history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:加藤清正

1 実は滅亡していなかった加藤家
加藤家は徳川家光の代にほろんだイメージがあったのですが、子孫は残ったのですね。 加藤清正の子孫は今も日本各地に生き残っており、特に山形県に多いようです。末裔の方が酒蔵をやってらっしゃるとか。なぜ?山形県?熊本県や清正の出生の地、愛知県ならわかるが。それはのちのちお話します。

2 加藤忠広
 加藤清正の死後、清正の次男の加藤忠広が継いだのですが、清正が亡くなって間もなくして家臣たちが清正の亡骸を火葬するか、しないかでもめたのですね。つまらない理由でもめるなよって言いたいのですが、要するに清正の家臣団も一枚岩ではなく、派閥があったのですが、清正が生きているうちは表面化せず、死後になって噴出したのでしょうね。結局、火葬問題は加藤清正の妻である正応院の意向で火葬になりましたが。でも、そうした加藤家のゴタゴタを幕府が見逃すはずはありません。もともと、清正は豊臣側。徳川家にとっては目の上のたんこぶ。なんとか理由をつけてつぶしたい。しかも加藤忠広は徳川家光の弟の徳川忠長と親しい関係だったのです。実は家光と忠長は関係が非常に悪かったのですね。のちに家光も忠長を自害の追いやるのですが。そうしたことも家光にとって加藤忠広の存在は許しがたかったのでしょうね。

しかも、加藤忠広は領民からの評判もよくなくて、領民から年貢も不当に巻き上げていたといいます。

そして、加藤家は謀反の疑いで、おとりつぶしになったのです。加藤忠広は領土を失ったものの、出羽国を治める酒井家にお預けになります。忠広は出羽国の丸岡(山形県鶴岡市丸岡)に引っ越して、その後亡くなるまでの22年間も過ごしたといいます。

その酒井家の知遇を受け、謹慎の身でありながら、割と裕福な人生を送ったといいます。和歌や水遊びを楽しむ毎日だったとか。酒井家は、徳川の重臣でありながら、加藤忠広の境遇に同情して、かばってくれたのですね。苦労に苦労を重ねた父の清正と比べたら、幸せな人生だったんじゃないでしょうか。

それに、加藤清正の娘のあま姫が紀州徳川家の徳川頼宜に嫁いでおります。幕府としたら本来なら加藤家の血を根絶やしにしたいところですが、加藤忠広が謹慎処分で済んだのもそうした事情もあったのかもしれません。

また、鶴岡市丸岡には加藤清正をまつる神社もあるとききます。鶴岡に行く機会があれば行ってみたいです。

3  加藤清正の子孫
 その後、加藤忠広は子孫をのこしますが、いったん断絶したそうですね。その後、養子をもらったりして生き残り、江戸時代には加藤家は庄屋さんをやっていたとか。明治になると明治天皇の東北巡行の際、地元を代表する豪農として天皇の訪問を受けるほどだったといいます。そして、加藤家は加藤セチという女性の科学者を輩出します。

セチは理化学研究所(※1)に研究者として働き、40年にわたって勤め、女性初の主任研究員にまでなったといいます。1931年には京都帝国大学より理学博士号を授与したといいます。そして日本人で3番目(※2)の女性の理学博士、しかも既婚女性としては初だそうです。そんな輝かしい業績をセチは残したのですが家庭運はあまりよくなくて、長男は戦死、セチの兄も地震で亡くなっているのです。娘もいたのですが、娘も嫁にいったので、結局、加藤家の本家は加藤セチの代で終わってしまいます。加藤セチは1989年(平成元年)に亡くなったといいます。比較的最近ですね。

