history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:おしん

連続テレビ小説 おしん 総集編 [DVD]
高橋悦史
NHKエンタープライズ
2011-11-25



1 相互監視社会になる
今日は、歴史の話というよりも、もし現在が戦前のような日本に戻ったらどうなるかを検討したいと思います。日〇会議あたりは戦前の価値を良しとして、戦前のように日本を戻すべきだと主張しておりますが、はっきり言って、良くならないと思います。むしろ、それは日本にとって大変マイナスだと思います。

戦前は治安維持法といって、共産主義者のみならず政府を批判するものを弾圧する人間を弾圧する法律が作られました。「おしん」でも、おしんの恋人の浩太が、農民の小作運動をやって、農民を救おうとしたのですが、危険人物として政府からにらまれ、政府のみならず、世間の人からも危険な人間だと思われていたのです。

戦時中になるともっと大変で、戦争は嫌だといっただけで、非国民だと袋叩きにされてしまいますし、最悪の場合、逮捕されてしまいます。

「火垂るの墓」でも、まだ中学生の清太にさえ、西宮のおばさんは、冷たく当たるのです。身内でさえもその調子だから、世間はもっと冷たく厳しい態度をとるでしょう。お国のために働くのは当たり前で、戦争が嫌だなんてとんでもないって価値観だったのです。

もし、治安維持法が今の日本に復活した場合、戦前よりもひどいことになりそうですね。いまはマイナンバーとかありますから、個人情報をを政府ががっちり握ることができるし、民間レベルでも、SNSで、政府を批判したもの、あるいは戦争は嫌だといったものがさらされれてしまう恐れがある。戦前、戦時中はまだ緩い面もあったし、まだ人情が根付いていたから、まだよかったが、今の日本は人情も薄くなりましたし、いろいろ昔より規制とか厳しい時代になりました。正直、怖いですね。それに徴兵制が復活したら怖いですね。昔は徴兵逃れといってうまく逃げた人もいたが、今は情報網も発達し、やはりマイナンバーで個人情報が政府に抑えられております。うまく逃げても、SNSでさらされてしまう恐れもある。はっきり言って、戦時中よりもやばい社会になりますね。


2 社会保障が認められない

「日本の社会保障は海外と比べると恵まれている、日本素晴らしい。」なんて書き込みをネットでしばしば見かけます。だから、海外で働きたい、移住したいなんて人に対して、おせっかいにw水をさす人もいます。確かに今は社会保障は充実しております。しかし、古くは石〇慎〇郎とか、いまの大阪維〇の会のやっていることを見ていると、社会保障はどんどン減らされ、このままいいわ、いいわで社会保障削減を手をこまねいてみていると、そのうち戦前並みになってしまう可能性も否めません。そうなれば、海外の社会保障は貧弱だなんて、笑えなくなるでしょう。

日本の社会保障が厚くなったのは戦後。戦時中は社会保障なんて全くなくて、年金なんてありません。また今の日本は国民皆保険ですが、戦前はそうでもなく、保険料も高くて、所得がある人じゃないと払えなかったのです。おしんの家族なんて保険料払う余裕なんて全くなかったから、具合が悪くなっても医者もなかなか呼べないのです。医者が来てくれたとしても、ろくな治療もしてくれません。



さらに、戦前は生活保護もありませんでした。だから家が貧しくなって、食べ物に困っても国は知らん顔。困った家は、「おしん」みたいに幼い我が子を奉公に出したり、最悪遊郭に売ったりしたのですよ。お金もそうだけれど、口減らしのためですね。口減らしというのは、とてもざんこくな言葉で、子供を奉公とかに出すことで、その分家族の食費を減らせるという寸法なのです。もちろん、奉公先でもろくに食べ物など食わせてもらえず、「おしん」の加賀屋みたいに奉公人に腹いっぱいくわせてやるなんてところは非常にまれでした。幼い子供を働かせるなんて今なら児童福祉法違反ですが、当時はそんな法律もありませんし。

で、生活保護の前身である救護法が定められましたが、救護法が定められたのは1932年(昭和7)でした。だから、明治大正時代はそうしたものは一切なし。しかも救護法が制定されるまで、いろいろ紆余曲折がありまして、議会でも「怠け者を増やすだけ」といって反対意見も結構あって、なかなか審議が進まなかったといいます。その救護法制定に尽力したのが渋沢栄一です。意外ですよね。

