http://seimei1128.livedoor.blog/archives/9589081.html
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前編
前回の続きです。それでは、はりきって後編にいきましょうw
1 お・も・て・な・しの元祖
大山は陸軍卿として軍隊の強化を行っていました。しかし、厳しい訓練だけでは軍はつよくなりません。西洋から優れた軍事物資を取り入れる必要があります。そのためにも欧米とも仲良くならなくてはなりません。
那須の塩原に大山の別荘があるのですが、ここで各国の要人をもてなしたといいます。捨松は国ごとの作法でもてなし、パーティーを取り仕切ったといいます。イスやテーブルなどの調度品もアメリカから取り寄せてたといいます。欧米の要人たちがまるで母国のようにくつろいでもらいたいという捨松の配慮でした。
そんな彼女のおもてなし術は新政府の眼にとまります。ちなみに、おもてなしとは、表がないという意味ではありませんのでw。滝〇ク〇ス〇ルさんもおっしゃっていましたね。
明治政府は鹿鳴館をつくりました。政府は不平等条約を改正させるため、夜な夜な各国の要人を鹿鳴館に招いて、ダンスパーティーを開いたのです。日本が文明国であることを証明しようとしたのです。けれど、当時の人たちは西洋のもてなし方など知らなかったのです。そんな中、捨松は本場仕込みの巧みなダンスのステップと語学力で各国の要人をもてなしました。各国の要人たちは捨松のエレガントな立ち振る舞いを称賛。捨松は「鹿鳴館の華」とも呼ばれました。
2 看護学校
そんな捨松は看護学校の必要性を考えていました。実は捨松は大学を卒業後、半年くらい看護学校に通っていたのです。ある時有志共立東京病院(いまの東京慈恵会医科大学を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることにおどろきます。そこで元海軍軍医総監で院長の高木兼寛男爵に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。しかし看護学校をつくるにもお金がありません。
それで捨松はチャリティーバザーを開いて、その売り上げを看護学校の設立資金にあてようとしたのです。そして鹿鳴館を会場に日本初のバザーが開かれました。そのバザーには皇室の関係者がくるなど、すごいもので、3日間で一万人も集まったとか。集まった金額は現在の価格で一億円だとか。すごいですね。この資金をもとに有志共立東京病院看護婦教育所を設立しました。これは日本初の看護学校でした。
これは捨松がアメリカでの経験もそうですが、幼少時の会津戦争での経験も大きいと思われます。照姫という会津藩主の義理のお姉さんが、籠城戦で場内の女性や子供を指揮したのですが、照姫がうちかけを傷ついた兵士にかけてあげたりするなど、身分の差を超えて看護をする姿をみたのです。それで、彼女は看護学校をつくることの必要性をかんじたのですね。
3 慈善活動そして津田塾
明治37年(1904)、日露戦争がおこります。大山巌は満州軍総司令官に任命されます。95万の兵士を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。戦争中、捨松は出征兵士たちの家族を支援する活動をしたといいます。働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯をする仕事を与えたり、母親が働きやすいように無料の託児所をつくっていたそうです。
そして総司令官の妻として何よりも大切なことは戦死者の遺族を慰問することでした。捨松は幼少のころに、会津戦争で多くの死を目の当たりにし、戦争で亡くなった遺族のつらさを身をもって経験していました。だからこそ、彼女は慰問活動を大切にしたのでしょうね。
また、小平市にある津田塾大学ですが、この大学の前身、女子英学塾をつくったのが津田梅子ですが、捨松もこの学校設立の際に全面的な協力をしたそうです。この英学塾の顧問に捨松が就任。梅子のために資金集めなどで協力したのです。また、捨松の親友のアリス・ベーコンを英語教師として招聘しました。アリスはなんとボランティアで教師を務め、津田梅子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど、貢献は大でした。できる事じゃないですよね。
捨松の長年の夢がかなったのですね。晩年の捨松と大山巌夫妻は那須塩原の別荘で静かな余生を過ごしたといいます。その時の心境を捨松はアリスに手紙でつづりました。「親愛なるアリス、私は自分の生活が今とても幸せであることに心から感謝をしています。夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました。あなたの親友捨松より」と。
大正8年(1919年)2月18日)、捨松は亡くなります。捨松は愛する伴侶、巌とともに那須の地で今も眠っています。
※ この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。
