history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:大原騒動

これだけ悪いことばかりしていた、代官の大原彦四郎ですが、バチが当たらないのかって思いたくなります。今の日本と同じだなって。と言いたいところですが、大原一家に次第に不幸が訪れます。まず、前回の善九郎のお話と話が前後しますが、彦四郎の長男の大原勝次郎が同僚と言い争って、刀を抜き、誤って自分を傷つけ、出血多量でなくなったのです。大原一家に不穏な空気が立ち込めます。それでも大原彦四郎は農民たちの反対を押し切って検地を強行、飛騨は5万5千石に増石され、その功績で大原代官は郡代に昇格しました。郡代とは江戸幕府の天領を支配する地方官。代官よりも格が上で、今で言えば市長みたいなものでしょうか。

大原彦四郎は出世しましたが、彦四郎の妻は悩んでいたのです。今の夫の出世は農民たちの犠牲の上に成り立っているもの。素直に喜べません。また、息子の勝次郎に若くして死なれてしまい、追い詰められていたのですね。そして、彦四郎の妻は自害をするのです。夫の悪政を戒めるためだともいわれております。妻の突然の死に彦四郎もショック。彦四郎も翌年、眼病にかかり失明、そして次の年に原因不明の病気で亡くなってしまうのですね。大原家の次々とおこる不幸に、高山の町民たちは、農民たちにひどいことをした祟りじゃないかって噂をする程でした。

そんな彦四郎のあとを継いで、息子の亀五郎が郡代を継ぎました。普通、郡代は世襲制ではないのですが、亀五郎が、時の老中の田沼意次に賄賂を送って、郡代の地位を手に入れたといわれております。賄賂の金をつくるために、年貢の加納分まで手をつけたと言います。加納分とは、幕府から救助米があった場合とか、金納の値段が安くなった場合に、計算上年貢が収めすぎになった分で、本来は農民に返さなくてはいけないものです。それを着服したのだから、悪いやつだなって。しかも、悪いことに浅間山の噴火です。この影響で、気候不順と5年にも及ぶ全国的な大凶作が続いたのです。その被害は高山にも及びましたが、亀五郎は年貢を減らそうとしない。それどころか幕府から救済金が飛騨に給付されたのに、それを亀五郎は着服したとか。踏んだり蹴ったりの農民たちもとうとう立ち上がります。

そんな農民たちに思わぬ吉報が。1786年、10代将軍徳川家治が亡くなり、田沼意次が失脚したのです。大原亀五郎郡代の後ろ盾だった田沼がいなくなったので、農民たちはチャンスと思ったのです。また老中に就任したのは松平定信。彼は不正を嫌う人物だったので、まさに農民たちにとって追い風。早速、農民たちは江戸に行き、夜、松平定信の屋敷に行き、屋敷の門のところに張り紙をしたのですね。その張り紙には亀五郎の悪行がいろいろ書かれていたのですね。また農民たちは念には念を入れるべく、巡見使(※1)にも直訴したり、老中の松平定信にも駕籠訴を改めてしたり。そうした農民たちの働きもあって、大原郡代の取り調べが始まったのですね。松平定信は農民たちの声を無視せず聞き入れてくれたのですね。慌てた亀五郎は、偽の書類を作って取り繕うとしたのですが、結局、大原亀五郎は、八丈島に流罪が決定。一方、農民たちの判決は、首謀者のうち二人は取り調べ中に牢の中で死んでしまいましたが、後の人は、お叱りだけで済んだのです。お叱りは江戸時代の刑罰で1番軽いもの。幕府も農民たちがかわいそうだと思ったのですね。農民たちの長年の思いが報われた瞬間でした。農民たちの粘り強い努力があって、その願いが叶ったのですね。しかし、ここまでくるのに、さまざまな人の犠牲があったことも忘れてはいけないと思います。





※1 将軍の代変わりごとに派遣され、諸藩や天領の政治や民衆の様子などを視察する幕府の役人。


*参考文献






飛騨の代官、大原彦四郎は検地を強行しました。その検地はなんと80年ぶり。80年前の検地は、当時飛騨を治めていた大垣藩が行い、田の広さを狭く見積もってくれたので、農民も治める年貢も少なくて済んだのです。それが、幕府の直轄地になり、大原の時代になって検地をすることになったのです。その検地の結果、これまでの5割以上も収める年貢がアップするのです。これでは農民の生活も苦しくなります


