history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 鎌倉時代

1 元寇の話がやたら長い
 「日本国紀」の鎌倉時代に関する記述はおよそ18ページにわたっておりますが、そのうち8ページほどにわたって書かれているのが、文永の役、弘安の役、つまり元寇の話なのです。百田先生にとって、元寇はとても重要なテーマだってことがわかります。なにしろ、元軍の侵略を日本は戦って防いだのですから。「元寇と同じように近々、日本にきっと中国が攻めてくるから、国防を強化して、若者を兵役につかせろ!」って百田先生の声が読んでいて聞こえてきましたよ。別に悪いって言ってるんじゃないですよ、ただ、僕と百田先生の考え方が違うって言っているだけですから。

元寇の時の幕府の執権は北条時宗でした。時宗は若くして執権になりました。百田氏は、

「執権だった北条政村まさむらは、この国難に対し、鎌倉武士断の団結を高めるため、六十二歳である自身は引退し、北条得宗家とくそうけ時宗ときむねに執権の座を譲った。驚くべきことに、この時、時宗は満十六歳であった。
(P98)



「驚くべきことに」という言い方が何か引っかかって、いろいろ資料を調べたところ、北条政村は実は引退しておらず、安達泰盛あだちやすもり平頼綱たいらのよりつななどの幕府の有力者らとともに若い時宗を盛り立てていたのですね。そりゃ若干十六歳の若者にいきなりこの国難を任せるのはリスクがたかいですからね。

「北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする調停を抑えて、黙殺する態度を貫いた。(中略)無礼な手紙に対して返書をしないのは当然である」(p98)



僕も思わず「へ?」って思って、資料を調べたら、やはり幕府は断固たる態度で元の要求をはねつけたというよりも、執権が若いので時間稼ぎをする必要があったのですね。国内体制を整え、迎撃の準備を進めるための北条政村や、安達泰盛らの作戦だったようですよ。

「世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけである。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思う。」(p105)


百田先生らしい記述だなと思いましたが、これもからくりがありまして。実は元のフビライは日本との交渉の際や日本への攻撃の際、高麗を利用しておりますが、元に対する高麗の抵抗は結構すごくて、元の日本攻撃へのかなりの障害になっていたそうです。1270年に朝鮮半島で起きた三別抄さんべつしょうの乱。当時の高麗は元の事実上の支配下にあったのですが、1270年に高麗の武将たちによる抵抗運動があったのです。その戦いはすさまじいものでした。それが三別抄さんべつしょうの乱。高麗も日本に援軍を要請したほどでした。結局、幕府は高麗に一切協力することはなかったのですが。先ほど、幕府が時間稼ぎをしたというのも、こうした朝鮮半島における元と高麗の情勢があったからなのですね。

1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、あしかけ4年にわたった反乱は収束するのです。実は、1274年の文永の役(最初の元と日本の)戦いは、そうした激しい戦いの翌年に行われたものです。もちろん、日本側の武士の奮闘もありましたしたが、「三別抄の反乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。」という意見もあるほどです。

文永の役のあとに元は南宋と戦って、南宋をほろぼしていますが、その戦いによる損害もそうですが、支配した中国での徴兵忌避きひなども重なり、兵力を多く集めた割には軍の指揮系統の乱れや士気の低下も見られました。元の捕虜になった兵士たちもやる気をなくし、元に協力するつもりもなかったようです。次の弘安の役でも、日本兵の踏ん張りもありましたし、暴風雨もそうですが、元軍の士気が低く、戦の途中で逃亡するものもいたほど。いくら兵隊を集めたって、士気が低ければどうしよもないですね。

実はフビライは三度の日本侵略を考えていたのですが、ベトナムの反乱があって結局、日本侵略はおじゃんになりました。元は日本に二度も攻めましたが、その前後で、中国、朝鮮、ベトナムの激しい抵抗運動があったのです。そうしたことが日本が蒙古を打ち破ることができた要因の一つなのですね。