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前回の続きです。それでは、はりきって後編にいきましょうw
1 お・も・て・な・しの元祖
大山は陸軍卿として軍隊の強化を行っていました。しかし、厳しい訓練だけでは軍はつよくなりません。西洋から優れた軍事物資を取り入れる必要があります。そのためにも欧米とも仲良くならなくてはなりません。
那須の塩原に大山の別荘があるのですが、ここで各国の要人をもてなしたといいます。捨松は国ごとの作法でもてなし、パーティーを取り仕切ったといいます。イスやテーブルなどの調度品もアメリカから取り寄せてたといいます。欧米の要人たちがまるで母国のようにくつろいでもらいたいという捨松の配慮でした。
そんな彼女のおもてなし術は新政府の眼にとまります。ちなみに、おもてなしとは、表がないという意味ではありませんのでw。滝〇ク〇ス〇ルさんもおっしゃっていましたね。
明治政府は鹿鳴館をつくりました。政府は不平等条約を改正させるため、夜な夜な各国の要人を鹿鳴館に招いて、ダンスパーティーを開いたのです。日本が文明国であることを証明しようとしたのです。けれど、当時の人たちは西洋のもてなし方など知らなかったのです。そんな中、捨松は本場仕込みの巧みなダンスのステップと語学力で各国の要人をもてなしました。各国の要人たちは捨松のエレガントな立ち振る舞いを称賛。捨松は「鹿鳴館の華」とも呼ばれました。
2 看護学校
そんな捨松は看護学校の必要性を考えていました。実は捨松は大学を卒業後、半年くらい看護学校に通っていたのです。ある時有志共立東京病院(いまの東京慈恵会医科大学を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることにおどろきます。そこで元海軍軍医総監で院長の高木兼寛男爵に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。しかし看護学校をつくるにもお金がありません。
それで捨松はチャリティーバザーを開いて、その売り上げを看護学校の設立資金にあてようとしたのです。そして鹿鳴館を会場に日本初のバザーが開かれました。そのバザーには皇室の関係者がくるなど、すごいもので、3日間で一万人も集まったとか。集まった金額は現在の価格で一億円だとか。すごいですね。この資金をもとに有志共立東京病院看護婦教育所を設立しました。これは日本初の看護学校でした。
これは捨松がアメリカでの経験もそうですが、幼少時の会津戦争での経験も大きいと思われます。照姫という会津藩主の義理のお姉さんが、籠城戦で場内の女性や子供を指揮したのですが、照姫がうちかけを傷ついた兵士にかけてあげたりするなど、身分の差を超えて看護をする姿をみたのです。それで、彼女は看護学校をつくることの必要性をかんじたのですね。
3 慈善活動そして津田塾
明治37年(1904)、日露戦争がおこります。大山巌は満州軍総司令官に任命されます。95万の兵士を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。戦争中、捨松は出征兵士たちの家族を支援する活動をしたといいます。働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯をする仕事を与えたり、母親が働きやすいように無料の託児所をつくっていたそうです。
そして総司令官の妻として何よりも大切なことは戦死者の遺族を慰問することでした。捨松は幼少のころに、会津戦争で多くの死を目の当たりにし、戦争で亡くなった遺族のつらさを身をもって経験していました。だからこそ、彼女は慰問活動を大切にしたのでしょうね。
また、小平市にある津田塾大学ですが、この大学の前身、女子英学塾をつくったのが津田梅子ですが、捨松もこの学校設立の際に全面的な協力をしたそうです。この英学塾の顧問に捨松が就任。梅子のために資金集めなどで協力したのです。また、捨松の親友のアリス・ベーコンを英語教師として招聘しました。アリスはなんとボランティアで教師を務め、津田梅子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど、貢献は大でした。できる事じゃないですよね。
捨松の長年の夢がかなったのですね。晩年の捨松と大山巌夫妻は那須塩原の別荘で静かな余生を過ごしたといいます。その時の心境を捨松はアリスに手紙でつづりました。「親愛なるアリス、私は自分の生活が今とても幸せであることに心から感謝をしています。夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました。あなたの親友捨松より」と。
大正8年(1919年)2月18日)、捨松は亡くなります。捨松は愛する伴侶、巌とともに那須の地で今も眠っています。
※ この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。
