history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 戦前は本当に良かった???

戦前の歴史、「国史」では、「白村江の戦い」と「壬申の乱」が取り上げていないのです。だから、戦前の教育を受けた人は、白村江の戦いも壬申の乱も知らない人が少なくなくて、昭和天皇の側近でさえ、「壬申の乱?なにそれ?」って感じだったそうです。

白村江の戦いが取り上げられないのは、日本の負け戦だったからです。この戦いは、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われました。

当時の朝鮮半島は、新羅、高句麗、百済とまさに中国の三国志のような時代でしたが、新羅が力をつけて、百済を攻めてきたのです。百済が日本に助けを求めたのです。それで、日本が朝鮮半島の同盟国であった百済を助けるために、新羅と唐に戦いを挑んだのですが、とんだ負け戦だったのです。日本が負けたということは都合がわるかったのでしょうね。

壬申の乱は、天智天皇の死の翌年の672年に起った皇位継承をめぐる大規模な内乱で、大友皇子と大海人皇子が次期天皇の座を巡って争ったのです。つまり皇位継承の争いです。大海人皇子が天智天皇の弟、大友皇子は天智天皇の子供です。乱は大海人皇子が勝利し、大海人皇子は天武天皇となりました。やはり、天皇の身内同士が相争った事実は都合が悪かったのかもしれません。

※ 参考文献
ある侍従の回想記: 激動時代の昭和天皇
岡部 長章
朝日ソノラマ
1990-02-01






久々に「戦前はよかったか?」シリーズ書かせていただきます。

最近、アマゾンプライスで「おしん」を最初から見てます。リアルタイムでは僕も小学生だったので、ほんのちょぴりしか見ていないのですが。しかし、見始めたら、本当にはまりましてね。「おしん」といえば、小林綾子が演じた幼少時代ばかりがクローズアップされますが、小林綾子、田中裕子、乙羽信子とおしんを演じる人が3人いて、それぞれ幼少期、青年期、壮年ならびに晩年を演じているのです。おしんをとおして、明治から昭和の激動の日本を描いているのですね。ともかく、橋田寿賀子の脚本が素晴らしく、引き込まれるんですよ。次から次へと、おしんに降りかかる災難。本当に面白い。

そして、「おしん」全編で、もっとも長く、もっとも面白いのが田中裕子が演じている青年期。「おしん」は映画化もされましたが、なぜか一番面白い青年期ではなく幼少期のみ。映画に出演した泉ピン子が不満を漏らしたといいますが、わかるような気がする。「おしん」は幼少期だけではなく、青年期、晩年までをセットに描いて成り立っているのですから。

で、僕が「おしん」を見て気になったのが、おしんの父親の作造と、作造の長男の庄治、おしんからみたら兄です。おしんの父と兄は、おしんが働いて得たお金をたびたび無心していて、あてにしていたのです。で、父と兄は酒を飲んでは、家の中で威張っているのですね。当時の小作農は貧しくて苦労したのはよくわかりますが、自分たちのために外で苦労して働いている、おしんの身にもなってみろよって言いたくなります。

しかも、この父・作造がクズそのものでして、幼いおしんを奉公に出しただけでなく、女房までも旅館の女中として奉公させたのです。今じゃ旅館の女中といえば下働きをすればよいのですが、昔は下働き+男の相手までしたのです。要するに風俗嬢まがいなことまでしたのですよ。もちろん、すべての旅館がそうではないのですが、昔は女中にそういうことをさせていたところも少なからずあったのですよ。

もちろん、クズ父の言い分もわからなくはないのですね。当時の小作農は自分で育てた田畑のお米だとか野菜だとか、そういったものを地主に納めなくてはならないのです。しかも、地主が強欲だと不当に物納をする必要があるのです。それで、残ったものを小作農はいただくのですが、ほとんど物納をしたため、食べる者もほとんど残っておりません。ひえやアワなんて当たり前で、たまに麦飯が出る程度。ひえやアワなんて今じゃ鳥の餌ですが、昔は農民の主食だったのです。