しかし、加藤家の分家筋は残ったので、今も山形県は加藤清正の末裔が多いそうです。そして、その親族も全国にいるとのこと。

ちなみに、紀州徳川家に嫁いだ、あま姫ですが、あま姫と夫の徳川頼宜の間には子供がいなかったのですね。だから、清正の血は紀州徳川家に受け継がれておりません。紀州徳川家といえば、8代将軍の徳川吉宗のイメージが強いですが、当然、吉宗には清正の血ははいっておりません。でも、あま姫と頼宜は夫婦仲睦まじかったといいますから、こちらも幸せな人生だったのではないかと。

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(加藤セチ)

※ 参考サイト



※1 渋沢栄一が作った研究所
※2 保井コノ、黒田チカに続いて加藤チカは3人目。

暑い日が続いてますね。今日はこの時期にふさわしく熊本城にまつわる怪談をします。まず本題に入る前に音楽を聴いて、怪談ムードをw


熊本城には怨霊がいるという噂を聞きます。夜な夜な、熊本城の土のしたから、うめき声が。そのこえの主は横手五郎。

横手五郎とは、横手村で生まれ、五歳の頃には、米俵を担ぐほどの怪力を誇っていたとされていました。すごいですね、5歳で米俵ですからね。成人するとなんと牛を持ち上げたというから、すさまじい。

横手五郎は加藤清正のことを恨んでおりました。それもそのはず、彼の父は木山弾正といいまして、清正と一騎打ちして、清正に殺された人物です。木山弾正は天草で起きた一揆がありまして、そのときに清正が討ち取ったのが木山です。父の仇をとるべく熊本城建設の際の人夫として働き、すきをみて、清正を殺そうとしました。

そんな横手の腹の内をはじめはわからなかったもんだから、横手の活躍ぶりに清正はたいそう感心したそうです。なにせ横手は並外れた怪力の持ち主だったから、重い石も軽々運べたのです。彼の働きぶりに清正も家臣として召し抱えようとしたのです。しかし、のちに横手の父親が木山弾正としって清正は愕然とします。「こいつはおれを殺そうとしている」って清正は身震いをしたほど。

そして清正は横手に井戸掘りを命じます。そして、横手五郎が深くまで掘ったところを、上から大きな石を横手五郎めがけて落としたのです。大きな石で横手をぺちゃんこにしようと思ったのです。結構、清正も残酷な一面もあるんだな。

しかし、それに負けないのが横手五郎のすごいところ。なんと横手五郎は上から落とされた大きな石をぽんと投げ返したといいます。そして横手五郎は穴の奥から、大きな声で叫んだのです。

「俺を殺すなら、こんな大石は無用だ。それより砂利をつかえ」って。

そして横手が言うままに、清正らは横手五郎が中にいる穴に砂利を入れます。砂利はどんどん穴の中に入り、横手五郎も砂利のなかに埋もれ、やがて窒息死してしまいます。戦国の世とはいえ、かわいそうな人だなって。

そして、熊本城にまつわる話と言えばもう一つ。熊本城完成後、清正は京から修験者を呼び寄せます。おそらく地鎮祭みたいなことをやって、お祓いをやってもらうために修験者を呼んだのでしょう。修験者はなんとその修験者を殺してしまいます。地鎮祭のあと修験者は熊本城建築の秘密を漏らしたみたいで、口封じで殺されたと。修験者は清正を恨んで亡くなったと。その修験者の霊が熊本城に現れるとかあらわれないとか。

木山、横手親子と修験者の呪いか知りませんが加藤家は清正と息子の加藤忠広の二代で断絶してしまいます。怖いですね。
この話、信じる信じるはあなた次第w 呪い?怨霊?そんなバカなってお思いになられる方も多いかと思います。けれど、横手五郎の怨霊を恐れる人が地元の郷土史家や伝説民話の研究家など少なからずいるんですよ。震災で熊本城が崩壊し、横手五郎の怨霊がしたんじゃないかって。
清正の死後、横手阿蘇神社という神社に横手五郎はまつられたといいます。.