それにもともと元が日本に求めたのは通交でした。日本に最初から侵略する意図はなかったのです。

2 なぜか触れられていない日蓮宗と時宗
 百田先生は、鎌倉仏教について「日本国紀」のp108からp109にかけて触れておりますが、なぜか、鎌倉仏教のうち、日蓮宗については触れられておりません。法然と親鸞、つまり念仏宗のことは詳しく書かれておりますが、日蓮宗に関しては全く。なんで?って思いましたよ。日蓮は辻説法をしながら、幕府の政治の在り方を批判し「立正安国論」を北条時頼にだしたほどでした。今の政治のままだと外国に攻められてしまうかもしれないとも日蓮は言ったのですね。事実、そうなったのですが。時宗の代になって、日蓮は幕府の政治を批判したという理由で逮捕されてしまいます。鎌倉幕府を語るうえで日蓮は重要人物の一人なのですが、まったく語られていないのは不自然です。

禅宗の説明もあっさりで、臨済宗と曹洞宗の名前もでてきません。禅宗は鎌倉武士にも受け入れられ、執権である北条時頼も建長寺(臨済宗)を建立したほどなので、禅宗の説明ももっとあったほうがよかったんじゃないかって思うのですが。

さらに時宗も取り上げていない。踊念仏といわれ、民衆の間で熱狂的に広まったほどなのですが。

3 護良親王が全く触れられていない。
 いよいよ南北朝の話になりますが、楠木正成のことはよく触れられておりますが、護良親王のことが「日本国紀」で全く出てこないのは、護良親王ファンである僕には悲しいものがありました。僕なんか、このブログでいくつものエントリーに分けて護良親王をとりあげたのにw

楠木正成も南北朝の戦いにおいて重要人物かもしれないが、護良親王の活躍は大きいと思います。

楠木正成は、楠公とよばれるほどで、戦前、戦時中と彼のことを学校で教えられたのです。百田先生は、当然戦前・戦時中支持派ですから、楠公を持ち上げるのは当然でしょうね。

* 参考文献ならびに参考サイト
日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12








ツイッター、おっと今ではxというのかw、日本に台風が上陸するたびに、「気象兵器」だって騒ぐ人がいる。僕はそのつぶやきを見るたびにうんざりするんですよ。地震兵器の記事でも書いたのですが、地震兵器だの気象兵器だの騒ぐ人を僕はどうしても生理的に好きになれないんですよ。

なぜかって?

そういうことを言う人の根底に、「人間は容易に自然を支配することができる」という驕慢な態度がしばしみられるからです。自然は人間が思っている以上に複雑で、怖いものですよ。自然は人間に恵みももたらしますが、人間に被害ももたらします。そんなことは人類の歴史をみればわかるでしょうに。そんな人間が自然を支配するなんて無理。できたとしても、支配しているに見えるだけ。いわば、お釈迦様の掌で踊らされている孫悟空と同じ。結局、大自然からみたら人間なんてお釈迦様の掌であばれているだけの孫悟空そのもの。

もちろん、そんな傲慢ちきな人ばかりではなく、ネットの言うことをマジで信じている純粋まっすぐ君もいるだろうけれど。

ともあれ、日本にくる台風が自然兵器なら、フィリピンとか台湾に上陸する台風は自然兵器ではないの?もっといえば、鎌倉時代に元軍を襲った台風も自然兵器w?

しかし、気象兵器が全くないかといえば、実はそんなことがなくて、過去に気象兵器をつくろうとした動きはあるにはあったのですね。でも1975年に米ソで気象兵器の開発禁止の話し合いが行われたのですね。気象兵器は地球の生態系を乱す恐れがあるから、開発するのはやめましょうって。新聞にも載りました。

まあ、それもあるけれど、気象兵器なんて開発も大変だし、扱うのも難しいから、開発するのをやめましょうって話だと思われますが。





それに台風を起こせるほどの気象兵器をつくれるなら、そういった気象兵器を平和のために転用し、砂漠地帯へ雨を降らしたり、水不足の解消にもつながると思うのですが。しかし、実際はネット民が気象兵器を隠し持っていると信じてやまないアメリカが、水不足に悩まされているようです。

