history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:安倍晋三

安倍晋三元総理が亡くなって、来月ではや2年になるのですね。月日の経つのは早いなって。安倍元総理は山上被告に襲撃されましたが、その山上被告に「完全責任能力がある」ということで精神状態をとわないということになりました。日本の刑法では精神がおかしい人は罪に問われないことになっているのですが、精神が正常だろうが、おかしかろうが人を殺したら犯罪だし、きちんと司法で裁くべきだと僕は思うのです。



安倍元総理はとにかくアベガー左派に嫌われており、襲撃した山上被告を英雄視し、映画まで作ったほど。いったい何を考えているんだか。安倍元総理の死で、統一教会の問題が明るみに出たり、いろいろな不正があかるみになったから、山上容疑者は救世主だって意見もあります。が、本来、これらの問題は野党とかマスコミが徹底的に追及すべき問題だったのですね。それが野党もマスコミも及び腰で、対立しているようで、地下水脈では自民党とズブズブ、そんな状況が続いていたのですね。




さて、今回の山上被告のことなのですが、正直、残念で仕方がありません。道を誤らなければ、もっと社会で貢献できたと思うのに。そう思うとやり切れません。学生時代は成績もよく、バスケ部に入っていてスポーツとかもできる出木杉くんタイプだったそうです。バスケ部でも、走り込みや腹筋などきついトレーニングをしてレギュラーを勝ち取ったほどの頑張り屋さん。

ネットじゃチー牛くんと言われていたけれど、自衛隊にも入っていたこともあって、結構がっちりとした筋肉質な体。それを40代になっても体型を維持している。僕なんか見たらうらやましいくらいのスペックですよ。しかも、山上被告は本来は家族思いでまじめな性格だったと聞きます。正直、もったいなあって思う。


山上被告が憎んだのは安倍元総理というより統一教会でした。統一教会に入会したのは彼の母親です。なんでも、山上被告の母親が大変苦労した人で、親兄弟の不幸、長男(山上被告の兄)の重病、そして夫の自殺。このような不幸が続けば、何かにすがり付きたくなるのが人情。しかし、そのすがりついた教えが間違っていた。信仰というのは人間の心を救ってあげるのが本来の在り方なのですが、人の弱みをつけこんで、お金をまきあげたり、修行だとか奉仕と称して信者さんをただ働きさせていると。そこまでくると、信仰ではなくブラック企業ですね。


信仰をもつこと自体は僕は悪いとは思いません。ただ新興宗教にあんまりはまりすぎると、本人はよいとしても家族が大変な思いをするんですね。特に親が新興宗教にはまりすぎて、多額なお布施をしたり、家を空けたりすると、家は貧しくなるし、子供もさみしい思いをします。そうなると、最悪、子供が不良になったりします。

1970年に起きた瀬戸内シージャック事件が好例です。この事件における犯人の川藤展久も母親が新興宗教の熱心な信者さんでした。父親が仕事、母親が家を空けることが多く、家には両親がほとんどいない状況で、川藤容疑者も小学校時代から家出や窃盗を繰り返して、悪さの限りを尽くした結果少年院に入りました。そして、とうとうハイジャック事件まで起こしてしまいました。川藤展久は射殺されましたが、母親が幼少期にもっと川藤を抱えていたら、もっと違った結末になっていたと思います。



誰も書かなかった安倍晋三 文庫版
谷口 智彦
飛鳥新社
2020-11-20



安倍晋三あべしんぞう元総理が亡くなって半年以上たつのですね。月日の早さを感じます。安倍さんが亡くなった話はもっと早い段階で取り上げようと思ったのですが、が明けて、しばらくたってからにしようと思い今の時期に語らせていただきます。本当に痛ましい事件で、このようなことが今後あってはならないと思います。今更ではありますが、ご冥福めいふくをお祈りします。

さて、昨年の秋に安倍晋三元首相の国葬が行われました。国葬が行われたのは吉田茂以来というからすごいなって。その国葬の弔辞ちょうじ菅義偉すがよしひで元首相が引用したのが山縣有朋やまがたありともの残した詩でした。それは

「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

これは伊藤博文が暗殺されたときに、山縣が詠んだもの。先立たれた伊藤の死を悲しむとともに、自分はこの世をどうしたらよいのかわからないという思いをつづったものです。おそらく菅元総理の心情とぴったりだったのでしょう。安倍晋三元総理は生前、山縣有朋のことが書かれた本を読んでおり、ちょうど同じようにテロで亡くなった盟友をしのび、菅元総理はこの詩を弔辞で読んだのでしょう。

それでは、その山縣は政治家としてどのような人物だったのでしょうか。

伊藤と山縣は同じ長州出身であり、盟友めいゆうでもありました。ただ政治的には対立することがあったといいます。特に二人が争ったのは政党政治。伊藤は政党政治推進派、山縣は政党政治反対派。もちろん、ふたりは政党の未熟であり、政党政治家に政治を完全に任せるのは危険だとう考え方は共通しているのです。要するに政党政治家は政策立案能力もなく、海外情勢や軍事にも疎い素人しろうとが政治にかかわるのは危険だという認識です。また政党政治家は私的な利益を求め国家全体を見ていないとも山縣も伊藤も思っていたのです。