それで食べるものが少ないので、地主にお金を借りるのですね。そうして小作農は借金も膨らみ、地主だけが良い思いをしたのです。食べるものも少ないうえに借金もたまる。

まして、当時の農村は核家族ではなく、子供もたくさんいて、高齢者も抱えていたのです。これじゃあ食費も大変ですね。そんな状況だから、幼い子を口減らしで奉公に出していたのです。それで高齢者を姥捨て山とかに捨ててしまったり。おしんの家は大家族で、おしんだけでなく、姉も製糸工場で病気で亡くなるまで働いていたのです。

そんなに困った状況なのに、クズ父は子供を作るばかりで、しかも大酒のみ。だから、ネットではツクールってあだ名があるんですよ。意味は、借金や子供をたくさんつくるからツクールってよばれております。もちろんツクールってあだ名は作造という名前からも来ていると思いますが。しかも、作造は本当にクズですぐに女・子供に暴力をふるう。人間の屑ですね。


おしんの兄の庄治も作造の輪にかけてひどい男で、おしんの送ったお金でのうのうとしていられるのに、感謝どころか、おしんにつらく当たるのですね。しかも、庄治が嫁をもらうので家を建て替える必要がある。その建築費用も、おしんに出せっていうのですね。なんとわがままで身勝手なんだと思いますね。令和の時代に、こんな男が本当にいて、身内からsnsでさらされたら、間違いなく大炎上でしょう。

後クズといえば、、おしんの親友のお加代さまという人がいて、そのお加代様の亭主もひどい男で、いつも芸者遊びをして、芸者が身ごもると、それを正当化して、そのバカ亭主はどうどうとお加代さまに認知して、お加代様を泣かせてしまう。しかも、お加代様の亭主は、商売が下手な人だったから、加賀屋もどんどん傾いてしまう。

でも、そうした父と兄、お加代様の亭主の身勝手が当時は許される時代だったのです。明治時代以降、家父長制がとられ、家族で一番偉いのは家長であって、家長のいうことは絶大で、家族の決めごと、たとえば冠婚葬祭すべてにおいて、家長のいうことがすべて。たとえば、恋愛をして好きな人ができても、家長が気に入らなければ、結婚をあきらめるしかないのです。戦前に心中が多かったのもそのためです。しかも、家の財産は家長が独占できて、家長が家の金を酒に使ったりギャンブルに使っても、家族は何もいえないのです。しかも家長の財産は基本的に長男に相続されました。おしんの父が、おしんに無心するのも、おしんの稼ぎもオレや長男の庄治のものって感覚から来てるのでしょう。

で、樋口一葉のような例外もあるけれど、家長は基本的に家の長男がなるものでした。家父長制があれば、長男が偉いのですね。女は男に何をされても泣き寝入りするしかなかったのです。そういえば、おしんの恩師である加賀屋の大奥様は「女は亭主のため、子供のために自分を犠牲にしても尽くすものだ」といっていました。それは当時では当たり前の価値観でした。

もし、そんな家父長制が令和の時代に復活したら、家長をある意味甘やかしてしまいます。家長が家でゴロゴロして、子供や配偶者が代わりに働くなんてことがまかり通ったり、家長がギャンブルやったりdvしても、泣き寝入りするしかないのです。

ちなみに某政党のつくった憲法案にも家父長制の復活がうたわれております。しかも驚いたことに、保守系の女性の議員や識者が、それを積極的に支持しているのですね。僕には信じられないことです。旦那がいい人できちんとお金も入れてくれる人ならいいが、作造や庄治、お加代さまの亭主みたいな男だったら一生苦労するよって。

じゃあ、樋口一葉のように、女性が家長になればよいかといえば、それもどうかなって。おしんは佐賀の田倉家に嫁に行ったのですが、長男がいたものの、実質、田倉家の家長は、おしんの姑の清でした。清が家では絶大な権力を持ち、おしんも相当いびられたのですよ。僕の祖母もわがままで身勝手で、我が家で絶大な権力を握り、祖父や父も祖母に頭が上がりませんでした。母のことも相当イビってました。祖母に責められ母が泣いていたのも幼心に覚えております。