アメリカ北部では干ばつがおき、アメリカ最大の貯水池のミード湖やパウエル湖も水位が下がっている有様。アメリカどころか世界的に水不足は深刻な問題で、約30億人が水不足に悩まされ、食料生産などにも影響を及ぼしているほどです。

現在放送中の、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。僕も最近は忙しくて見たり、見なかったりです。戦国と違って、あんまり馴染みのない時代のせいか、いまいち筋がわからず、途中で退屈になったりするのですが。それでも三谷幸喜さんのコミカルな脚本に笑ってしまいます。さて、鎌倉殿に源実朝が出てきて柿澤勇人さんが好演されていますね。

これまで僕が習った歴史では、実朝は政治には興味がなく、和歌と蹴鞠しか興味がなく北条氏の言いなりみたいな印象があったのですが、実は非常に政治的センスがあった人物があったのです。そのことを、この間録画した「英雄たちの選択」を見て驚いたのです。

和歌も蹴鞠も、ただ自分の趣味でやっていたのではなく、朝廷、特に朝廷のトップの後鳥羽上皇に接近するためにおこなっていたのです。後鳥羽上皇は『新古今和歌集』の編纂にも関わったほどの風流人であり、また、この時代は和歌が実際の政治を行う上で重要な役割があったのですね。

この時代は、高貴な家柄の人物が和歌を詠むことで天災、災害、天候にも影響を及ぼすとマジで信じられたのですね。武士が有力な貴族と付き合うためにも和歌は必要な教養だったのですね。後鳥羽上皇は、源実朝を大層気に入ったと言います。偉大な父源頼朝を失い、兄も暗殺され、周りにいる御家人たちも北条家を中心に面従腹背の人間ばかり。実の母親である北条政子さえイマイチ信用できない。そんな八方塞がりの状況の実朝にとって、後鳥羽上皇は頼もしい味方であり、父親代わりの人物だったのでしょうね。

ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子を思ふ



という和歌を実朝は詠んでいるのですね。意味は、動物と言えども親が子を思う心があるんだなって意味。逆に言えば、実朝には実の肉親さえ信用できない苦しい状況だ、と言う心境も伝わってきます。また、こういう和歌も後鳥羽上皇に送っております。


山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも


大意は、山が裂けたり、海が浅くなるようなひどいことになっても、あなた(後鳥羽上皇)に対する忠義は忘れません。という意味。

さて、実朝は政治に関心がないどころか、実朝は承元3年(1209年)、政所を開設し、将軍の権力を高めようとしたり、幕府の御家人たちを集め朝廷の警護にあたらせたり。朝廷は独自の軍隊を持っていませんから。

北条義時に対しても意見も言っていたのですね。

ある日、北条義時が「自分の家臣の地位(ついで自分の地位も)あげてくれ」と自分を特別扱いするように求めるも、実朝はそれを拒否したのですね。でも、北条氏にとって面白くないのですね。自分達の意のままに動いてくれない将軍なんて。

そんなおり、事件が起こります1213年、幕府の有力御家人だった和田義盛が義時のやり方に耐えきれず、北条氏打倒のために兵を挙げたのです。当時の和田義盛は侍所別当という職にありました。今でいえば防衛大臣と検察庁長官を兼ねたような地位です。そんな人が兵をあげるのですから、その当時の混乱ぶりがいかにひどかったか伺えます。その和田に味方したのが、三浦義村でした。彼は戦が始まる前までは和田に同調してたのですが、いざ戦が始まると北条義時に味方したのですね。三浦は北条と密約を交わしていて、和田の動きを逐次報告していたのですね。和田は完全に孤立します。和田と北条は二日間戦い続け、そして和田義盛は死んでしまうんです。いわゆる和田合戦です。この戦に勝利した北条義時は侍所別当になります。

こうした御家人同士の混乱ぶりに、後鳥羽上皇は、実朝に対して「こいつ、政治家としての統治能力がないんじゃないか」って疑われてしまうのです。さらに悪いことに1213年には鎌倉大地震が起こります。この時代、地震とか台風とか大きな災害が起こると、為政者の政治が悪いんじゃないかってマジで思われていたのですね。今と全然違いますね。こうしたこともあって後鳥羽上皇の実朝に対する信頼も失いつつあるのですね。そこで実朝はへこたれずに、和田合戦のような出来事が起こらないように、御家人たちとコミニケーションをとって、御家人たちの不満にも耳を傾けたのですね。そうして、御家人お意見を聞きつつ積極的な政治を行った実朝の姿勢に、後鳥羽上皇も喜んだのですね。

