history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 室町時代

1 元寇の話がやたら長い
 「日本国紀」の鎌倉時代に関する記述はおよそ18ページにわたっておりますが、そのうち8ページほどにわたって書かれているのが、文永の役、弘安の役、つまり元寇の話なのです。百田先生にとって、元寇はとても重要なテーマだってことがわかります。なにしろ、元軍の侵略を日本は戦って防いだのですから。「元寇と同じように近々、日本にきっと中国が攻めてくるから、国防を強化して、若者を兵役につかせろ!」って百田先生の声が読んでいて聞こえてきましたよ。別に悪いって言ってるんじゃないですよ、ただ、僕と百田先生の考え方が違うって言っているだけですから。

元寇の時の幕府の執権は北条時宗でした。時宗は若くして執権になりました。百田氏は、

「執権だった北条政村まさむらは、この国難に対し、鎌倉武士断の団結を高めるため、六十二歳である自身は引退し、北条得宗家とくそうけ時宗ときむねに執権の座を譲った。驚くべきことに、この時、時宗は満十六歳であった。
(P98)



「驚くべきことに」という言い方が何か引っかかって、いろいろ資料を調べたところ、北条政村は実は引退しておらず、安達泰盛あだちやすもり平頼綱たいらのよりつななどの幕府の有力者らとともに若い時宗を盛り立てていたのですね。そりゃ若干十六歳の若者にいきなりこの国難を任せるのはリスクがたかいですからね。

「北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする調停を抑えて、黙殺する態度を貫いた。(中略)無礼な手紙に対して返書をしないのは当然である」(p98)



僕も思わず「へ?」って思って、資料を調べたら、やはり幕府は断固たる態度で元の要求をはねつけたというよりも、執権が若いので時間稼ぎをする必要があったのですね。国内体制を整え、迎撃の準備を進めるための北条政村や、安達泰盛らの作戦だったようですよ。

「世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけである。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思う。」(p105)


百田先生らしい記述だなと思いましたが、これもからくりがありまして。実は元のフビライは日本との交渉の際や日本への攻撃の際、高麗を利用しておりますが、元に対する高麗の抵抗は結構すごくて、元の日本攻撃へのかなりの障害になっていたそうです。1270年に朝鮮半島で起きた三別抄さんべつしょうの乱。当時の高麗は元の事実上の支配下にあったのですが、1270年に高麗の武将たちによる抵抗運動があったのです。その戦いはすさまじいものでした。それが三別抄さんべつしょうの乱。高麗も日本に援軍を要請したほどでした。結局、幕府は高麗に一切協力することはなかったのですが。先ほど、幕府が時間稼ぎをしたというのも、こうした朝鮮半島における元と高麗の情勢があったからなのですね。

1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、あしかけ4年にわたった反乱は収束するのです。実は、1274年の文永の役(最初の元と日本の)戦いは、そうした激しい戦いの翌年に行われたものです。もちろん、日本側の武士の奮闘もありましたしたが、「三別抄の反乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。」という意見もあるほどです。

文永の役のあとに元は南宋と戦って、南宋をほろぼしていますが、その戦いによる損害もそうですが、支配した中国での徴兵忌避きひなども重なり、兵力を多く集めた割には軍の指揮系統の乱れや士気の低下も見られました。元の捕虜になった兵士たちもやる気をなくし、元に協力するつもりもなかったようです。次の弘安の役でも、日本兵の踏ん張りもありましたし、暴風雨もそうですが、元軍の士気が低く、戦の途中で逃亡するものもいたほど。いくら兵隊を集めたって、士気が低ければどうしよもないですね。

実はフビライは三度の日本侵略を考えていたのですが、ベトナムの反乱があって結局、日本侵略はおじゃんになりました。元は日本に二度も攻めましたが、その前後で、中国、朝鮮、ベトナムの激しい抵抗運動があったのです。そうしたことが日本が蒙古を打ち破ることができた要因の一つなのですね。