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1 題目が書かれた軍旗
加藤清正は熱心な法華経信者でした。軍旗も「南無妙法蓮華経」と題目が描かれてます。清正の軍旗といえば、こんな話もあります。備中高松城の合戦の際、清正は「南無妙法蓮華経」の旗を掲げたのですが、敵の放った矢が清正に向かってきたのです。あわやと思った瞬間、風が吹いて、その旗が清正の身体を覆い、矢は旗で振り払われたといいます。それ以来、清正は「やっぱり、法華経の功徳はすごい」と思って、戦になると必ず「南無妙法蓮華経」の題目が書かれた旗を持っていたといいます。

四国での長宗我部の際、安芸あき御手洗みたらい(※1)というところから、伊予いよ三津浜みつはま(※2)に渡ろうとしたが、海は波があれていました。瀬戸の海は波が激しいですから。清正率いる60隻の船団は、「これじゃあ渡れない」って右往左往するばかりでした。この時、先頭にいる清正が乗っている船の舳先へさきに「南無妙法蓮華経」と大きく書かれた旗を立て、「この旗を目印につづけ!闇夜でも光はあるべし」と叫んで出航したといいます。ほかの船もこの旗を目印にして進んだので、荒れた海を渡って、無事に三津浜に上陸することができたといいます。

その時、清正は「乗り出したときは、さほどとは思わなかったが、あの荒れ狂った高波を、よく一人も犠牲者もでなかったものと、妙法の功徳が身にしみて、感無量の思いであった」と語ったとか。軍旗だけでなく清正が身に着けていた烏帽子にも、「南無妙法蓮華経」って書かれています。


2 清正の人格形成に影響

法華経の教えは清正の人格形成に大いに影響を与えました。

  • 朝鮮出兵における蔚山城の戦いで日本軍は飢えに苦しみました。大将クラスにだけ与えられる粥を、清正は自分は手をつけず家臣に分け与えた


  • 小西行長らキリシタン大名と確執があったが、やはりキリシタンであった大村氏や黒田氏のお取潰しのピンチの際、法華経行者としてかれらをかくまい、大村や黒田もお取潰しを免れた


  • 朝鮮出兵の際に、王子を二人捕らえたが、その王子を丁重にもてなし、のちに朝鮮に返還して、王子からお礼の書状が届いたほど。


  • 肥後の城主になる際、基本的に家臣や領民に法華経の信仰を強要せず、むしろ法華経の精神を生かした行政を行った。大規模な土木治水の工事も領民を水害の被害から救いたいという思いであった


  • ただキリスト教徒には厳しい態度をとった。法華経への改宗を強要し、従わぬものへは弾圧した



これらも法華経の教えが身についている証左です。一方で、法華経というか仏教は不殺生を説いております。法華経の教えを大事にしながら、時代の流れとは言え、戦で人を何人も殺さなくてはならない、その辺の葛藤が清正にあったのかな?って僕はふと思います。また、キリスト教徒に厳しい態度をとりましたが、その辺も、僕はどうなのって思います。

3 母の影響
清正が法華経信者になったのは母親の、いとの影響です。いとは熱心な法華経信者で、うちわ太鼓をたたいて、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えたといいます。その様子は狂信的なレベルだったそうです。いとと清正親子ははじめは中村にいたのですが、村人たちに疎まれ、逃げるように引っ越しをしたのですね。これは幼いころの清正が夜叉若と呼ばれるほどの悪童だったこともあるのですが、いとが狂信的な法華経行者だったことも無視できないのです。



じつは中村周辺は念仏を信仰している人がほとんどでした。しかも、いとの信仰ぶりは狂信的なレベルでしたから疎まれてしまったのです。信仰が違うだけで疎まれるなんて、僕から言えば変な話なのですが、そうした話は別に珍しくありません。