それと、昔の金持ちは、芸術の才能がありながら世渡り下手な人のパトロンになってあげるほどの木間の良さもありましたっけ。いくら芸術の才能があっても世渡り下手なら、まともな職業に着けず、まして明治大正の時代だったらホームレス街道まっしぐらでしょう。宮沢賢治だって世渡り下手でしたが、父親の支えがあったから生活できたのです。

かたや今の財界人や金持ちって弱者救済やパトロンどころか、自己責任論をかかげ、弱者に対して説教をしそうな人ばかりですもん。アメリカでさえ生活保護の制度があるのに、もし、戦前のように生活保護がなくなれば、大変ですね。そうなれば水商売や売春さえも生きるために厭わずやる人も出てくるでしょう。

3 女性の人権がなくなる。
 いま中居正広やフジテレビの性被害のことが問題になっております。昔はフジテレビは「母と子のフジテレビ」というキャッチフレーズのもと、子供向けの番組や良質な番組作りを心掛けてきたが、80年代に入って「面白くなきゃテレビじゃない」とバラエティー路線に走ってからおかしくなったという意見もありますが、いろいろ調べてみるとフジテレビの創業者である鹿内信隆は、もともと軍の関係者で慰安所を作り、しかも慰安所を作ったことを自慢げに語っております。僕はこれを見るにつけ、フジテレビの体質って結構根が深いと思ったし、「慰安婦なんていなかった」なんて話もきくけれど、ウソだなって思いましたもん。



それに慰安所の事は水木しげるの漫画にも出てきますし。


セクハラ、いじめと同じで、やったほうは覚えていなくても、やられたほうはしっかり覚えているんですよ。「おれはセクハラしてない、性被害なんてとんでもない」って思っていても相手にとってはそれは屈辱だったりするのです。まして戦前は家父長制でしたから、男性の権利が認められ、女性は蚊帳の外。ですから、男の人がセクハラなんてやっても、やりたい放題。抵抗すれば頬を叩いていうことを聞かせればいい。そんな時代でした。もし、今の日本が戦前のような時代に変えたら、セクハラという言葉が消えるでしょう。そして性被害もぐんと増えるでしょう。ネットで日本は性被害が世界でも圧倒的に少ないと威張っていられなくなるでしょう。










4 社会主義が台頭するようになるかも


「人はみな自由だ。家や親に縛られて、私の人生さどこにあるっていうんだ!」

「おしん」にでてくる、お加代さまは加賀屋の跡取りになることに興味もなく、絵描きになるのが夢でした。そして、加代は当時、新しい考え方だった「白樺」や「青鞜」にはまったのです。特に「青鞜」は当時最先端の考え方であったフェミニズムを説いたものでした。なにしろ明治末期の日本では良妻賢母こそが女性に求められており、選挙権はなかったのです。また、治安警察法は女性の政治活動を禁止されていたのですから。でも、人間は本来自由であり、女性は己の実力を思う存分発揮すべきだという考え方でした。当然、お加代さまの心をとらえたと思います。

『青鞜』の名は"Bluestocking"(ブルーストッキング)の和訳で、生田長江がつけたといいます。18世紀にロンドンで、フォーマルなシルクの黒い靴下ではなく、深い青い色の毛糸の長靴下を身につける事が、教養が高く知性を尊重する婦人達のグループ(ブルー・ストッキングス・ソサエティ(英語版))のシンボルとして採用された事から引用されたものです。

ともあれ、良妻賢母であり、家の跡取りになることを強いられる加代にとっては、これらの思想は魅力的であり、さらに加代は社会主義にも傾倒します。

これはドラマだけの話ではありません。実際に明治、大正の価値観、そしてその理不尽さこそが、社会主義にはまる人間を増やした一因であると思います。社会主義のみならず、戦後の民主主義的な価値観もすでに戦前から生まれていたのですよ。しかし、時の政府は、それを危険思想といって批判し、弾圧しまして。もし令和の現代でそんなことをしたら、反発する人も多数いることでしょう。そうなると案外、一時はソ連崩壊で否定されていた共産主義や社会主義が再び日の目を見るかもしれない。







