、義経は疎まれてしまったのですね。この時代は兄弟といえども油断ができない、下手すると自分の親兄弟に寝首をとられてしまう危険もある。寝首を取られるくらいなら、親兄弟といえど殺してしまおうと。そんな時代に生まれたことが頼朝・義経兄弟の不幸でもありましたが。頼朝に追われた、義経は吉野に身を寄せていました。それをしった頼朝の追手は吉野までやってきたんです。それで、吉水神社の前身である吉水院のお坊さんたちが義経をかくまったのですね。え、吉水神社の前身の吉水院ってどいうことかって?もともとは僧坊で、1300年以上前である天武天皇の時代(白鳳年間)に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した格式高い僧坊だったのです。
僧坊が神社となったのは、明治時代に行われた神仏分離によって、吉水院が後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから、明治八年に「𠮷水神社」と改められたのです。
頼朝の追手が吉水院までやってきて、「そこに義経がいるのはわかっている!出てこい!」ってさけんだのです。すると、弁慶が顔を真っ赤にして、そばにあった釘を二本手に取って、大声でさけんだのです。
「やあやあ、我こそは弁慶なり!力自慢をいたそうぞ」
それで、追手たちのすぐ近くにあった岩に、弁慶はなんと持っていた二本の釘を力を込めて、それも親指だけでうちこんだのです。ハンマーとか使わずにですよ。すごいですね。豆腐にくぎを打ち込むのとはわけが違います。追手たちは恐れをなして逃げ出したのですね。そんなバカな話あるもんかと思うかもしれません。しかし、弁慶の力釘の伝承は歴史的に根拠があったかどうかはべつにして、のちの時代まで語り継がれ、かの豊臣秀吉が、吉野に訪れ、弁慶の力釘にふれて、こういったといいます。
「力をもらいたい・・・力を!」って。