それに黙っていないのは農民たち。検地の中止を求めて立ち上がったのです。高山の陣屋に農民たちは赴いて、大原に直訴。しかし、大原はまともに話を聞いてくれない。それで農民たちは駕籠訴カゴソこれは定められた手続きをしないで、いきなり大名なり、老中なり勘定奉行なり幕閣に訴えることです。しかし駕籠訴は御法度違反、罪は非常に重いです。今で言うなら、市長が市民税を大幅にアップすると言い出したので、市長に言ってもラチがあかないから、総理大臣とか法務大臣にメールなり手紙とかで直談判するもの。現在ではそんなことをしても罪になりません。首相官邸のホームページを見るとご意見募集なんてありますから(聞き入れてくれるかどうかは別)。

しかし、江戸時代ではそれだけで罪になる。考えられませんね。そして農民の有志六人がもしたのです。時の老中松平武元マツダイラタケチカが乗っている駕籠に近寄り、直接、老中に手紙を渡すと言うもの。かつて駕籠訴は佐倉惣五郎サクラソウゴロウもやりました。佐倉惣五郎といえば千葉県佐倉市の義民として名高いです。彼も困窮する農民を救おうと、時の将軍、徳川家綱に駕籠訴をしたのです。佐倉惣五郎の願いを家綱は聞き入れたのですが、将軍に直訴したと言うことで、佐倉惣五郎初め一家は処刑になりました。飛騨の農民たちも佐倉惣五郎の話はよく知っていたのです。駕籠訴なんてやったら、自分達が処刑になります。自分が死ぬのをわかっていながら、仲間を救おう、農民たちを救おうとする。駕籠訴をした六人は素晴らしい自己犠牲の精神の持ち主ですね。

農民たちが駕籠訴などをするものだから、流石の大原もキレたのですね。大原は農民たちの分断を行おうとしました。農民たちを集めて、駕籠訴をした六人は勝手に行動したのであって、彼らのやったことは農民たちの総意ではないと言わせたのですね。もし、駕籠訴をした六人に同情したものは処罰すると。いわゆる脅しです。そんな脅しに屈しなかったのが、善九郎という若者。彼は弁もたち、筆もたち、10代(18歳〜19歳くらい)の若さながら、いつのまにか農民一揆のリーダー的存在になったのです。彼は飛騨の小天狗といわれたほどでした。まず、農民たちがおこなったのは、津留ツドメ。これは物資の出入りを禁止させること。米や野菜、薪や炭が商人の手に届かなくなります。特に炭が入らなくなるのは飛騨の人たちにとって痛手。飛騨の冬は寒いですからね。江戸時代はエアコンや石油ストーブなんてありませんから、暖を取るには炭を燃やすしかないのです。炭屋さんも、炭を売りたくても、炭の仕入れができないから売ることができず困ってしまいます。困った町人や商人の中から、農民に味方をする人たちも出てくるのです。今でいうストライキですね。この時代にSNSがあれば、ネトウヨみたいな人が津留をする農民を叩くのでしょうけれど、この時代は農民に味方する人の方が多かったようですね。

そして、善九郎率いる農民たちが次に行ったのは強訴。大原に直談判したのです。大原は怒るばかり。結局、善九郎以下、一揆の首謀者たちは処刑されてしまいます。善九郎が処刑される際、彼が残した辞世の句がこちら。

寒紅カンコウは無常の風にさそわれて つぼみし花の 今ぞ 散り行く


意味は「寒中に咲く紅色の梅が、つぼみのまま風に吹かれて散っていくように、私も今はかなく散ってゆくのだ」。いい句ですね。善九郎は農民の若者ながら武士のようですね。そして、この句から死に行く悲しみが伝わってきます。


その善九郎ですが、死後、彼の供養塔を農民の有史が建てました。すると大原は、それを土の中に埋めろと命じたのです。かわいそうに。供養して悪いちゅうねん。それどころか、今後一切、処刑された農民の供養をしてはいけないと、きついお達しをしたのですね。ひどいですね。そんな勝手なことばかりする大原もいいことがないだろうなって。実際、大原一家に次々と不幸が訪れます。それは次回の記事で。

*参考文献






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(飛騨の陣屋)