それにもともと元が日本に求めたのは通交でした。日本に最初から侵略する意図はなかったのです。

2 なぜか触れられていない日蓮宗と時宗
 百田先生は、鎌倉仏教について「日本国紀」のp108からp109にかけて触れておりますが、なぜか、鎌倉仏教のうち、日蓮宗については触れられておりません。法然と親鸞、つまり念仏宗のことは詳しく書かれておりますが、日蓮宗に関しては全く。なんで?って思いましたよ。日蓮は辻説法をしながら、幕府の政治の在り方を批判し「立正安国論」を北条時頼にだしたほどでした。今の政治のままだと外国に攻められてしまうかもしれないとも日蓮は言ったのですね。事実、そうなったのですが。時宗の代になって、日蓮は幕府の政治を批判したという理由で逮捕されてしまいます。鎌倉幕府を語るうえで日蓮は重要人物の一人なのですが、まったく語られていないのは不自然です。

禅宗の説明もあっさりで、臨済宗と曹洞宗の名前もでてきません。禅宗は鎌倉武士にも受け入れられ、執権である北条時頼も建長寺(臨済宗)を建立したほどなので、禅宗の説明ももっとあったほうがよかったんじゃないかって思うのですが。

さらに時宗も取り上げていない。踊念仏といわれ、民衆の間で熱狂的に広まったほどなのですが。

3 護良親王が全く触れられていない。
 いよいよ南北朝の話になりますが、楠木正成のことはよく触れられておりますが、護良親王のことが「日本国紀」で全く出てこないのは、護良親王ファンである僕には悲しいものがありました。僕なんか、このブログでいくつものエントリーに分けて護良親王をとりあげたのにw

楠木正成も南北朝の戦いにおいて重要人物かもしれないが、護良親王の活躍は大きいと思います。

楠木正成は、楠公とよばれるほどで、戦前、戦時中と彼のことを学校で教えられたのです。百田先生は、当然戦前・戦時中支持派ですから、楠公を持ち上げるのは当然でしょうね。

* 参考文献ならびに参考サイト
日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12








今日は建国記念日。建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定されております。2月11日は初代天皇の神武天皇が即位した日とされております。その日を建国記念日となったのですね。今日は天皇、もっといえば歴代の天皇で一番理想的な人は誰だったかってお話したいと思います。

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(神武天皇をまつる橿原神宮)








このようなツイートを見て思ったのですが、なるほどなって。歴代の天皇といえばたくさんいるのに、ネトウヨにとって理想の天皇が神武天皇、明治天皇、昭和天皇が3人だけっていうのもさみしい気もする一方で、ネトウヨがすきそうな天皇といえば、僕は後三条天皇と後醍醐天皇を連想します。二人ともすげえ好戦的で、後三条天皇は鎌倉幕府を倒そうとしたし、後醍醐天皇は実際に倒した上に、天皇中心の専制的な社会をつくりあげたのですから。昭和天皇はなにかと独裁者みたいに言われがちですが、言っちゃ悪いけれど、後醍醐天皇のほうがもっとすごくて、独裁者でした。



後醍醐天皇の政治は建武の新政とよばれましたが、全くうまくいかず、大変評判が悪かったのですね。二条河原の落書には「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀にせ綸旨召人 早馬 虚騒動そらさわぎ・・・」って具合にぼろくそに批判されるほど。かえって混乱を招いてしまったのですね。にもかかわらず、









↑上のツイートのように、ネトウヨたちにウィキペディアを項目を編纂され、名君のように書き直されているのですね。確かに新しい試みをするなど、斬新な面もあって評価もできるのですが、早急な改革は混乱を招くだけだったし、息子の護良親王を誤解し、死に追いやったり。