さらに、実朝は将軍の権威を高めようと、大きな船を作ります。大きな船を作って宋に渡って、貿易を行おうとしたのでしょうね。しかし、造船には莫大な金がかかるということで御家人の長老であり、将軍の諌め役の大江広元たが大反対するのですね。それでも実朝は造船を強行。結局、設計の失敗で、船は出航できず。

一方、実朝は朝廷の権威を持って御家人を抑えようとします。そんな実朝の心に応えるかのように後鳥羽上皇は実朝に官位を授けます。1211年の非参議から始まって、1218年10月には内大臣、同年12月には右大臣にまで昇進。あまりにも急な官位の上がりっぷりに御家人の間でも不安に思う声も上がり亜ます。この時代、あまりに短期間で官位が上がると不吉だと信じられていたのですね。

こうして後鳥羽上皇と強いつながりを持っていた実朝ですが、ウィークポイントがありました。それは跡取りがいないことでした。為政者に子供がいないというのはこの時代は致命傷です。なぜなら、この時代は為政者は世襲なのが当たり前。為政者が世襲だと何かと叩かれる令和とは、まるで違います。そこで、実朝は自分の後継者を後鳥羽上皇の皇子を自分の後継者として迎え入れようとしたのです。これは後鳥羽上皇にとっても悪い話ではありません。息子を実朝の跡取りになることで、実質的に朝廷は東国の強大な軍事力を手にいれ、幕府も思いどおりに支配できると。

そんな後鳥羽上皇と実朝の構想に不満を持つ人たちがいました。北条家はいうまでもありませんが、もう1人、公暁という人物です。公暁は、実朝の兄、源頼家の子供です。公暁と実朝は、おいと叔父の関係ですね。公暁だって将軍になれる資格があったのに、自分を差し置いて、将軍に天皇の子を迎えるなんて、とんでもないって思ったのです。実際、公暁が実朝に対する呪詛をしているというウワサもあったほど。

そして、公暁は実朝を呪い殺すことをやめ、実朝を実際に殺すことを企てます。1219年正月28日、実朝の右大臣拝賀の儀式がおこなれました。これは実朝が右大臣になったことにお礼をいう儀式です。その儀式が鶴岡八幡宮で行われました。儀式を終えた実朝が鶴岡八幡宮の階段を降りていく途中、公暁に突然斬られてしまうのです。その公暁も三浦義村に殺されてしまいます。

実朝暗殺の知らせをしった後鳥羽上皇は大層驚きます。我が子当然のように接してきた実朝の死に後鳥羽上皇は激怒。朝廷と幕府の関係は悪化。これが承久の乱につながります。もし、実朝が殺されなかったら、承久の乱も起こらなかったし、南北朝の動乱だって起こらなかったかもしれない。そして、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

※ この記事は「英雄たちの選択」を見て書きました。


戦が終わり、平和な時代になったらなったらで色々問題が出てきます。まず、鎌倉幕府は御恩と奉公という間柄で、御家人たちに忠誠を誓わせる一方で、褒美として土地などを与えてきたのです。だから、御家人たちはどこかの国みたいにカルト的な忠誠を誓わせたわけじゃないのです。貰えるものがなければ、幕府に不満を持ってしまうのです。戦争があったときは、負けた方の領地を御家人にあげることができましたが、戦争がなければ土地も与えられず、御家人の不満も出てきます。「俺たちにタダ働きさせるんじゃねえ!鎌倉殿はひでえやつだ」って。与えるパイがなければ、それまでなんです。与えるパイが少なくなると、その今度は親戚同士で揉めるのですね。俺のだ、俺のだって。そうなると訴訟も多くなります。