家父長制は終戦とともに制度としてはなくなりました。しかし、日本人に一度根付いた家父長制はなかなか払拭されませんでした。「おしん」でも、今まで家父長制という制度に苦しめられた、おしんが戦後になると、もっといえば田中裕子から乙羽信子にバトンタッチした途端に、若い世代を押圧する立場になったのです。おしんが頭でどんなに家父長制を否定しても、身体に染みついている。自然と家長のように威張ってしまう。そんな恐ろしさを橋田壽賀子は見事に書いています。実際、戦後教育をバッチリ受けた団塊世代でさえ家父長制の価値観を持っているくらいですから。

家父長制というのは独裁制と同じで、家長が英明で公平な人だったら、うまく機能するが、クズみたいな人間がこの制度を悪用したら泣くのは家族です。下手すりゃ家がめちゃくちゃになります。そんなんドラマの中の話だろって声が聴こえてきそうですが、「おしん」の登場人物のような苦労をした人は多かった。だからこそ、放送当時大きな反響を呼び、いまだに朝ドラで「おしん」の視聴率を超えるドラマはないのです。







津山事件とは1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県の集落で、戸井睦雄トイムツオによって引き起こされた事件です。刃物やジュウを使用して村民30名を約2時間で惨殺ザンサツしたという事件です。恐ろしいですね。この事件は都井の自殺をもって幕を閉じました。この事件は、「八つ墓村ヤツハカムラ」のモデルになりました。

都井は比較的ゆとりのある家に生まれであり、成績優秀で女性にもモテたようですが、病気がちの上に、理解者だった姉の結婚などを機に次第に引きこもりがちになっていったのです。

そして、都井は徴兵検査で結核ケッカクを理由に丙種合格ヘイシュゴウカク(事実上の不合格)になってから、みんなからケムたがれるようになりました。

当時結核と言ったら不治の病で、都井に近よったら結核が移ると思ったのでしょうね。現代のコロナと同じですね。加えて戦時中は、徴兵検査に落ちると「非国民」というレッテルを貼らます。
また、体が弱いと就職も不利。そうやって追い詰められた都井は、このような蛮行におよんだのですね。

津山事件は極端な例ですが、戦前や戦中にも無職の人がいて、無職の人たちが人殺しをする事件は結構あったのですね。親が無職の息子を責めたところ、息子がカッとなって親を殺したという事件もあったのです。逆に親が無職の息子を殺したという事件もあったそうです。

戦前は「教育勅語」のおかげで秩序が守られ、悲惨な事件などなかったという言説があるようですが、とんでもない話。実際、戦前にも悲惨な事件がありました。今日は阿部定事件を取り上げます

阿部定アベサダ事件というものがありました。小説や映画でも度々取り上げられました。そのくらいショッキングな話なのです。阿部定という女性が愛人を殺し、そのイチモツを切り取って持ち歩くというのです。現代なら阿部定は連日ワイドショーで取り上げられ、阿部定を擁護ヨウゴする言論人がいようものなら、SNSでも炎上しまくりでしょう。ところが、阿部定は当時は人気がアイドル並みの人気があったのです。

阿部定は、1905年(明治38)5月28日、東京で4代続く裕福な畳屋の4女として生まれました。それはそれは大事に大事に育てられたのです。が、家庭環境はやや問題があり、長男は何べんも結婚離婚を繰り返し、次女も男あさりをし身持ちがあまりよくなかったのです。それで両親は家のそんな状況を見せたくないと、末っ子の定に「表で遊んでなさい」と言って外に出していたそうです。わけもなく外に出た幼い定は浅草などでプラプラしていたといいます。それがのちの転落人生のきっかけともなったのですね。そんな定は高等小学校(いまの中学校にあたる)に進学したのですが、そこで「男と遊んでいるんじゃないか」ってあらぬウワサが広められ、同級生から不良のレッテルをはられ、友達もいなかったのですね。そのさみしさから遊び歩くようになったのです。

そして定が15歳の時に知り合いの大学生に強姦ゴウカンされたことで自暴自棄ジボウジキになったのですね。それで高等小学校を自主退学し、家のお金を持ち出し、とうとう不良少女になるのです。両親は阿部定を奉公に出して改心させようとしますが、甘やかされて育った定に奉公などつとまるはずもなく、奉公先で着物を盗んだということで警察に捕まり、家に送り返されてしまいます。このころ、父の稼業である畳の仕事もふるわず、定の悪評も近所でもウワサされるようになったので、一家は東京から埼玉県の坂戸に移り住み、心機一転を図りますが、ここでも定の素行は改まりませんでした。近所の男と外泊するありさま。