後醍醐天皇といえば三種の神器を勝手に持ち出し、その三種の神器の所有権を根拠に自分は正当な天皇だと主張したのですが、そもそも三種の神器というものは、日本書紀にも古事記にも、皇位の象徴だと書かれていないんですね。また、三種の神器が古代からあったものではなく、壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水したときに草なぎの剣も一緒に海に沈んでしまったのです。つまり、いまある草なぎの剣はレプリカなんです。だから、三種の神器は後醍醐天皇が現れるまでは、それほど重要なアイテムではなかったのです。それが、天皇であることの証みたいになったのは後醍醐天皇が最初。そのせいで、天皇家は南朝と北朝は真っ二つ。逆に言えば後醍醐天皇が勝手なことをしなければ、南北朝のあの混乱はなかったのではと思います。正直言って。稀代の名君どころか、暗君に近いと思うのですが。



僕は天皇家で稀代の名君といえば、室町時代の後花園天皇だと思う。英明で、天皇家中興の祖ともいわれる人物だったそうです。後花園天皇は、政治を顧みず、芸術にうつつを抜かしている8代将軍足利義政にたいして漢詩をしたためて諫めたといいます。その漢詩は「もっとまじめに苦しんでいる庶民のことを考えろ」みたいな内容だったそうです。もっとも足利義政はひそかに公共授業を行って庶民を救っていたので、後花園天皇の戒めは的外れだったようですが。

ちなみに後花園天皇の代に三種の神の一部が盗まれたといいます。最終的には取り戻すことができたのですが、神器の不在は15年近くに及んだといいますが、南北朝の動乱のさなか、二条良基が「三種の神器は天下のどこかにあれば問題ない」といっていたし、さらに後光厳天皇以降三種の神器の不在が続いたという事実もあって、15年間の神器の不在での支障はほとんどなかったといいます。

1 応仁の乱とは
応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までなんと11年も続いた内乱です。時の将軍足利義政。足利義政には跡取りがおらず、弟の足利儀視アシカガヨシミを次期将軍に任命しました。ところがすぐ後に足利義政の正室の日野富子が男子を出産。のちの足利義尚あしかがよしひさ。日野富子はわが子を次期将軍にしたい。困ったのは足利義政。そんな将軍跡継ぎ問題に、山名宗全やまなそうぜん細川勝元ほそかわかつもとがからんできたのです。二人は幕府の実権を握り激しく対立していたのです。細川家は代々、管領をつとめてきた名門。管領とは将軍の補佐役で、いわばナンバー2の立場。また細川は土佐、讃岐、摂津、丹波をおさめる守護職(*1)にありました。いっぽう、山名氏は侍所(*2)という役職についていました。山名は安芸、備後、播磨、但馬の守護でもありました。応仁の乱は、将軍の跡取り問題にからんで、山名と細川の対立によりはじまったのです。細川が東軍、山名は西軍。山名が陣をを構えたところが、いまの京都の西陣。西陣織でも有名ですね。


2 発端は畠山家の跡取り問題
ですが、この応仁の乱のそもそもの発端は、将軍の跡取り問題というより、畠山家の内紛でした。畠山氏は越中、山城、河内、紀伊を治める守護でもあり、細川家とともに畠山家も管領の役職でした。応仁の乱からさかのぼること19年前、時の当主、畠山持国はたけやまもちくにが次期当主を弟の畠山持富はたけやまもちとみではなく、持国の息子の畠山義就はたけやまよしひろに変えてしまったのです。そのことを足利義政は認めてしまったのですね。そして畠山持国は失意のうちに亡くなったのです。そのまま義就が当主となって丸く収まるかと思いきや、持富には息子が二人もいたのです。兄の畠山弥三郎とその弟の畠山政長。あろうことか義就が家督を継ぐことに納得がいかない畠山の家臣たちが、弥三郎&政長兄弟を担ぎ上げてしまったのです。