テレビはいろいろ見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今、どういう番組をみているかということにはこたえられません。


この発言は、記者会見で記者が「どういうふうなテレビ番組をご覧になりますでしょうか」と気軽な質問をしたときに出た言葉。そうですよね、具体的なテレビ番組名をあげたら、昭和天皇が見ている番組というプレミアムがつきますもんね。そりゃ天皇陛下だって言いづらいでしょ。

実際、昭和天皇はテレビをよくご覧になられたといいます。側近たちの話によるとニュースや「皇室アルバム」はもとより相撲、それからドラマもご覧になったといいます。とくに『おしん』が大好きだったそうです。『おしん』の主人公の田倉しんは、昭和天皇と同い年という設定になっております。


ええ、その当時、今「おしん」の映画(ドラマのまちがい?)を終始見て、その当時の女性の苦労というものを非常に察していましたが、当時のそういうことはあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知ってましたけれども、それは非常におおざっぱな感想しか私はその当時は承知してませんでした。その映画を見て非常にあの時の苦労を思い出しました。


貧乏、奉公そして戦争、当時の女性というか庶民の苦労というのは風のウワサでは聞いていたが、まさかこれほどひどいものだったなんて。そんな思いを『おしん』をみて昭和天皇は衝撃を受けられたかもしれません。自分が宮中で体験した現実と庶民が味わった現実があまりに違う。もちろん、昭和天皇は昭和10年にこのような言葉をおっしゃってました。

東京のような都会に住んでいるから、そんな呑気なことを言う。東北、北海道の人たちが、今この瞬間、天を仰いでどんなに心配しているか、なぜそのことを思ってみないか。



東北、北海道の人たちが冷害に苦しんでいることは昭和天皇も戦前からご存じでした。冷害のために農村の困窮も伝え聞いておりました。けれど、まさかこれほどとはって昭和天皇は『おしん』をみて思われたそうですよ。もし、昭和天皇が今の上皇様のように被災地を訪れ、被災者の人に膝をつけて、被災者の話を聞いていたら、もっと実感できたかもしれない。

また、昭和天皇は『さかなちゃん』というドラマや『サザエさん』に『小公女セーラ』もご覧になられたといいます。『さかなちゃん』とは、生物学者でありタレントのさかなクンが主人公のどらまではないですよwこれは1976年に放送された昼のドラマ小説です。魚市場で働く男勝りの女性が主人公のドラマだったようです。

『サザエさん』のファンである昭和天皇は春の園遊会で作者の長谷川町子さんをよばれたのですね。それで、長谷川町子さん直々に昭和天皇は、こう言われたのです。

あのサザエさんね。漫画とかね、テレビで時々見てるから。なかなか面白いものをやってますね。水面喜んでいるようですから。しっかりやってください。


また、昭和天皇が『小公女セーラ』をご覧になられたという話をきいて、僕も昭和天皇に僭越ながら親近感が持てましたw僕もセーラみていましたから。セーラは金持ちのお嬢様だったのが父親の破産でミンチン女学院のメイドになってしまい、さらにミンチン院長やラビニアから過酷ともいえるイジメを受けるのですね。そんなつらい境遇に耐え抜くセーラに僕もいじめられっ子だった自分と重ねたっけ。昭和天皇陛下はセーラを見て何を思われたか、あいにく資料はないのですが、昭和天皇陛下の心を打ったことは間違いないと思います。







サザエさん 1巻
長谷川町子
朝日新聞出版
2020-01-07

戦前にサラリーマンという新しい雇用形態が広がりましたが、一方で、江戸時代から続いている丁稚奉公デッチホウコウといういう雇用形態も残っていました。幼少の頃から住み込みで下働きをすることです。

松下幸之助も丁稚奉公をした経験がありますし、財界のナポレオンと呼ばれた金子直吉カネコナオキチも鈴木商店に奉公し、そこで認められて番頭になって辣腕ラツワンを振るいました。そして金子は鈴木商店を三井や三菱に負けないくらいの企業に育て上げたのです。それと丁稚奉公といえば「おしん」でしょうか。