たまりかねた父は怒り心頭。「そんな男が好きなら芸者になってしまえ!!」と。阿部は最終的に遊郭ユウカクに売られてしまうのですね。それから阿部定は、芸者置屋に売られてしまいます。その時、定を芸者置屋に行くように世話をした柳葉(仮名)という男と無理やり関係を迫られます。しかも定の稼ぎのほとんどは柳葉とその家族の生活費に充てられてしまうありさま。それから定は柳葉らとともに富山に移りますが、そこでも芸者置屋に売られてしまいます。柳葉はひどい男で、定を芸者置屋をやめさせては、別の芸者置屋に売る、そんなことを繰り返していたのです。それは新しく芸者置屋で契約する際に前借金ぜんしゃくきんが目当てでした。前借金とは将来得る予定の賃金から差し引くことを条件として、労働契約締結時に使用者が労働者またはその親などに前貸しする金銭のことで、いわば借金みたいなものです。この時代、前借金は本人より親や親族がもらうことが多かったのです。

柳葉は前借金を受け取り、そのわずかばかりのお金を定にわたし、残りのほとんどを手数料だと言ってネコババしたのですね。定は置屋を変えるたびに返さなくてはいけない前借金がかさみ、この世界から抜け出すことができないことができないのです。悪い男ですね。

定は柳葉に従うしかなく、大阪の遊郭に売られてたのですが、そこを定は逃げ出し、そうかと思えばまた捕まり、また別の遊郭で働かされたのです。逃げては捕まり、そんなことを繰り返したのです。

定は遊郭に売られては逃げてを繰り返したのですが、逃げ出すということは半殺しにされても文句をいえないくらいの命がけの行動だったのです。逃げるということは前借金を踏み倒す行為に等しいですから。遊郭や芸者置屋は警察に連絡して逃亡した遊女さんや芸者さんを捕まえたのです。え?遊女さんらの逃亡に警察が動くのかって?実は戦前は国として遊郭の存在価値を認め、その経営を保護していたのです。逃げた遊女さんを連れ戻すことを協力する代わりに、遊郭に逃げ込んだ殺人犯とか、窃盗犯せっとうはんの逮捕には遊郭側が協力するという警察と遊郭との間でウィンウィンの関係が出来上がっていたのです。ひどい話ですね。誰ですか?戦前は良い時代だといったのは?


そして定は神戸でカフェの女給になったりしますが、1936年(昭和11)名古屋で市議会議員の小宮(仮名)という男に出会います。小宮は誠実な男で、「体を売るのはやめなさい、お金を出すから料理屋でも開きなさい」と言ってくれたのです。定は大喜び。しかし料理屋を開くにしても、商売に関してはトーシロ。それで修行のために東京にでます。

定は修行のため、石田吉蔵イシダキチゾウの経営する料亭の女中になりました。石田は、7人の雇い人を抱える料亭の主人であり、地元でも名士だったようですが、女クセが悪く、以前にも芸者とやろうとして、家族で大騒動オオソウドウになったり、こっそり若い女を囲ったりしていたと言います。阿部定に対しても、陰で手を握ったりと当初からアプローチをかけていたと言います。そしてとうとう、その年の4月23日、料亭の経営者石田吉蔵と阿部定は不倫したのですね。それが石田の妻にバレてしまったのですね。石田と阿部定は出奔シュッポン(※1)してしまいます。



それから三週間、二人はセックスを繰り返したのですね。時には腰ひもで首をしめる、いわばSMプレイもしていたのです。定はのちに石田のことを「私は生まれて初めて女を大切にし喜ばしてくれる男に出会った」と語るほど石田のことが好きだったのです。男としてはここまで女性に好かれたいものですがw、逆に好かれすぎても怖いもの。定はマジで石田をわが物にしようと思ったのですから。しかし、石田は妻子ある身。石田は奥さんを捨ててまで定と結婚する気持ちはまるでなし。