そして義就と弥三郎&政長が争い、弥三郎&政長兄弟が勝ってしまったのです。すると、それまで義就支持だった足利義政は、あっさり畠山弥三郎の家督相続を認めたのです。それが足利義政は今度は弥三郎を家督を無理やりおろして、再び義就に戻してしまったのです。これで丸く収まるかと思いきや、畠山家の家督争いは続き、今度は畠山義就と畠山政長の対立となったのです。畠山家は泥沼化。そこへしゃしゃり出たのが足利義政。義政はとうとう、義就を自分の言うことを聞かないという理由で追放したのですね。これで畠山家の家督は畠山政長になりました。納得がいかないのは追放された義就。義就は吉野にのがれチャンスを待ったのです。そして文正/応仁元年(1467)1月18日。畠山義就が動いたのです。政長のいる御霊林ごりょうばやしに攻め込んだのです。この義就と政長の御霊林の戦いが応仁の乱の発端となったのです

実は、義就をそそのかしたのが、山名宗全だったのです。そして山名は義就に援軍を出したのです。一方の細川勝元は政長の味方をしていたのですね。細川勝元は山名が義就の味方を出したことに黙っておらず、援軍を送ろうかと思ったものの、将軍足利義政の命により手出しをしなかったのです。足利義政は山名と細川の両氏に畠山の内紛に手出しをするなと命じたのですが、山名は無視。一方の細川は将軍の命に従い援軍を送らなかったのです。そのため、御霊林の戦いでは山名の援軍を得た義就の勝利。しかし、御霊林の戦いで戦は終わらず、山名側と細川側それぞれに各国の大名たちが加勢し、どんどん泥沼化。山名と細川は京の町を舞台に激しい戦をくりひろげたのです。山名の西軍は11万、さらに細川の東軍が16万。総勢27万もの軍勢が相争ったのですね。



3 長期化した理由
しかも悪いことに、足利義政が細川の味方をしてしまい、弟の足利義視を東軍の総大将に任命。山名率いる西軍は幕府に逆らう逆賊となってしまったのです。本来、両者の調停役をやらなきゃいけない将軍が細川の味方をしたため、ややこしいことになったのですね。

これで西軍が不利になるかとおもいきや、山名は大内政弘を味方につけたのですね。大内の軍勢は8万。この大内の大軍を得た西軍は形勢逆転。これには東軍の大将だった足利義視はにげだしてしまったのですね。ますます戦はひどくなり、京にあったいくつもの寺が焼けてしまい、将軍が暮らす花の御所も半焼してしまったのです。これに怒った足利義政は後花園法王に山名討伐の院宣を出すように頼みます。とうとう山名は朝敵になってしまったのです。これで戦が収まるかとおもいきや、なんと足利義視が西軍に就いてしまい、西軍の士気があがってしまったのですね。なぜ義視が西軍に寝返ったのかというと、将軍家では日野富子の実家の日野家が幅を利かせ、義視の居場所がなかったのです。日野富子はわが子の義尚を将軍にしたい。すると義視は邪魔者でしかない。追われるように義視は西軍側に行ってしまったのです。こうした足利一族の腰の定まらなさも長期化の一因。


応仁の乱には各地の守護大名たちも参戦しましたが、各地の守護大名たちも近隣の守護大名たちと、もともと対立していたのです。たとえば、丹後の一色氏(西軍)は若狭の武田氏(東軍)は領地争いをししていたし、斯波氏(西軍)と今川氏(東軍)も遠江の地をめぐって対立。六角氏(西軍)と京極氏(東軍)は近江の守護の座をめぐって対立していたのです。守護大名たちの対立構造を抱えたまま、応仁の乱に参戦してしまったのです。これも応仁の乱が長期化したことの理由なんですね。

また、乱がはじまると大名たちは自分の屋敷に井楼せいろうと呼ばれるヤグラをつくりました。物見やぐらでもあり、このヤグラから敵を攻撃することもできます。さらに屋敷の周りに堀も巡らせ敵の侵入を防いだのです。そのため、敵の屋敷を攻撃するのに手こずってしまい、これも応仁の乱が長期化してしまったことの一つ。

