
まずは、この写真。有名ですよね。マッカーサーと昭和天皇のツーショット。この写真は新聞に掲載され、その新聞を見た日本人は衝撃を受けたのです。今までは現人神として崇めていた天皇が正装とはいえ、平民と同じようなモーニングを着てかしこまっている。一方のマッカーサーはよく言えばリラックス、悪く言えば我がもの顔をしてふんぞり返っている。両国の力関係を感じさせる写真でした。そして、日本は負けたのだと改めて国民に再認識させるほどのインパクトがこの写真にありました。「いいや、昭和天皇は正装をしているのに、マッカーサーはラフな格好で礼儀を知らない、むしろ昭和天皇のすばらしさを物語る写真だ」という意見もありますが、終戦まで日本国民が現人神として昭和天皇の写真に礼をしていたことを考えると、これは大変なことなんですね。この写真はマッカーサーと昭和天皇の第一回の会見のときに撮られました。第一回ということは、何度も会見があったってことですが、そのマッカーサーと昭和天皇の会見はなんと11回も行われたのです。
日本がポツダム宣言を受けいれた最大の理由は国体の護持、つまり天皇制の存続でした。
またマッカーサーは天皇の権威を利用して、占領政策を進めようとしたのです。その一環としてマッカーサーは天皇と会う必要があると考えたのです。敗戦のみじめさを日本に思い知らせようと天皇を呼びつけようという連合国側であったのですが、マッカーサーは、「天皇を呼びつければ、天皇を国民の殉教者に仕立てあげるようになる」と言って反対。つまり、国民の反感を買って今後の占領がやりにくくなることを恐れたのでしょう。こうした日米のおもわくがマッカーサーによる天皇呼び付けに繋がりました。
1945年(昭和20)の9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館に到着します。そして、マッカーサーの部屋に通されました。天皇のお供をしたのは通訳ただ一人。天皇が入るなり、マッカーサーは迎え入れ、すぐに写真撮影に入ったのです。撮影をするなんて天皇は全く知らなかったので、天皇もびっくりしたのです。だから、天皇も戸惑い、三枚写真を撮って、その三枚目でやっと天皇は体勢を整えることができたとのこと。
2人のツーショットは翌日(28日)の新聞で掲載される予定でした。しかし、時の内務大臣の山崎巌が「不敬だ!」と激怒。結局、28日の新聞にはマッカーサーと天皇の写真は載らなかったのです。それに怒ったはGHQ。依然として日本に旧体制のものがいるとして、言論に関する一切の制限令を撤廃させたのです。
そして結局、9月29日の新聞に2人の写真は載ったのです。
話を9月27日の天皇とマッカーサーの会談の日に戻します。写真撮影が終わってから、2人は会談をします。開戦のことと、それからポツダム宣言の履行の確認です。会談の途中、マッカーサーは不安になったのです。天皇が戦争責任を逃れようと、あれこれ言い訳をするのではないかって。
ところが、天皇はマッカーサーが思いも寄らない言葉を述べられたのです。
「私は国民が戦争遂行にああって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお訪ねした」
つまり戦争責任は自分にあると天皇は述べられたのです。この天皇のお言葉にマッカーサーはいたく感動。「責任を受けようとするこの男気に満ちた態度は私の骨の髄まで揺り動かした。天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じた。」
会見は予定より大幅にオーバーしたといいます。会見が終わって、マッカーサーは大使館の玄関まで天皇を見送ったといいます。
しかし、連合国側には天皇を裁判にかけ、戦犯として裁くべきだという意見も根強かったのです。マッカーサーは考えました。天皇を告発したら、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊はそのまま日本の崩壊につながると考えましたし、もしそんなことをすれば日本各地でゲリラ戦が起こる恐れもあると。それで、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀長官に「過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからない」と伝え、天皇は無実であるとしました。
マッカーサーは天皇を無実にするために色々と工作をしたといいます。
- 人間宣言をさせることで、新たな天皇像を作りあげ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとした。
- マッカーサーはキーナン首席検事とともに、天皇を裁かれないことを前提に裁判を進めるよう他国に説得をし、同意を求めた。
「人間宣言」とは、1946年(昭和21)の元旦の新聞紙上で、昭和天皇の詔書が発表し、天皇が自ら人格性を否定したこと。日本人は衝撃を受けましたが、これにより天皇が独裁者であるというイメージは崩れたのですね。
しかし、そんなマッカーサーの様々な工作を水の泡にさせるようなことを言ってしまった人物がいました。
東條英機です。
東條英機は、「自分は陛下の命令に反いたことがない」と裁判で発言。これでは、天皇の命令で戦争がおこわなわれたことになります。そこでマッカーサーは東條の知人を通して、天皇に責任はないと発言するよう説得。そして東條はしぶしぶ「陛下は責任がない。全責任は私にある」と発言。
1946年(昭和21)10月16日にマッカーサーと天皇の第3回目の会見が行われました。その時は大日本帝国憲法に変わる新しい憲法が作られている時期でした。新憲法は、民主化、封建社会の否定、そして戦争放棄が盛り込まれておりました。特に戦争放棄には天皇も賛同されたといいます。
ちなみに、日本国憲法が1946年(昭和21)11月3日に公布され、翌年の1947年(昭和22)5月3日に施行されました。
天皇とマッカーサーの会談は、1945年の9月27日から、1951年(昭和26)4月15日まで11回行われました。回を重ねることに、天皇とマッカーサーの信頼は深まり。マッカーサーも当初は皇帝(エンペラー)と呼んでいたのが、次第に陛下と呼ぶようになったといいます。ただし、マッカーサーは一度も皇居に訪れていないのですね・・・
そして1951年の4月16日、マッカーサーは日本を後にしまいた。その時、日本人20数万人が日の丸と星条旗を持って、マッカーサーの帰りを見守ったといいます。
のちにマッカーサーは「天皇は日本の精神的復活に大きな役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」と語っておりました。天皇の協力がなかったら、占領政策は失敗していたかもしれない。また、マッカーサーは天皇個人のことを「天皇は私が話し合ったほとんどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた」と高く評価。
昭和天皇も「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことが、国のためにも良かった。一度約束をしたことは必ず守る信義の厚い人だ。元帥としての会見は今思い出しても思い出深い」とマッカーサーを評されました。確かにマッカーサーではなく、スターリンや毛沢東が日本に来ていたら大変なことになっていましたね。毛沢東もスターリンも独裁的な手法で国民を苦しめたわけですから。
ただ、昭和天皇は「私が全責任をとる」といった証拠はないって意見もあるのですね。後から付け加えた話だって可能性もあるのです。東条英機が「「自分は陛下の命令に反いたことがない」」と裁判で発言したにも関わらず、マッカーサーが圧力をかけたのが気になります。東条英機からすれば「陛下が戦争をしろ」といったから従ったまでなのに、戦後になって昭和天皇に責任がないというのもおかしいって思った可能性もあるのです。いづれにせよ、昭和天皇の戦争責任を問わないほうが、統治するGHQとしてはありがたかったことは間違いないのですね。
*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。また、「図説マッカーサー」も参考にしました。