history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:山縣有朋


1 巨大派閥を作った

 山縣の葬儀には千人しか来なかった話は前回お話ししましたが、それでは山縣はそんなに友達がいなかったのでしょうか。友達と言ったらどうかはわかりませんが、山縣は巨大な派閥を作っておりました。山縣有朋が大きな派閥をつくることができたのは彼の人材活用法にありました。彼は人を用いるときは、まず色々な要務を命じて、その能力を判断し、それに応じた仕事をさせ、才能を磨かせて登用し、部下を切り捨てることはせず、逆に部下のなした仕事を生かしたといいます。山縣の配下にいた文部官僚からすれば自分がなした仕事が生かされ、そして論功行賞ロンコウコウショウで出世できるのだから、これ以上のことはなかったのです。だから官僚たちは山縣のためならばと忠誠を誓ったのですね。

一方で、山縣はよく言えば生真面目きまじめ几帳面きちょうめん、悪く言えば猜疑心さいぎしんが強く、人を信用しないところがあったのです。そういう彼の性格もまた嫌われた一因なのかもしれない。人間って生真面目な人より遊びがある人のほうが好かれますから。もっとも山縣もいったん親しくなると信用し相手のために一生懸命働く律義りちぎさも併せ持っておりました。そういう彼の律義さも派閥を作ることができた一因とも言えます。猜疑心が強いだけでは人はついてこないですから。また、意外にも山縣は召使にも優しく親切だったといいます。国民にはニコニコしていても秘書や召使に対しては横暴な態度をとる政治家は現代でも少なくありませんが、山縣のそういうところはえらいなと。

山縣が猜疑心が強くなったのは彼の悲しい生い立ちにありました。母を五歳の時に亡くし、父も若いころに亡くし、ほかにも松下村塾(*1)での同志だった久坂 玄瑞くさかげんずいそれから恩師だった吉田松陰と信頼していた人物を次々と亡くすのです。特に母の愛をほとんど知らずに育ったのです。母との思い出と言えば墓参りをした記憶くらい。母の代わりに山縣を育てたのは、祖母。祖母は厳格な性格で厳しく山縣を育てたのです。そんな祖母も山縣が28歳の時に近所の川に入水自殺じゅすすいじさつをしたのです。山縣が京都でプレゼントした着物を着て自殺。山縣もショックでしょう。また山縣は下級武士の子であり、いろいろな苦労もあったのですね。だからこそ徳川時代の身分制度は彼にとって許しがたいものであったのです。身分の低さのコンプレックスと自分と親しい人が次々と亡くなった体験が、彼の性格をねじまげたのかもしれない。


2 山縣が国民から嫌われた理由

 また、山縣は国民から嫌われた理由の一つは彼には何かと黒いウワサが付きまとったことや徴兵制をどうにゅうさせたこともあると思う。たとえば山城屋事件。明治5年(1872)。事件を起こしたのは元長州藩の奇兵隊きへいたい(※2)員で山縣の部下だった山城屋和助。彼は貿易商となっていたのです。当時、兵部省ひょうぶしょう(※3)のお偉いさんだった山縣有朋の引き立ててで兵部省の御用商人となって大儲けをしたのです。そんな山城屋も生糸の投資で大失敗。その損害を陸軍省の公金を貸して助けたから、さあ大変。陸軍省から山城屋への貸付総額は65万円。現在の価値でなんと約130億円!!これはひどいですね。山縣の個人的な関係で公金を一商人をたすけるために使ってよいのか。さらに公金を貸し付けた代償として、山城屋が山縣にわいろを贈ったのではないかというウワサまで。そのことは政府の間でも批判がでてくるのです。結局、山城屋は自殺、山縣は兵部省の役職を辞職。しかし山縣はわずか二か月で陸軍卿りくぐんきょうになったのです。これは陸軍のトップという役職です。これは山縣なしでは日本陸軍の創設が遅れると当時の政府のものたちが考えたのでしょう。