与えるパイもそうですが、戦争があったときは、共通の敵がいたので、一致団結して戦うことができたのです。が、平時になると、共通の敵がいなくなります。すると起こりやすいのが内紛です。「Zガンダム」でも、ジオンという敵がいなくなり(残党がいるものの)、地球連邦軍がエゥーゴとティターンズという二つの軍閥に分かれ内戦を起こしてしまうのですね。

今「鎌倉殿の十三人」やってますが、頼朝というトップの元、北条以下、有力な御家人たちがひしめき合っているのです。仲良くやるのが1番なのですが、それぞれが幕府の実権を握ろうと虎視眈々としていて、最悪、御家人同士が相争うこともあるのです。そんなことにならないように頼朝は御家人同士のパワーバランスに気を遣っていたのです。

また、戦争がなくなれば、武士の存在価値が薄れていくのですね。幕府もいわゆる軍事政権。世界の歴史を振り返ってみても軍事政権で成功した例はあまりないのですね。平和になると軍人の政治から、官僚の政治に変わらなきゃいけない。統治システムが必要になります。その統治システムで1番いらないのが武力、もっと言えば暴力です。今まで戦しかやらなかった人たちに、いきなり刀を捨てろと言われても困ってしまうのです。武家でも北条義時のような人なら問題ないのですが、そんな人ばかりじゃない。結局、京都から公家や官僚を招いて、幕府の運営にあたらせると。公家はこうした官僚的な仕事が強いですからね。こうなると武士は肩身が狭くなります。

そんな最中、頼朝に次男、千幡が生まれます。のちの源実朝です。その乳母夫(後見人)に北条時政が選ばれました。これは千幡に北条家が後ろ盾になるということです。一方、頼朝の嫡男の頼家の乳母夫に比企能員ヒキヨシイエがいました。頼家の後ろ盾に比企家。頼朝の死後、跡目を巡って比企と北条が対立する危険性があります。それで頼朝は、比企の娘と北条義時を結婚させたのです。

これで、幕府も安泰と思って起きたのが、曽我騒動。頼朝はどう動くか。なんと、頼朝は事件の後、御家人たちの大粛清を行います。御家人や武士団たちの所領を没収したり、有力な御家人を無理やり出家させたり。さらに弟の源範頼もターゲットになったのです。罪状は、曽我兄弟の敵討ち事件直後、頼朝が死んだという知らせが鎌倉に伝わったのです。その時、範頼が北条政子に「私がいるから大丈夫」と語ったと。頼朝は死んでいないのに、範頼は死んだと勘違いしたのですね。範頼としては野心というより、鎌倉幕府を守らなきゃという使命感からきた行動だと思うんですよ。でも、頼朝はそうとらなかった。自分に対する裏切りとしか思わず、範頼を幽閉の上、暗殺。

甲斐源氏の御家人、安田義資も首を刎ねられます。理由は永福寺の供養の最中に女官に恋文を渡したからだとか。永福寺は、頼朝が奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため建立した寺院であり、その供養の際の義資の態度が、安田一族の粛清の口実にされたと思われます。

曽我事件を期に、鎌倉に不満を持つものや嫡男の頼家に歯向かいそうな御家人を粛清したのですね。そして、頼朝が最も気になったのが北条時政。北条時政は女房の政子の父であり、鎌倉幕府の功労者。粗末に扱うわけにはいきません。しかし、曽我兄弟の弟の五郎元服した時の烏帽子親だったのが時政だったのです。五郎に時政の一字を与えています。しかも敵討ちの際は時政は協力したという噂もあったほど。そんな時政に頼朝は不信感を抱いています。でも、結局頼朝は時政を粛清することなく、それ以降も重んじたのです。さらに遠江の領地も与え、時政は伊豆、相模、遠江の3カ国の守護になれたのです。時政はまだまだ幕府のために必要だと頼朝は判断したのでしょう。

*この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

北条時頼といえば、鎌倉幕府5代執権です。彼は20代で執権の地位に立ちましたが、彼が執権になってそうそうクーデータ未遂事件が起こるのですね。いわゆる宮騒動と呼ばれるものです。