ただ、二人の違いは伊藤は未熟みじゅくだからこそ自分たちが育てていかなくてはならないという考え方。一方の山縣は未熟だからこそ政党政治家に政治を任せてはダメという考え方。そんな山縣も政党政治の権化でもある原敬のことは高く評価。「原と自分とは何ら意見の異なるものなし、ただ原は政党を大多数となしてしこうして政党の改良を図るとふも(中略)自分は反対なり。れ一事を除きては何等異なることなし」(『原敬日記』より)というほど。ともあれ、山縣と伊藤は政治的には対立していたけれど、憎しみあったわけではなく、お互いのライバルとしてみなしていて認め合っていたのです。その伊藤がいなくなって山縣はショックを受け、このような詩を詠んだのでしょう。


その山縣ですが、何かと民衆の敵と言われがちです。山縣が亡くなり、大正11年(1922)2月9日に日比谷公園にて国葬が行われました。が、参列者はなんと千人ばかり。二度も総理大臣を務め、さらには軍を育て、元勲として日本の政治に大きな影響を及ぼした人物にもかかわらず。しかも弔問ちょうもんに来たのは軍部の関係者ばかり。政府の関係者はほとんど来なかったのです。当初は一万人は来るだろうといわれていたのに、このありさま。当時の新聞は「民抜きの国葬」と皮肉ったほど。また、当時ジャーナリストだった石橋湛山(のちの首相)は「死も、また社会奉仕」って言ったほど。つまり、「山縣が死んでくれてよかった」っていうことでしょう。


山縣は山縣閥と呼ばれるほどの巨大な派閥はばつをつくり、政界や軍部の関係者はもとより、学界、貴族院、司法省にまで及んだといいます。その山縣閥は、日本の政治史上最大と言われ、吉田茂や田中角栄の派閥など遠く及ばないといわれるほど。それくらいの幅広い人脈をもっておりながら、1000人足らずはさみしい限り。山縣の国葬とちょうど同時期に、大隈重信も亡くなり国民葬が行われたのですが、その参列者はなんと30万人。えらい違いですね。山縣は国民から相当嫌われていたのですね。次回のエントリーで山縣が嫌われる理由をお話しします。

よくネットで後藤田正晴が、生前に安倍晋三元首相を批判し、「安倍晋三だけは総理にしちゃいかん」といったと拡散されておりますが、結論から言えば、

そんなことは一切言っていません。ガセネタです。

後藤田正晴が批判したのは菅直人元首相。後藤田は生前、「菅だけは絶対に総理にしてはいかん」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」とおっしゃっていたそうです。つまり、ネットでは菅直人のところを安倍晋三に変えられて、後藤田が「安倍だけは総理にするな」と言っていると広まってしまったのですね。



後藤田正晴が安倍元総理のことをどう思っていたのか知りませんが、安倍元総理の祖父である岸信介のことは、その能力を高く評価しておりました。ただ、戦争に対する反省がないという点は残念だったと。また、後藤田は、「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者が日本の首班になることに対しては疑問があったとのこと。

また、後藤田正晴と安倍元総理の思想は真逆だったのは間違いないでしょう。中曽根康弘内閣のころ、後藤田正晴は官房長官を務めました。アメリカの要請を受けて、自衛隊をペルシャ湾派遣しようとしたところ、閣僚でただ一人に反対し、中曽根に「閣議ではサインしません」と迫って派遣を断念させました。また、海部俊樹が首相のころ、海部総理もっと言えば自民党の小沢一郎幹事長らがイラクに自衛隊を派兵しようとしたところ、海部に詰め寄って反対したくらいです。戦争の恐ろしさを身をもって体験しているからこそ出来た行動ですね。



安倍晋三元総理を父親の安倍晋太郎も批判したとネットで言われております。安倍晋太郎はかつて晋三に「お前には政治家として最も大事な情がない」と言ったとか。まるで実の息子を政治家としてではなく、人間的にも嫌うような言い方ですね。ただ、それはないと思います。むしろ、安倍晋三が長年政治家としてやっていけたのも、安倍晋太郎の存在は大きかったと思う。

安倍晋太郎は放任主義で、無理をして政治家になる必要はないし、好きなことをやった方がいいという考え方だったそうです。ある時安倍晋三が政治家になりたいと言い出して、それで安倍晋太郎さんが安倍晋三に「政治家になりたいなら秘書官になれ」といったとか。安倍晋太郎の死後、彼の地盤を引き継いで、安倍晋三は政治家になったのです。安倍晋三が長く当選できたのも安倍晋太郎を慕って投票した地元の人たちの存在も大きいのです。

ただ、安倍晋太郎と安倍晋三の思想もこれまた違っていたのも紛れもない事実。安倍晋太郎は記者に「俺は外交はタカだが、内政はハトだ」と常々話していたが、「岸の娘婿」と呼ばれることを快く思わず、むしろ「俺は安倍寛の息子だ」と誇らしげに語ったといいます。義理の父の岸信介よりも実父の安倍寛を尊敬していたのです。安倍寛は反戦政治家で戦時中、軍部を非難したことで有名ですから。また、安倍晋太郎は、「二度と戦争をしてはいけない。平和は尊い。それが生き残った我々の責任だ」と語ったとか。

安倍晋三は父である晋太郎のことは尊敬していたはずです。ただ、父と違い母方の祖父の岸信介のことを尊敬しておりました。そこは違うところでしょう。



後藤田正晴も安倍晋太郎も安倍晋三の人格攻撃はしておりません。ネットでありきたりのガセです。ただ、二人とも安倍晋三との政治のベクトルは真逆だったことは紛れもない事実です。



*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05



「安倍晋三」大研究
望月衣塑子&特別取材班
ベストセラーズ
2019-05-26



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