そして山縣は徴兵制を導入させたのです。当時の新政府の軍隊は長州ちょうしゅう薩摩さつまなどからの兵の寄せ集めでした。山縣が西洋諸国で兵制を視察や、奇兵隊の時の経験に基づいていたが、武士の特権的身分の打破という意味合いもあったのですね。当然、武士だった人たちは当然反発したし、徴兵制で兵士にとられる庶民たちもたまったものではありません。当然、山縣は人々を敵に回してしまうのですね。


さらに明治10年(1877)に西南戦争が起こるのです。西郷隆盛をリーダーに薩摩の不平士族たちが政府にケンカを売ったのです。これを鎮圧したのが山縣有朋。山縣は西郷を嫌うどころかむしろ維新の同志として尊敬しており、「この挙兵はあなたの意志ではないとわかっている。あなたの決断でこれ以上の犠牲者ぎせいしゃを増やさないことはできるはず」と西郷に書状を贈ったほど。戦争に負けた西郷は自害。自害の知らせを受けた山縣は涙を流したとか。しかし、西郷は国民的人気が高かったのですね。その西郷を死に追いやったということで、山縣の人気はますます下がったのですね。内乱を治めるため仕方がなかったのですが。この時代にSNSがあったら、山縣の公式ツイッターやサイトはすげえ炎上していたでしょうね。

山縣は伊藤博文内閣では内務大臣として地方行政を整え、総理大臣も二度も務めたほどのやり手で明治天皇の信頼も厚かったのですが、国民の人気は低かった。特に二度目の総理との時は地租増徴じそぞうちょうつまり増税、それから悪名高い治安警察法ちあんけいさつほうも導入も嫌われた理由の一つ。当時盛んだった自由民権運動を取り締まる法律でしたが、のちにこの法律で労働運動や女性の政治参加を禁じたりするようになりました。僕は中学の時に日本の三大悪法(※3)の一つとして習いました。

3 山縣は国民を愛していた
 では山縣自身は国民を嫌っていたかと言えば、そうでもないのです。むしろ愛していたのです。ただし、山縣が愛したのは額に汗して働く農民や職工、戦争のためには命を投げ出して戦う兵隊を山縣は愛したのです。つまり国家のために尽くす民衆を山縣は愛したのです。これに反して政府に反抗し、政府を、下手すりゃ自分を批判する人々は山縣にとって許しがたい存在でした。だからこそ治安警察法を導入させたり、「教育勅語きょういくちょくご」の制定にもかかわったのですね。教育勅語は道徳的に素晴らしいとよく言われるけれど、悪く言えば国家にとって都合の良い人材を育てる訓示、『女王の教室』に出てくる鬼教師の言葉を借りれば、「会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、戦争が始まったら、真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。」という国家の本音がにじみでているのですね。

山縣は非常にまじめで信念の人でした。ただ、日本という国家の未来をあまりに案ずるばかりに、国家を構成する国民の一人一人の命を置いてけぼりにする面もあったなって。国だけでなく国民に対する慈愛ややさしさもあれば、彼の評価ももっと変わっていただろうと僕は思ってしまいます。




※ この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。また、こちらの本も参考にしました。




※1 もともとは吉田松陰の叔父がつくった私塾。吉田松陰が受け継ぎ、高杉晋作や伊藤博文など維新で活躍した志士たちを多く輩出した。山縣は二十歳のときに松下村塾に入り、塾長の吉田松陰に学び仲間たちと切磋琢磨した。

※2 高杉晋作がつくった軍隊。長州藩の正規の軍隊ではないが、討幕軍の主力として活躍。山縣有朋も所属していた。隊員の30パーセントが庶民。

※3 三大悪法は、鎌倉時代の徳政令、江戸時代の生類憐みの令、それから明治の治安警察法と僕は学校で習いました。。

誰も書かなかった安倍晋三 文庫版
谷口 智彦
飛鳥新社
2020-11-20



安倍晋三あべしんぞう元総理が亡くなって半年以上たつのですね。月日の早さを感じます。安倍さんが亡くなった話はもっと早い段階で取り上げようと思ったのですが、が明けて、しばらくたってからにしようと思い今の時期に語らせていただきます。本当に痛ましい事件で、このようなことが今後あってはならないと思います。今更ではありますが、ご冥福めいふくをお祈りします。