鎌倉幕府は将軍と執権がおりまして、将軍は君臨すれども統治せずの立場で、執権が政治の実権を握っていたのです。源頼朝の時代はともかく、執権、つまり北条氏が権力を握っていたのです。頼朝の直系は3代で途絶えているので、幕府は摂関家から将軍をお迎えしていたのです。北条時頼の時代の将軍は、九条頼嗣でした。しかし、九条頼嗣はまだ若く、前将軍だった九条頼経が大きな顔をしていたのですね。そこへ御家人の名越氏が、御家人の三浦氏や九条頼経をそそのかし、クーデターを起こそうとしたのです。しかし、それは執権時頼が反乱の兆候を捉え、事前に取り押さえることができたから、大きなことにならなかったのです。歴史学者の磯田道史さんは北条氏のことを「地獄耳に千里眼の北条氏」とおっしゃっていたのですが、そうした北条氏の情報網はすごいなって。

おそらく名越氏と九条頼経らは、軍勢を集めているうちに北条に嗅ぎつけられたのでしょうね。軍勢を集めるとなると時間もかかるし、軍を集めるとなると、大掛かりな話になりますからね。やるんだったら、もっと秘密裏にやって、北条時頼を油断させて、暗殺するというやり方の方が良かったのでしょうが、名越氏はそれをしなかったのでしょうね。

また、北条時頼の抜け目のないところは三浦氏を味方につけたのですね。それで三浦氏と名越氏は仲違いさせることに成功したのですね。この宮騒動の結果、名越氏は流罪。九条頼経は鎌倉から追放され京都に送還されたのです。

しかし、時頼を悩ませる事件が翌年に起こります。宝治元年ホウジガンネンにおこた宝治合戦。これは安達景盛と三浦泰村の争いです。この事件の背景は安達氏と三浦氏の権力争いが背景にありました。

安達氏は北条時頼の母方の実家で、本来なら外祖父として権力を握れる立場なのですが、意外とそれほど権限はなく、三浦氏の方が大きな権力を持っていたのですね。三浦氏は人事に大きな発言力を持っていたと言います。三浦氏は名門であるし、宮騒動の時にも北条時頼に味方しましまたからね。三浦氏の専制ぶりに安達氏は不満を抱いていたのです。こうした三浦氏と安達氏の両家の対立に時頼は心を痛めておりました。

また、三浦氏当主である三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったのですが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍だった九条頼経の京都送還に同行し、九条頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていたとか。

だから、時頼は三浦氏を非常に警戒したのですね。実際、三浦氏は武具を集め、兵を集め、北条氏を倒そうとしているという噂も流れたとか。

時頼は三浦泰村邸に使者を派遣しました。泰村は「自分は、ありもしない噂を流され迷惑している」と答えたそうです。しかし、三浦館内に武具が揃えられていたのですね。三浦家は戦いの準備をしていたのです。時頼は悩んだことでしょう。鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、時頼は自分の腹心である平盛綱を泰村邸に送り、和平の義を成立させました。長期間の緊張を強いられていた泰村はこの和議を喜び、この直後に湯漬けを食して吐き戻したとか。


これで鎌倉も平和になると思いきや、その事を知った安達景盛は、三浦氏に戦いを挑んだのです。平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜いて、武装した安達の軍勢が館から出撃し、若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を襲ったのですね。奇襲を受けた泰村は仰天し舘に立て籠もって迎撃の構えを取りました。合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ始めて鎌倉に密集し、事態はめちゃくちゃになったのですね。

さらに悪いことに、それまで中立の立場だった北条時頼までも安達氏に味方してしまったのですね。三浦氏の館を攻め込まれ、三浦泰村は戦う意志を失ったのです。三浦光村は最後まで戦うべしという感じでしたが、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして、三浦泰村は弟の光村に法華堂へ来るように命じたのです。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かったのです。法華堂は源頼朝が祀られていたのです。三浦氏いや当時の御家人たちにとっては源頼朝は神様のような存在でしたから。


三浦泰村は死ぬ間際にこういったと言います。

「北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、私の父である三浦義村は他の一族の多くを滅ぼし、その罪は深い。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたといいます。

そして三浦氏にまつわるものたち500人余りが自害したとか。


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