石田の奥さんに対する激しい嫉妬しっとと将来に悲観ヒカンにくれた定は、荒川区の尾久おぐにあった満佐喜まさきという待合に石田を呼んだのです。そこで、石田といやらしいことをしている間に、定は石田をしめ殺してしまったのです。そして石田のフンドシを腰に巻き込んで、石田のイチモツを切り取って紙に包んで、逃げたのでした。その阿部定も5月20日に逮捕タイホされます。逮捕後、安部定は「いちばんかわいい大事なものだから、誰にも(特に石田の奥さん)触らせたくない。石田の局部があれば一緒の様な気がしてさみしくない」と犯行の理由を述べたと言います。定は供述の途中でも石田のイチモツをながめていたといいます。怖いなあ・・・


阿部と石田のことはマスコミも大きく取り上げました。石田が死亡した翌日、早くも新聞各紙はこの事件を大きく報じました。「旅館でイチモツを切り取られた男性の変死体ヘンシタイが見つかり、犯人である連れの女は逃亡中」と。それから、新聞各紙は、連日、阿部定のことを報じました。阿部定が逮捕された5月20日の夕方には、なんと号外まで出ていたのです。

阿部定は美人だったので、逮捕時に撮られた阿部定の写真を見た人たちは驚きました。「こんな美人が、イチモツを切り取って逃げ回っていたのか」って。そして阿部定の人気が高まっていったのです。

阿部定が事件を起こした待合の「満左喜マサキや二人が泊まった旅館「品川宿」が事件後大盛況になりました。満左喜は事件があった部屋に、阿部定と石田の大きな写真を飾り、二人が使ったものを展示したと言います。品川宿も阿部定が泊まっていた部屋を一般開放したと言います。(しかも、枕も敷布も当時のそのまま保存)

報道合戦もエスカレートし、阿部定の生い立ちから逃避行トウヒコウの一部始終までが、繰り返し報道され、阿部定をマッサージした按摩師アンマシは、マスコミの取材謝礼だけで家を新築したというから、すごいというかうらやましいというかw。

また、阿部定には熱狂的な男性ファンが数多くおいたのです。彼女が服役フクエキした刑務所には、毎日、門前に20人以上が出待ちをしており、のべ一万通以上のファンレターが届き、その中には400通以上の結婚申し込みがあったそうえす。殺人犯に求婚キュウコンなんて変な話だと思いますが、現代でもある話なんですね。最近でも、凶悪な殺人事件を起こし刑務所にいる犯人に対して、プロポーズした人がいたと言います。

それどころかカフェや映画会社までが契約金一万円(※3)を提示し阿部定をスカウトしようとしたというから驚きです。

ちなみに阿部定は服役中は模範囚もはんしゅうとして過ごして刑期を2年残して仮出所。出所後は仮名を使い過ごし、結婚までしました。やっと阿部定に幸せがやってきたと思いきや、阿部定の伝記が発表され、あまりにその内容がウソばかりなので、怒った阿部定は訴えを起こしたのですね。このため、現在の夫に素性がばれ、恐れをなした夫から離縁をされてしまったのです。

その後、阿部定はマスコミの寵児ちょうじとなり、なんと映画にも出演したのですが、1971年(昭和46)以降、世間から姿を消したのですね。ただ、1987年ごろに石田の墓にお花が


1992年くらいに伊豆で見かけたという目撃情報もありますが、はっきりしたことは分かりません。でも、さすがに今は亡くなっているでしょう。もし生きていたとしたら100歳は軽く超えています。




※1 逃げ出して後をくらますこと。
※2 現在で言えば2000万円ないし3000万円。


* 参考文献



戦前にサラリーマンという新しい雇用形態が広がりましたが、一方で、江戸時代から続いている丁稚奉公デッチホウコウといういう雇用形態も残っていました。幼少の頃から住み込みで下働きをすることです。

松下幸之助も丁稚奉公をした経験がありますし、財界のナポレオンと呼ばれた金子直吉カネコナオキチも鈴木商店に奉公し、そこで認められて番頭になって辣腕ラツワンを振るいました。そして金子は鈴木商店を三井や三菱に負けないくらいの企業に育て上げたのです。それと丁稚奉公といえば「おしん」でしょうか。