なぜ、子供を丁稚奉公に出すのかというと、現金収入もそうですが、口減らしという面も大きいのですね。昔は、子供の数が多く、一家で子供が五人いたなんて珍しくなかったのです。家が裕福なら問題がありませんが、家が貧しいと大変なんです。子供の養育費が重くのしかかります。それで子供の養育費を少しでも浮かそうと、子供を幼いうちから商家に奉公に出したのです。対象になったのは、12歳ないし14歳くらい。明治時代には7、8歳で奉公にだされるケースもあったのです。

丁稚奉公の労働契約は、一種の身売りのようなもので、まず実家が2、300円の前払いの報酬を受け取り、子供は2〜3年はほとんど無報酬で働くのです。この年季が明けると、1年間はお礼奉公と言って無報酬で働き、その後やっと報酬をもらえるようになります。労働条件はかなり悪いですね。しかし、丁稚の中には、親方に気にいられて、のれん分けしてもらったりすることもあります。

仕事は結構ハードでした。まだ外が暗い3、4時には起床。掃除や洗濯、子守りなどの雑用を一通りこなした後、仕事の手伝いもしたのですね。

丁稚たちの楽しみは、年に2回の里帰りでした。旧暦の1月16日と7月16日の年2回だけ、里帰りが許されたのです。いわゆる薮入ヤブイり主人は奉公人たちにお仕着せの着物やはき物を与え、小遣コヅカいいを与え、さらに手土産テミヤゲを持たせて実家へと送り出したと言います。実家に帰れば両親が待っており、奉公人は親子水入らずで休日を楽しんだと言います。ただ、遠くから出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物シバイケンブツや買い物などをして休日を楽しんだと言います。しかし、年に2回しか休めないとは、本当にきついなって。これなら、月に2、3日は休める製糸工場の女工さんの方がマシだなって。


「おしん」においては、主人公のおしんは2つのところで奉公したのですね。一つ目は中川材木店というお店。そこの女中頭のツネという女性にいじめられてしまうのですね。ツネにいじめられながらも、おしんは仕事を覚えていくのですが、ツネにお金を取ったか、取らなかったかで疑われ、それでおしんは中川材木店を飛び出してしまうのですね。そして二つ目の奉公先の加賀屋では、ものすごくよくしてもらって、特に大奥様のくにに気に入られ、帳簿の付け方とか、読み書き、お茶や生花まで教えてもらったのですね。「おしん」では中川材木店の方がブラック、加賀屋の方がホワイトだと描かれております。

しかし、現実はブラックな奉公先の方が多く、「おしん」の加賀屋のような奉公先は非常に珍しかったのではないかと。江戸時代だったらご飯が食べれれば幸せみたいな感じでしたから、理不尽なことがあっても我慢ガマンできたのですね。それが、社会がそれなりに豊かになり、社会主義、共産主義が日本に入ってくると、影響を受けた奉公人や丁稚も出てくるのですね。また、奉公は嫌な親方や先輩とも、ほぼ毎日顔合わせで、プライベートどころか寝食まで共にしなくてはならないからストレスたまりますよね。寝食どころか、夢の中まで上司が出てきたら嫌ですよね。


実際、岩波書店でもストライキが起こりました。岩波書店といえば広辞苑コウジエンでも有名ですが、この時代からすでにあったのですね。1928年(昭和3)3月12日、岩波書店の少年店員80名と、その岩波書店の向かい側にあった巌松堂ガンショウドウという書店の少年店員42名がストライキを起こしたのですね。巌松堂の丁稚の少年が店で年長の従業員に殴られたことが発端です。

要求の内容は、「時間外手当の支給」だとか「寄宿舎の改善」だとか「8時間労働制の導入」、「月三日の休日を」といった労働条件の改善だけでなく、「殴った社員をクビにしろ」というものと、「“どん“と呼ぶのはやめろ」というものもありました。

ストライキから5日後の3月17日、岩波書店は少年店員側の要求を受け入れたのです。

江戸時代から続いた丁稚奉公は、GHQらによって労働法規が整備され、義務教育も15歳まで延長したこともあり、戦後には消滅しました。丁稚の制度は消えましたが、丁稚や番頭という言葉は残りました。「番頭」は、旅館はもとより、建設業では現場監督者を番頭と呼ぶこともあるそうです。「丁稚」という言葉は古くから続く商店とか職人さんの間で使われています。


* 参考文献




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