宮沢賢治も法華経に目覚めたものの、父である宮沢政次郎が熱心な念仏の信者だったため、信仰をめぐって対立してたんですね。その父である政次郎も念仏から法華経に改宗しましたが、政次郎が法華経に改宗したのは昭和26年(1951)です。賢治が亡くなった昭和8年(1933)から20年近くもかかったのですね。賢治のふるさと岩手県の花巻は念仏が強かったため、法華経に改宗しようものなら村八分にあったほどだったといいます。



宮沢賢治といえば、ある日蓮宗のお坊さんが「宮沢賢治が法華経ではなく、もし念仏の信者だったら、日本でもっと人気がでたかもしれない」ってブログかSNSかなんかで嘆いていました。実際、現代の日本でも法華経行者よりも念仏の信者さんのほうが多いのです。戦国時代なんて今よりもっと念仏が盛んでしたから、なおさら清正の母いとは肩身が狭かったでしょう。



清正は母いとの没後に天正13年(1585年)に大坂城近くの難波に寺院を建てて京都中の法華宗の僧侶を招いて法要を行いました。そして清正が肥後を治めるようになってから、難波にあったそのお寺は肥後に移転し、本妙寺というお寺になりました。




4 覚林寺
また、清正と法華経との結びつきといえば、東京港区の白金台にある覚林寺も欠かすことができません。白金台といえば高級住宅のイメージがあります。そんな一等地にひっそりと建っております。このお寺は、日延というお坊さんが開山したお寺です。日延は、清正が朝鮮出兵の際、朝鮮半島から連れ出した王子の子供です。その子が日蓮宗の坊さんに出家して、住職となりました。朝鮮半島から無理やり連れてこられたものだから、さぞ清正や日本のことを恨んでいるかと思いきや、彼は清正のことを本当に慕っていたようで、それで清正をまつったお寺を白金台に建てたのです。僕も何度か訪れたことがあります。覚林寺では毎年5月4日、5日に清正公大祭が行われ、それは盛大に行われます。お寺に行けば、葉しょうぶの入った勝守がもらえます。





※1 安芸は、今の広島県。御手洗は瀬戸内海に浮かぶ大崎下島にある町で、昔ながらの面影を残している。いまは広島県呉市。

※2 伊予はいまの愛媛県。三津浜は今の松山市にあり、漁業と商業で栄えた。

※ 参考サイト


1 誤解が生む恨み
 最近、仕事がえりに電車の中で、おじさん二人がケンカをしておりました。新聞が当たったとか、つまらぬ理由なのですが、ともかく河合奈保子の歌じゃないですが、ケンカはよしてほしいものです。ただのケンカならよいのですが、ケンカもこじれると大変なことになります。きょうはそんなお話です。



2度にわたる朝鮮出兵は大失敗に終わり、これが豊臣秀吉の天下を揺るがすほどのものとなり、豊臣家滅亡の遠因にもなってしまいます。加藤清正も蔚山城うるさんじょうの戦いでさんざんな目にあいました。そして清正は石田三成のことを激しく憎んだのですね。一回目の朝鮮出兵の時、清正は秀吉の怒りを買い、謹慎処分を食らいましたが、その時、清正は石田三成に陥れられたとおもったのですね。「三成めが秀吉様に俺の悪口を言った」みたいな。それと、清正らが朝鮮で戦っていた時、三成はおもに兵糧や物資の補給の仕事をしていたのですが、日本から朝鮮へ兵糧や物資を運ぶ輸送船を朝鮮の海軍によって沈められたしまったのですね。だから、三成はちっとも悪くないのですが、清正は「三成め、わざと兵糧を送らなかったな!」って激おこなのですね。誤解ですね。

そして朝鮮から博多港に戻った清正一行を、石田三成は出迎え、ねぎらいの言葉をかけたのです。しかし、これもまた清正の逆鱗にふれてしまうのですね。そのねぎらいの言葉とは、