今日から3回にわたって、飛騨高山で起きた一揆について触れます。いわゆる大原騒動と呼ばれ、なんと18年も続いたと言います。明和8年(1771)から寛政元年(1789)まで。農民と代官の戦いがそんなに長く続くとは驚きです。とは言いましても、18年間ずっと毎年のように一揆が続いた訳ではなく、18年の間に、大きな事件(一揆)が3度起こっているのですね。明和騒動、安永騒動、天明騒動と呼ばれております。この三つの騒動を併せて大原騒動というのですね。この大原騒動の主役というのが、代官の大原彦四郎並びに大原亀五郎親子です。この親子が悪代官で、領民を苦しめていたのですね。今日はまず明和騒動。時は、徳川家治の時代、田沼意次が権勢を奮っていた時代です。この頃の高山は天領、幕府の直轄地でした。元々、飛騨は江戸時代の初め、金森家が治めておりました。金森家は、織田信長の家臣だった金森長近が最初です。しかし、幕府が飛騨の豊かな山林資源に目をつけ、金森家を出羽国に移し、幕府の直轄地にしたのです。飛騨はお米が取れない分、林業が盛んだったのですね。農民たちは山へ入って木を切り出したり、運んだりする仕事で、賃金や米を得て、ようやく暮らすことができたのです。だから、年貢の取り立てが厳しくなると、農民たちの生活はたちまち苦しくなります。

そして12代目の代官が大原彦四郎です。明和3年(1766)に着任。元々は江戸勘定所の組頭役をやっておりました。優秀な男だが、銭勘定には厳しい。大原は着任するや、年貢の金納の期限を例年より二ヶ月繰り上げる命令を出し、1770年には地役人六人を転勤させます。地役人とは郡代、代官などが任地で採用した役人のこと。元々いた地役人を辞めさせ、自分の言うことを聞きそうな役人に変えたのでしょうね。そして農民たちにとって一大事が起こります。幕府の命令で山の木を切ることが禁じられてしまうのです。木を切り続ければ、山が荒れ、山の木々も枯れ果ててしまいます。そうなる前に、山を休めましょうというお達しなのです。しかし、木を切って生計を立ててきた農民たちには大変な痛手。まして、飛騨高山は米があんまり取れない土地。

しかも大原彦四郎は年貢の計算法を安石代ヤスコクダイから永久石代エイキュウコクダイに変えたのです。安石代は、隣国五ヶ所の相場の平均をとる方法ですが、実際は、農民に配慮して、年貢を安くしていたのです。だから、農民にとってはありがたい制度でした。しかし、永久石代というのは相場と関係なく、一定の石代を決めて毎年それに従う方法です。これは農民にとって不利です。不作だろうか豊作だろうが関係なく収める年貢は同じ。豊作なら良いが、不作だと大変。しかも何年も不作が続くことだってある。これでは農民は困ります。

そこで大原彦四郎は提案します。もう少し有利な石代にしたければ幕府の許しが必要。そのために、三千両用意しろというのです。三千両は大変な金額。なんでこんなに大金が必要かというと、大原は時の老中・田沼意次と繋がりがありました。田沼はワイロ政治で有名で、大原も田沼にワイロを送って取り入ろうとしたのですね。さらに大原は陣屋の修理や労働奉仕を命じるなど、農民の負担は増える一方。


大原の横暴にたまりかねた農民たちは12月11日、高山の国分寺に集まり、農民集会が行われました。集会に集まった農民たちは結束を高めました。そして、農民たちは高山の米商たちの家に押しかけ、打ちこわしを始めたのです。農民たちは大原代官ではなく、米商人を襲ったのでしょう?

実は高山の米商人たちも悪徳で、農民たちが反対して中止になっていた年貢米三千石の江戸直納をこっそり引き受けていたのです。しかも、他国の米を安く買い、それを飛騨の国の年貢だと偽り、それを江戸に送りもうけ、さらに飛騨の農民たちから搾り取った年貢米三千石を隠しておいて、高山の相場が上がったときに高く売り飛ばす魂胆だったのです。悪い奴らですね。悪徳商人に悪代官なんて、典型的な時代劇の世界ですね。

打ちこわしが終わってから、農民は、木材を切らせてくれ、収める年貢の利率を低くしてくれ、労役などを5年間くらいはやめてくれなどの要望を代官に提出。当然、大原は激怒。天領で打ちこわしなんてとんでもない、農民たちの要求なんて飲めるわけねえって。それでも、労役が中止、お救い米の制度も授けられ、一応騒動の決着もついたのです。しかし、首謀者たちは死罪や遠島になってしまったのですね。

*参考文献




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