足軽の登場も長期化した理由の一つでした。足軽は戦国時代のイメージもありますが、応仁の乱からすでに存在したのですね。この時代の足軽の任務は放火や略奪。しかも金で雇われた傭兵。主君に対する忠義などなく、やりたい放題だったようです。こうした足軽たちのやりたい放題も戦を長期化させた理由の一つ。

文明3年(1471)には京で天然痘が大流行。もはや戦どころではなくなったのです。さらに翌年の文明4年(1472)には細川と山名の間で和睦交渉も始まったのです。さらに、戦争の当事者だった山名宗全と細川勝元の二人が文明5年(1473)に亡くなってしまったのです。が、結局、戦争は終結せず、1477年まで続いたのです。応仁の乱は勝者も敗者もなくうやむやのまま終結したのです。



※ この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。







*1 国ごとに置かれた軍事や行政の指揮官
*2 京の警備や裁判を担当

1 兄弟げんか
「観応の擾乱」「かんのうのじょうらん」「観応の擾乱」。この言葉を初めて知ったのは僕が大学受験生だった頃。日本史の授業で知りました。僕は当時、代々木ゼミナールに通っていて、その時、菅野祐孝先生という方に習っておりました。その先生が「観応の擾乱」を「菅野の冗談」って覚えろって言われましたw。「観応の擾乱」の「観応かんのう」は年号で、「擾乱じょうらん」とは争いごとって意味です。観応の擾乱は平たく言えば、足利尊氏あしかがたかうじ足利直義あしかがただよしの兄弟ケンカです。

しかし、ただの兄弟喧嘩ではなく様々な人間関係が入り混じった複雑な事件でした。

事件の発端は、足利直義と高師直こうのもろなおの対立から始まります。足利尊氏が征夷大将軍になって幕府を開き、宿敵の後醍醐天皇ごだいごてんのうも亡くなったことで、南朝が生き残っているとはいえ、尊氏もまずは一安心。尊氏は軍事を、弟の直義は行政を行い、そして執事しつじの高師直がサポートするという、尊氏、直義、高師直のトロイカ体制は盤石かと思われました。しかし、直義と師直の対立は日に日に高まるばかり。それで直義は尊氏に直訴し、師直を執事をやめさせます。

しかし、それでめげないのが師直もろなお。逆に師直は仕返しに直義を引退に追い込むのですね。ところが、その一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出るのですね。そして、直義は尊氏&師直に戦いを挑むのですね。とは言いましても、直義は兄貴である尊氏のことは憎んでいないのです。あくまで高師直のことが嫌だったのですね。


2 義詮と直義の対立
尊氏を裏切り直義に寝返る武将が続出し、直義軍の勝利。そして、高師直とその弟の高師泰が殺されてしまうのですね。高師直兄弟を殺めてたのは直義のしわざだとか。師直を信頼していた尊氏は悲しみ、直義との関係が悪くなるのですね。それでも尊氏と直義はすぐ和睦わぼくを結ぶのです。尊氏と直義は血を分けた兄弟。2人とも戦いたくはないのです。2人は今後の幕府の運営について話し合ったのですね。基本的に政務は尊氏の子である足利義詮が担い、直義は義詮を補佐する。武士たちに与える恩賞論考は尊氏がやると。そして、同じく尊氏の子である足利直冬を鎮西探題ちんぜいたんだい(九州)に任命。これで一件落着かと思いきや、この人事はのちの波乱を生むのです。

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(足利直冬と足利義詮は異母兄弟で、母親が違うのですが、あいにく、このアプリでは母を二人に分けることができず、やむを得ず二人が尊氏の子であることを証明するため、このような表示になってしまいました。また、義詮には足利基氏という弟もいるのですが、観応の擾乱に関わっていないので、省略しております。)