なぜ、子供を丁稚奉公に出すのかというと、現金収入もそうですが、口減らしという面も大きいのですね。昔は、子供の数が多く、一家で子供が五人いたなんて珍しくなかったのです。家が裕福なら問題がありませんが、家が貧しいと大変なんです。子供の養育費が重くのしかかります。それで子供の養育費を少しでも浮かそうと、子供を幼いうちから商家に奉公に出したのです。対象になったのは、12歳ないし14歳くらい。明治時代には7、8歳で奉公にだされるケースもあったのです。

丁稚奉公の労働契約は、一種の身売りのようなもので、まず実家が2、300円の前払いの報酬を受け取り、子供は2〜3年はほとんど無報酬で働くのです。この年季が明けると、1年間はお礼奉公と言って無報酬で働き、その後やっと報酬をもらえるようになります。労働条件はかなり悪いですね。しかし、丁稚の中には、親方に気にいられて、のれん分けしてもらったりすることもあります。

仕事は結構ハードでした。まだ外が暗い3、4時には起床。掃除や洗濯、子守りなどの雑用を一通りこなした後、仕事の手伝いもしたのですね。

丁稚たちの楽しみは、年に2回の里帰りでした。旧暦の1月16日と7月16日の年2回だけ、里帰りが許されたのです。いわゆる薮入ヤブイり主人は奉公人たちにお仕着せの着物やはき物を与え、小遣コヅカいいを与え、さらに手土産テミヤゲを持たせて実家へと送り出したと言います。実家に帰れば両親が待っており、奉公人は親子水入らずで休日を楽しんだと言います。ただ、遠くから出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物シバイケンブツや買い物などをして休日を楽しんだと言います。しかし、年に2回しか休めないとは、本当にきついなって。これなら、月に2、3日は休める製糸工場の女工さんの方がマシだなって。


「おしん」においては、主人公のおしんは2つのところで奉公したのですね。一つ目は中川材木店というお店。そこの女中頭のツネという女性にいじめられてしまうのですね。ツネにいじめられながらも、おしんは仕事を覚えていくのですが、ツネにお金を取ったか、取らなかったかで疑われ、それでおしんは中川材木店を飛び出してしまうのですね。そして二つ目の奉公先の加賀屋では、ものすごくよくしてもらって、特に大奥様のくにに気に入られ、帳簿の付け方とか、読み書き、お茶や生花まで教えてもらったのですね。「おしん」では中川材木店の方がブラック、加賀屋の方がホワイトだと描かれております。

しかし、現実はブラックな奉公先の方が多く、「おしん」の加賀屋のような奉公先は非常に珍しかったのではないかと。江戸時代だったらご飯が食べれれば幸せみたいな感じでしたから、理不尽なことがあっても我慢ガマンできたのですね。それが、社会がそれなりに豊かになり、社会主義、共産主義が日本に入ってくると、影響を受けた奉公人や丁稚も出てくるのですね。また、奉公は嫌な親方や先輩とも、ほぼ毎日顔合わせで、プライベートどころか寝食まで共にしなくてはならないからストレスたまりますよね。寝食どころか、夢の中まで上司が出てきたら嫌ですよね。


実際、岩波書店でもストライキが起こりました。岩波書店といえば広辞苑コウジエンでも有名ですが、この時代からすでにあったのですね。1928年(昭和3)3月12日、岩波書店の少年店員80名と、その岩波書店の向かい側にあった巌松堂ガンショウドウという書店の少年店員42名がストライキを起こしたのですね。巌松堂の丁稚の少年が店で年長の従業員に殴られたことが発端です。

要求の内容は、「時間外手当の支給」だとか「寄宿舎の改善」だとか「8時間労働制の導入」、「月三日の休日を」といった労働条件の改善だけでなく、「殴った社員をクビにしろ」というものと、「“どん“と呼ぶのはやめろ」というものもありました。

ストライキから5日後の3月17日、岩波書店は少年店員側の要求を受け入れたのです。

江戸時代から続いた丁稚奉公は、GHQらによって労働法規が整備され、義務教育も15歳まで延長したこともあり、戦後には消滅しました。丁稚の制度は消えましたが、丁稚や番頭という言葉は残りました。「番頭」は、旅館はもとより、建設業では現場監督者を番頭と呼ぶこともあるそうです。「丁稚」という言葉は古くから続く商店とか職人さんの間で使われています。


* 参考文献




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