「年が明けたら大阪で茶会の席を設け慰労しましょう」

すると清正が言った言葉がこれ、

「ならばわれらは稗粥ひえがゆ馳走ちそういたそう」

痛烈な嫌味ですね。三成としては、大変な思いをした清正たちをマジでねぎらおうとしたのでしょう。しかし、清正から見たら、「おれたちは死ぬ思いで戦ったのに、安全な日本にいたお前に俺たちの苦労がわかってたまるか」ってところでしょう。

2 家康の暗躍
そんな清正と三成の反目を巧みに利用したのが、あの男でした。徳川家康です。

徳川家康は豊臣の五大老(*1)の筆頭格。家康は朝鮮出兵に参加しなかったので兵力を温存できました。そして秀吉亡き後、天下をとろうと家康は虎視眈々と狙っていました。しかも跡をついだのが豊臣秀頼。家康から見たら秀頼なんて大したことないっておもったのでしょうね。

しかし、そんな家康を警戒していたのが、五大老のひとり、前田利家でした。利家は秀吉とも親しいうえに、大変優秀な方。軍事力も持っていたので、家康も利家だけは敵に回したくない相手でした。しかし慶長4年(1599)3月、前田利家は亡くなってしまうのです。その利家が亡くなった日に、事件が起こるのです。清正や黒田長政ら武断派の7将(*2)が石田三成を殺そうと挙兵したのです。いわゆる石田三成襲撃事件です。直前に襲撃の噂をきいた三成は間一髪で逃れます。

豊臣政権を2分する大事件でした。そんな折、武断派と三成の調停を行ったのが徳川家康。家康は三成に奉行職を降りるように勧めたのです。そして三成はすべての役職を降りて、三成の居城である佐和山城さわやまじょう蟄居ちっきょをしてしまうのです。それにしても清正たちがいきなり三成を襲撃したのはなぜでしょう?もしかしたら徳川家康がそそのかした可能性もあります。

実際、徳川家康は武断派の武将たちを手なずけるために自分の娘を福島正則や加藤清正らに嫁がせていましたから。家康は自分の野心を胸に秘めつつ、武断派たちに「秀頼さまは私が支える」といったのでしょうね。

3 関ヶ原の戦い
 慶長5年(1600)6月。家康はついに行動にでます。三成を戦に誘いだすかのように、突然、上杉景勝討伐すべく会津へ向かったのです。蟄居の身だった三成も「いまこそ家康を討つチャンス」
と挙兵したのです。そして、豊臣側の石田三成と徳川家康が天下をめぐって争う関ヶ原の戦いのはじまりです。豊臣家側の西軍、徳川家側の東軍です。ここで、皆さんに問題です。西軍の総大将はだれでしょうか?

  1. 石田三成

  2. 毛利輝元

  3. 豊臣秀頼


正解は2番の毛利輝元です。ゲームや小説のイメージから石田三成が総大将だと思われがちですが、違います。これは石田三成は人望がないので、三成が総大将になると人が集まらないからです。それを石田三成に進言したのが、三成の親友である大谷吉継です。大谷吉継の話はまた別の機会でお話しできたらなって思います。三成はそれに従います。ちなみに東軍の総大将は当然、徳川家康。

実は三成は清正に、「おまえも西軍にこい」って誘ったのですが、清正は九州から動こうとしませんむしろ、徳川家康について東軍にいったのです。清正は関ケ原の戦場にまでは赴かなかったものの、九州にいる西軍側、つまり小西行長らをたたいたのですね。清正は小西行長の弟がまもる宇土城を攻めたといいます。それも石田三成憎しの感情もそうですが、家康の娘をもらった身からしたら、家康につかざるをえなかったのですね。


*1 徳川家康 前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の5人。豊臣政権の政をつかさどっていた。
*2 黒田長政 加藤清正 福島正則 加藤嘉明 池田輝政 浅野幸長 細川忠興