まず、次の将軍だと目されている義詮と、直義の関係が非常に良くない。まして義詮は高師直のことをとても信頼していたのですね。信頼する部下を殺した直義のことを憎んでいたのです。また鎮西探題を担うことになる直冬は、尊氏との関係がよろしくないのです。直冬は尊氏の子供は言っても、直冬の母親は身分が低かったのです。だから尊氏は直冬に対して冷たい態度をとっていたのです。その直冬を不憫に思ったのが直義。直義は、直冬を養子として迎え入れたのですね。

それと、尊氏は負けた側なのに、なぜか恩賞充行アテオコナイ権(※1)になったこともまずかったのですね。本来、恩賞は勝ったはずの直義がやるべきなのに。この時代の武士は忠義よりも恩賞をくれる大将、あるいは自分にとってメリットがありそうな大将についたのですね。楠木正成くすのきまさしげみたいな人は珍しかったのですね。尊氏も十分な恩賞を与え満足させないと武士たちは自分の言うことを聞いてくれないことをよく知っていたのですね。逆に言えば、恩賞さえ与えれば、武士達は自分の言うことを聞いてくれる。いくらトップがヘリクツを言っても、恩賞をくれない人間の言うことなど武士は聞かない。だから、この時代、恩賞を左右する立場の人は強いんですね。尊氏は恩賞担当をやらせてくれと直義に頼んだし、直義も兄貴の言うことだかと遠慮があったのですね。

3 直義、なんと南朝と和睦
それから直義は南朝との関係を良くする試みます。一時的な和睦ではなく、今後とも仲良くしてきましょうと。が、これは不発に終わります。南朝側は元々直義のことは良く思っていなかったのです。和睦なんて口先だけで、直義は北朝の利益しか考えていないことを見抜かれてしまったのです。また、直義は南朝と北朝とで交代交代で天皇を出せば良いと主張。これに対し、南朝は「俺たち南朝こそ正統だ!」って聞かないのです。むしろ南朝はいざとなれば戦う姿勢を崩さない。それで尊氏は南朝を討つために挙兵するのです。その挙兵を、悪いことに、直義は自分を討つための挙兵だと勘違いしてしまうのですね。こうした誤解がさらなる混乱を招くのです。そして、各国の武士達は直義につくか、尊氏につくか二分してしまうのです。

さらに義詮は、観応2年(1351)に御前沙汰ゴゼンサタと言う期間を設置します。この期間は恩賞の査定だけで無く、裁判も担っていたのです。そのため、御前沙汰を作った義詮の権限は強くなり、直義の居場所がなくなったのですね。直義は逃げるように、直義側についた武士たちと共に北陸へ向かったのですね。そして越前(今の福井県)にあった金ヶ崎城かながざきじょうを拠点としていたのです。

そして、直義と義詮&尊氏は再び戦うことになるのです。戦いの場所は近江国おうみのくに(今の滋賀県)の八相山ハッソウザン。とは言いましても、直義が戦場に出向いたのではなく、畠山国清や桃井直常ら武将達にたたわせて、直義は金ヶ崎城にこもっていたのですね。やはり兄貴と直接刃を交えることに後ろめたさがあったのでしょうね。この戦では尊氏がわの勝利。観応2年10月2日、近江国錦織興福寺おうみのくににしきおりこうふくじ近江国錦織興福寺で尊氏と直義は対面し、和睦をしようとしますが、結局破綻。直義は鎌倉に行ってしまいます。この年の12月に、直義と尊氏は再び戦火を交える羽目になります。尊氏と直義は仲直りしたいし、足利義詮ほか一部の強硬派を除けば、武将達の間で、不毛な戦いはもうやめようって厭戦えんせん気分が漂っていたのにも関わらず。


4  直義の最後
話を少し戻して、尊氏は観応2年の8月ごろから、南朝に接近していたのですね。複雑ですね。初めは南朝も難色を示したのが、二ヶ月かかって12月3日に和平は成立。その和平の全権を任されたのが、義詮。講和の条件は二つ。