さて、昨年の秋に安倍晋三元首相の国葬が行われました。国葬が行われたのは吉田茂以来というからすごいなって。その国葬の弔辞ちょうじ菅義偉すがよしひで元首相が引用したのが山縣有朋やまがたありともの残した詩でした。それは

「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

これは伊藤博文が暗殺されたときに、山縣が詠んだもの。先立たれた伊藤の死を悲しむとともに、自分はこの世をどうしたらよいのかわからないという思いをつづったものです。おそらく菅元総理の心情とぴったりだったのでしょう。安倍晋三元総理は生前、山縣有朋のことが書かれた本を読んでおり、ちょうど同じようにテロで亡くなった盟友をしのび、菅元総理はこの詩を弔辞で読んだのでしょう。

それでは、その山縣は政治家としてどのような人物だったのでしょうか。

伊藤と山縣は同じ長州出身であり、盟友めいゆうでもありました。ただ政治的には対立することがあったといいます。特に二人が争ったのは政党政治。伊藤は政党政治推進派、山縣は政党政治反対派。もちろん、ふたりは政党の未熟であり、政党政治家に政治を完全に任せるのは危険だとう考え方は共通しているのです。要するに政党政治家は政策立案能力もなく、海外情勢や軍事にも疎い素人しろうとが政治にかかわるのは危険だという認識です。また政党政治家は私的な利益を求め国家全体を見ていないとも山縣も伊藤も思っていたのです。

ただ、二人の違いは伊藤は未熟みじゅくだからこそ自分たちが育てていかなくてはならないという考え方。一方の山縣は未熟だからこそ政党政治家に政治を任せてはダメという考え方。そんな山縣も政党政治の権化でもある原敬のことは高く評価。「原と自分とは何ら意見の異なるものなし、ただ原は政党を大多数となしてしこうして政党の改良を図るとふも(中略)自分は反対なり。れ一事を除きては何等異なることなし」(『原敬日記』より)というほど。ともあれ、山縣と伊藤は政治的には対立していたけれど、憎しみあったわけではなく、お互いのライバルとしてみなしていて認め合っていたのです。その伊藤がいなくなって山縣はショックを受け、このような詩を詠んだのでしょう。


その山縣ですが、何かと民衆の敵と言われがちです。山縣が亡くなり、大正11年(1922)2月9日に日比谷公園にて国葬が行われました。が、参列者はなんと千人ばかり。二度も総理大臣を務め、さらには軍を育て、元勲として日本の政治に大きな影響を及ぼした人物にもかかわらず。しかも弔問ちょうもんに来たのは軍部の関係者ばかり。政府の関係者はほとんど来なかったのです。当初は一万人は来るだろうといわれていたのに、このありさま。当時の新聞は「民抜きの国葬」と皮肉ったほど。また、当時ジャーナリストだった石橋湛山(のちの首相)は「死も、また社会奉仕」って言ったほど。つまり、「山縣が死んでくれてよかった」っていうことでしょう。


山縣は山縣閥と呼ばれるほどの巨大な派閥はばつをつくり、政界や軍部の関係者はもとより、学界、貴族院、司法省にまで及んだといいます。その山縣閥は、日本の政治史上最大と言われ、吉田茂や田中角栄の派閥など遠く及ばないといわれるほど。それくらいの幅広い人脈をもっておりながら、1000人足らずはさみしい限り。山縣の国葬とちょうど同時期に、大隈重信も亡くなり国民葬が行われたのですが、その参列者はなんと30万人。えらい違いですね。山縣は国民から相当嫌われていたのですね。次回のエントリーで山縣が嫌われる理由をお話しします。

このページのトップヘ