すずめの戸締まり
松本白鸚
2023-09-20



この間、遅ればせながら、アマゾンプライムでアニメ映画「すずめの戸締り」(新海誠監督)を見させていただきました。新海誠の作品は「君の名は」や「天気の子」など見させていただきましたが、今回の「すずめの戸締り」が一番良かったと思います。あんまり話すとネタバレになりますので、ほどほどにしますが、この映画のテーマはずばり巨大地震です。巨大地震を食い止めるべく主人公の少女、すずめが奮闘します。

そして、僕がこの映画をみた数日後に、宮崎県で大きな地震が起こりました。実は、「すずめの戸締り」で最初に大きな地震が起こる場所が、宮崎県。ネットでも話題になっております。僕もびっくりしましたね。映画とほぼ同じ。しかも、政府が正式に南海トラフの大地震を警戒せよというのですから。新年そうそう能登の地震もあったし、怖いですね。今日も神奈川県を中心に地震がありました。

「すずめの戸締り」では、宮崎の次は愛媛、神戸、東京、東北と続くので、次は愛媛か?近々、東京にも大地震がくるのかってネットでウワサされております。地震というのは日本の歴史を紐解いてみると連続的に起きたのですね。特に南海トラフはたびたび大きな地震をそれも、連続的に、九州、四国、近畿と広い地域で地震を起こしてきたのです。おそらく新海誠監督は、南海トラフのことを勉強して、「すずめの戸締り」を作ったのかもしれない。


豊臣秀吉の治世の間にも、天正地震(1586)、別府地震(1596)、慶長伊予地震(1596)、伏見地震(1596)と続いたのですね。特に1596年に別府(九州)、伊予(四国)、そして伏見(近畿地方)と同じ年にいくつも大きな地震がおきたのですね。ほぼ、「すずめの戸締り」と同じですね。というかこの時も南海トラフの震災だったのかもしれません。で、前回の記事で、加藤清正が秀吉を怒らせ、謹慎処分になった話をしましたが、この伏見地震を通して、秀吉は清正を許すのです。どうして許すのかは、順を追ってお話しします。


まずは伏見地震について。マグニチュードは 7.0〜7.1でした。主に堺・京都で大きな被害がありました。東寺、天龍寺、大覚寺などの神社仏閣が被害を受け、伏見城も崩壊しました。そして死者は1,000人を超えたとされております。結構大きな地震だったのですね。その伏見城になんと秀吉がいたのです。絶体絶命のピンチの所を、加藤清正が300人の部下を率いて秀吉を我先に助けに来たのですね。清正は、一度目の朝鮮出兵の件で秀吉を怒らせてしまい、謹慎処分を受けていたのですね。これは石田三成の讒言によるものでしたが。

でも、秀吉の恩を受けていた清正はいち早く助けにきたのですね。秀吉はたいそう感激し、清正のことを許したのですね。そして清正は二度目の朝鮮出兵に参加できたのです。


助かった秀吉は方広寺の大仏めがけて矢を射掛けたそうです。なぜでしょう。じつはこの地震で方広寺の大仏の左手や胸が地震で崩れてしまったのですね。その大仏のひ弱さに秀吉は怒ってしまったのかもしれません。そして、「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえ」と家臣に命じたとか。その豊臣秀吉は2度目の朝鮮出兵の最中に亡くなるのですが、秀吉が生きているうちに清正は秀吉と和解できてよかったと思います。


ただ、この地震加藤のエピソードは後世の創作だとも言われております。清正と秀吉が和解できたのは事実ですが。



Toyotomi_Hideyoshi_and_Katō_Kiyomasa

(地震のさい、秀吉救助に向かう加藤清正)

※ おまけ
息抜きに音楽でも。「すずめの戸締り」の主題歌、「 すずめ feat.十明」。十明の神秘的で美しい声にうっとりします。「すずめの戸締り」は全体的に音楽が良かったです。RADWIMPSの「カナタハルカ」もよかったけれど、映画の途中で80年代の音楽が出てくるのが良かったです。河合奈保子の「けんかはやめて」とか斉藤由貴の「卒業」とか。


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