1 後醍醐天皇が行った新政の時代に戻す。つまり南朝こそ正統だと認める。
2 直義を追討する。


この条件に義詮はサインしてしまったのですね。南朝と仲良くする代わりに直義を討てと。こうなったら、直義を攻めざるをえなくなる。尊氏は不満を持ったそうです。なぜなら実の弟を討たなくてはならなくなったから。義詮と尊氏のすれ違いが感じられます。それでも尊氏は直義を討伐すべく直義のいる鎌倉に兵を向けました。本当はイヤだったろうな。義詮も自分も戦うと行ったのですが、尊氏はそれを拒否しました。おそらく尊氏は直義との和平を諦めていなかったのでは。義詮を連れてきたら、それこそ殺せと言いかねない。実際、義詮は武力で持って直義を倒せって思っていました。

でも、幕府の政治基盤を安定させるために、尊氏は実の弟である直義を犠牲にするしかなかったのかなって僕は思うのですね。幕府の跡取りは義詮に決まり、幕府も義詮中心に回りつつある。そうなると、直義の存在が義詮にとって脅威。直義を生かしたところで、直義と義詮が戦争したら、それこそ世は乱れる。直義と義詮の仲は最悪なので。実の弟を救いたいが、かと言って世の中の秩序を乱す真似はしたくない。秩序を取るか、肉親への愛を取るか、尊氏はてんびんをかけたのかなって。


そして観応2年(1351年)、駿河国(今の静岡県)にある薩埵山サッタサン で尊氏軍と直義軍は激闘。しかし、直義はこの時も出陣せず、鎌倉にいたのですね。その時の直義の心境がありありと出ている直義が詠んだ歌が残されております。

暗きより 暗きに迷う 心にも 離れぬ月を 待つぞ はかなき

直義は最後の最後まで兄と仲直りしたかった。しかし、それが叶わぬような事態にまで追い込まれてしまった悲しさが伝わってきます。観応3年(1352年)1月5日に尊氏は鎌倉に入り、直義は降伏しました。この後、直義は浄妙寺じょうみょうじ (鎌倉市)境内の延福寺えんぷくじに幽閉され、2月26日に急死したのですね。それから直義の死後、尊氏は九州にいる直冬に戦を仕掛けるのですね。戦に敗れたものの直冬はうまく逃げ延び、尊氏死後も生き延びたのですね。一説によれば、尊氏の孫の足利義満と直冬は和解したという話もあるほど。

こうして観応の擾乱と呼ばれる争いは終わるのです。



※1 充行とは、平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為をさして使われるようになった語。恩賞充行権とは、戦で手柄を立てた武士達に恩賞を与える権限のこと


※ この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。あと、こちらの本も参考にしました↓


足利義満は室町幕府3代将軍です。義満といえば、金閣寺や日明貿易のイメージがありますが、彼は策略家でした。義満は有力守護大名の力を削ぐために、内部抗争を利用したのですね。

実は室町幕府は非常に不安定な面がありました。将軍といえども強力な直轄軍を持っておらず、しかも室町幕府は財力もあまりありません。一方の斯波や土岐、細川といった守護大名たちは自分達の軍隊を持っておりましたし、土地も財力も持っておりました。特に山名氏の支配地は、丹後,因幡,伯耆,美出雲,但馬、隠岐に加え、山城,和泉,紀伊といった、山陰だけでなく、近畿にも勢力を及ぼしていたのです。それぞれの国を山名一族が支配していたのです。それで山名は六分の一衆殿と呼ばれたほど、強大な勢力を持っていたのです。日本全国の6分の1を山名が支配していたという意味です。その力は幕府よりも強かったと言います。だから幕府のいうことを聞かず勝手気ままに振る舞っていたのです。

徳川幕府は、参勤交代とか、普請やらで諸大名にお金を使わせ、その力を弱めさせておりましたが、室町幕府はそういうことはやっておらず、守護大名がどんどん力が強まっている状況でした。

