history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:千葉卓三郎

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1935267.html
↑ 前回の千葉卓三郎とはどんな人物だったのでしょう?彼は旧仙台藩藩士せんだいはんはんし息子むすこでした。11さいのときに大槻 磐渓(おおつき ばんけい)という漢学者から学問を教わりました。

戊辰戦争ぼしんせんそうがおこると千葉は志願して仙台藩の兵士になりました。千葉が16歳のときです。しかし、仙台藩は新政府軍との戦いに負けてしまいます。

千葉が途方に暮れていたところに、運命的な出会いをします。キリスト教の布教をしていた酒井驚礼(さかいとくれい)です。千葉は酒井の話を聞き、目の前が開けたような気がしました。キリスト教の「人はみな平等だ」という教えに、感激したのでしょう。千葉は酒井のすすめで洗礼をうけました。

それから千葉は各地をわたり歩き、様々な学問を学び、一時は商人にもなったのですが、やがて五日市の五日市観能学校いつかいちかんのうがっこう(※1)の先生になりました。

千葉が五日市にきたころ、五日市に「学芸講談会がくげいこうだんかい」という学習結社が発足しました。この学習結社のメンバーは、神奈川県の県議会議員・土屋勘兵衛(※2 つつやかんべえ)の子分だった若者達が中心に、教師や役場や商店で働いている人たち、畑仕事をしている人たちまで参加しました。この若者達のなかに深沢権八(ふかざわげんぱち)という人物もいました。

千葉もこの学習結社に参加し、討論会とうろんかいをやったり、名の知れた民権家を呼んで講演こうえんを開いたり、本を読んだりしたそうです。

千葉は深沢権八らとともに五日市憲法草案いつかいちけんぽうそうあんをつくるためにはげみました。千葉卓三郎は、その草案を明治14年の10月の初旬に開かれる国会期成同盟(※3)の第三回全国大会に持ちよろうとしたのでしょう。

深沢と千葉たちは第三回全国大会に何とか間に合わせようとせっせと草案作りにはげみました。しかし、残された時間はあまりありません。そんな草案づくりと教師の仕事との二足のわらじをやっていた千葉ですが、突然とつぜん、千葉は五日市観能学校を退職たいしょくしました。これは憲法草案づくりに集中するためでもありますが、政府の通達つうたつ(※4)があったからだと思われます。

そして、千葉は「学校をやめた身で、これ以上五日市にとどまることはできない」と五日市を去りました。これには学芸講談会の仲間たちもおどろきました。特に深沢権八は、千葉のことを兄のようにしたっていたのでショックが大きかったようです。

千葉は東京府多摩郡奈良橋村とうきょうふたまぐんならはしむら(※5)に引っ越します。ここでも千葉は「どうしたら、すばらしい日本の憲法ができるか」を考えていました。千葉は新しい仕事につくことなく、ひたすら資料とにらめっこをし、条文を書いては手直し、そんなことをり返していました。

そんな千葉に良くないことが起こりました。それは明治14年の10月12日に政府が国会開設のみことのりが出てしまったのです。詔の内容は「欽定憲法きんていけんぽう(※6)を制定し、明治23年に国会を開くことを約束するよ」という内容です。

「なんだ、いい事ジャン」と思われるかもしれませんが、実はこの詔「オレたち(政府)が、天皇陛下の名のもとに憲法をつくってやっから、おマイら(民間の者)は、憲法草案なんかつくるんじゃねえ、政治活動なんかすんな」と言っているようなものです。

草の根の民権運動を行ってきた千葉にとってありがたいことではないのです。千葉だけでなく、日本各地でつくられた憲法草案は、検討けんとうされる機会も失いました。

このころ、千葉の体調も悪くなっていきました。千葉の病気は肺結核はいけっかくでした。明治のころの結核は不治の病でしたから・・・・

そんな千葉のもとに五日市から手紙がとどきました。深沢権八からです。手紙の内容は「五日市観能学校の校長になってほしい」というものでした。深沢をはじめ五日市の仲間たちが千葉の帰りを待ち望んでいたのです。持つべきものは友だちだねと言いたいところですが、千葉の病気は悪くなるばかり。それでも校長の仕事をなんとか続けていきました。

そして、千葉は明治16年に東京の病院で亡くなってしまいます。深沢ら仲間たちに見守られながら31さい生涯しょうがいでした。・・・・

さらに、千葉たちが必死になって作った憲法草案も深沢家の土蔵どぞうにおくら入り。戦後に憲法草案が発見されるまで、五日市憲法は日の目を見なかったのです・・・


※1 いまの東京都あきる野市立五日市小学校
※2 五日市の戸長をつとめた人物。戸長とは、今で言う市長みたいなもの。土屋はのちに神奈川県会議員も勤めた。五日市も昔は東京ではなく神奈川県だったとか。
※3 明治時代に日本の国会開設運動で中心的な役割を果たした政治結社。自由党の母体ともなった。
※4 「公立学校の教職員を官吏かんり(役人)と同等のあつかいにする」とう通達。一見いいことを言っているようだが、公立学校の教職員に政治活動をできなくするための意図がこめられている。
※5 現在の東京都東大和市

※6 天皇がさだめる憲法のこと
※ 参考文献


今日から、4回にわたって五日市憲法いつかいちけんぽうのお話をします。
五日市憲法とは、東京の五日市(※1)の民権家みんけんかたちがつくった憲法草案けんぽうそうあん(憲法の下書き、原案)のことです。今日は憲法のお話を続けましょう。




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