しかも、守護大名たちは自分達が幕府を作ったという自負もあったのです。初代足利尊氏の時代、尊氏は諸大名と協力し後醍醐天皇率いる南朝と戦い、幕府を開いた経緯があります。しかも、朝廷が北朝と南朝が別れたまま。社会も依然として不安な状況。

南北朝の動乱というと、足利尊氏と後醍醐天皇のケンカみたいなイメージがありますが、実際は孫の義満の時代まで続いたのです。義満の父、足利義詮の時代には、有力な守護大名が南朝側に寝返り、将軍が都を追われるなんてこともあったのです。1379年には管領の細川頼之を罷免せよと守護大名たちが義満に迫ったと言います。細川頼之は諸大名から厳しすぎると評判が悪かったのです。そんな守護大名たちの圧力に将軍が屈服。将軍であっても、諸大名の圧力の前では無力であることを義満は思い知らされるのです。

このままではいかんと思った義満はまず、馬廻衆という将軍直轄の軍隊を組織します。そして、強力な力を持つ諸大名の力を削ぐ作戦に出ます。それから義満が守護大名たちの揉め事に突っ込んで、内部から崩そうとしたのです。

まず目をつけたのが土岐氏。土岐氏は尾張、美濃、伊勢の3カ国を持っておりました。それが当主の土岐頼康が亡くなり、義満は後継の土岐康行に美濃と伊勢の2カ国を持つことを許し、一方の康行の弟の土岐満貞を尾張の国一国の守護にしたのです。まもなく康行と満貞の間で争いになったのです。義満はこの内紛に介入。一方的に土岐康行を謀反人として討伐したのです。討伐後、義満は土岐氏から伊勢の国を召し上げ、土岐氏の弱体化に成功します。

義満が次に目をつけたのは山陰の守護大名の6分の1殿とよばれた山名氏。義満は、この山名氏もバラバラにしてやろうと、内情を探ったのです。

当主だった山名師義が死去し、山名義幸、氏之、義熙、満幸の4人の息子がいたのですが、彼らは若年であったため、中継ぎとして師義の末弟の時義が山名の当主となりました。これに対して、満幸と師義の弟の山名氏清が不満を示します。その時義が死去、当主の座と但馬・備後の2国は時義の息子時熙が、伯耆の国は氏之に与えられました。しかし、満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていったのです。ちなみに義幸は病弱でした。

また山名時熙に対し、従兄弟の山名満幸が不満を持っていたのです。早速、義満は満幸に接近、時熙をそそのかし、2人を戦わせようとしたのです。しかし、時熙はあっさり敗れて逃亡。すると今度は義満は時熙を許し、山名満幸に難癖をつけて、出雲守護職を取り上げてしまいます。それに満幸が幕府に不満を持ちます。

山名満幸は一族を集め、幕府に戦いを挑みます。それが1391年に起こった明徳の乱。そして京に攻め寄せたのです。それで義満は京の町ではなく、京のはずれの内野というところに山名の軍勢を誘き寄せます。ここは、かつて大内裏があった場所で、天皇が住んでいたところで、鎌倉時代に大内裏が焼けて、それ以降空き地になっている土地です。内野で幕府は山名勢を迎え撃ったのです。そしてわずか一日で幕府が山名を打ち破ったのです。そして義満は山名氏から8カ国を奪い、山名氏の弱体化に成功。山名は伯耆、出雲、但馬の3国だけになったのです。

この明徳の乱の翌年に義満は南朝と北朝を統一したのです。これで尊氏の時代から続いた南北朝の乱は終わったのです。

しかし、義満が亡くなってから状況が変わってきます。義満の知略とカリスマ性で何とか保たれていたバランスが崩れ、室町幕府は転がり落ちて行きます。元々室町幕府はそんなに強大な力を持っていなかったので。それで守護代の力も強いまま。応仁の乱、そして戦国の世を迎えてしまいます。

*この記事はNHK「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

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