history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 江戸時代

能登半島で大きな地震がありました。なくなった方々のご冥福をお祈りすると共に、復興をお祈りします。今日は安政南海地震(あんせいなんかいじしん)のお話。江戸時代後期に起きた南海地震のこと。僕は関西ってあまり地震のイメージはなかったけれど、歴史を振り返ってみると結構多いんですよ。特に和歌山県や四国あたり。

発生日は1854年12月24日。

発生時刻は16時。震央は日本の旗 日本 南海道沖。

地震の規模 ML8.4 - MW8.5

震度6: -7:


この地震では津波の被害がすごかったそうです。四国や和歌山だけでなく、大坂(大阪)も津波の被害を受けたとか。また、この地震の翌年に江戸(現在の東京)および関東地方で大震災が起きていたそうです。日本の地震の歴史を振り返ってみると、だいたい南海大地震と関東地方の大震災は連動して起こっているそうです。



 「稲むらの火」というお話があるこれは戦中の教科書に載り、最近の国語の教科書にも掲載されている有名なエピソードなんだって。

このエピソードの主人公が濱口梧陵という商人で、舞台が紀州広村(和歌山県広川町)。お話の内容は安政南海地震のときに濱口梧陵が人助けをした事。広村は海に面した村だったから、(地震で発生した)津波が押し寄せてくる。グズグズしていたら津波に飲み込まれてしまう。そこで濱口が、稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの)に火をつけて、真っ暗だった辺りを稲むらの火で明るくして、地震に怯える村民達を津波の届かない安全なところへ誘導したって話。

江戸時代は懐中電灯も外灯もありません。それに今みたいに津波警報もなかった。だから、濱口がいなかったら、広村の村民達は津波に飲まれていたかもしれない・・・

この地震のあと、濱口梧陵は、今度大きな地震がきてもいいように、私財を投げ打って津波を防ぐ堤防をつくったそうです。濱口は村人達に「我々の手で堤防を建設し、津波を恐れる必要の無い村にしましょう。働いてくれた全ての人たちに給金を支払います」と言ったそうです。それで、村人達は老いも若きも堤防造りに協力したそうな。


(稲むらの火の動画)


大阪のJR環状線の大正駅の近く、木津川にかかる大正橋に石碑がたっております。その石碑には安政南海地震の際の犠牲者を弔うために建てられたもの。その石碑には地震が来たときの教訓も書かれているそうな。

そこには「大地震が起こったときは、いつも津波がくると思って、絶対に船に乗ってはいけない」とか「家が崩れて、火災も発生するだろう。お金や証文類は蔵に保管し、戸締りを厳重にし、火の用心が肝心」なども書かれているそうです。




まだ暑い日が続いておりますが、行楽シーズン到来ですね。旅をするなら春や夏もいいけれど、秋がいいですね。今日は旅ソングのアンケートを作ってみました。旅の歌ってたくさんありすが、僕は山口百恵さんの『いい日旅立ち』、谷村新司さんの『三都物語』、それから布施明さんの『旅愁 斑鳩にて』が好きですね。今はお金と暇さえあれば旅はむずしかしくありません。しかし、江戸時代とかは旅なんてそうそうできるもんじゃありませんでした。まず江戸時代は旅行が禁止されておりました。ただ神社仏閣を参拝することは許されておりました。特に人気が高かったのが伊勢神宮でした。一生に一度は伊勢神宮に行きたいという人がたくさんいたのです。僕も今年、数十年ぶりに伊勢神宮に行きましたが、たくさんの参拝客がいてびっくりしました。お伊勢参りは令和の現在でも人々のあこがれなのでしょう。


しかし、江戸時代と言えば新幹線も飛行機もなかった時代、交通手段はおもに徒歩。何日もかかりますね。何日もかかるから何回も宿泊しなきゃいけない、だから宿泊料だけでもお金がかかります。しかも道中には恐ろしい山賊や追いはぎもいたりする。旅をするのが今よりも困難な時代でした。お伊勢まいりに行きたくてもいけない。それで旅にいけない主人の代わりに犬が代参をしたといいますえ、ワンちゃんが伊勢までたどり着けるのかってびっくりしますが、代参をするわんこちゃんは首にお金入りの袋をつけたそうです。すると道中の人々が「あ、このワンちゃんは代参をしているんだ」って手厚くもてなしたといいます。食事を与えたり、道案内をしてあげたり。そうやって道中で人々に親切にされ、ワンちゃんは無事に伊勢神宮までたどり着くのです。そして伊勢の神官はそのわんこちゃんにお札をあげて、ワンちゃんはそのまま主人のもとへ帰っていくと。ずいぶんおりこうさんなワンちゃんですね。

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(いづれも鼠小僧の墓)

鼠小僧ねずみこぞうってご存じでしょうか。歌舞伎の題材にもなりました。小柄で神出鬼没な姿から、鼠小僧というあだ名がついたのですね。鼠小僧はお金持ちから金を盗み、盗んだ金を貧しい人々に配ったと。しかし、それは作り話。

鼠小僧はどこにでもいる普通の盗賊でした。貧しい人にお金なんか配っておりません。私利私欲のために盗みを働いていたのです。鼠小僧もはじめのころは、とび職として真面目に働いていたのですが、文政6年(1823)あたりから盗賊をやるようになったのです。鼠小僧がターゲットにしたのは武家屋敷や富裕層ばかり。捕まるまで90回以上も盗みを働き、盗んだ金額は約3000両。いまでいえば6000万円もしたといいます。それでは鼠小僧は盗んだ金を何に使ったかと言えば酒と賭博と女だそうです。盗賊家業をはじめたのも賭博で身を崩してしまったからだとか。

鼠小僧が富裕層や武家をターゲットにしたのは、貧しい人たちを苦しめる権力者たちを懲らしめるためではなく、単純に金があるから。昔からよく言われております。泥棒はお金があるところに入っていく。お金をもっているかどうか独特の嗅覚でわかると。わざわざ金のない家に忍びこんでも意味がないのです。現在だったら家宅侵入罪で訴えられるだけです。

まして武家はメンツを重んじることが多く、被害を大っぴらに訴えることはしなかったのですね。そうなると犯行がばれにくい。鼠小僧からすれば武家は恰好のターゲットだったのです。

鼠小僧は結局捕まって処刑されてしまいますが、亡くなった時鼠小僧はお金が全然残ってなかったのです。ギャンブルと女で使い果たしのが真相ですが、なぜか貧しい人たちに分け与えたから一文なしになったという伝説が生まれたのですね。

忍者が活動するうえで必要なものは何だと思いますか?敵の情報を入手することです。もちろん、ただ情報を入手するだけでは意味がありません。その敵の情報を正確にクライアントに伝える必要があるのですね。伝えるといいましても、カメラなりレコーダーましてネットなどなかった時代。それじゃあ、耳にした情報や得た情報をメモして報告すれば済むことじゃんと思いますが、メモを取っている間に、敵に見つかってしまうこともある。

たとえば、くノ一という女性の忍者がいるのですが、彼女たちは大名の奥女中、商家であれば下女として忍び込むのですね。そうやってスパイ活動をするのですが、いちいちメモなんてしていたら、大名なり商家の旦那から何やっているんだって怪しまれますよね。

あるいはそうしたメモが関所なので発見されたらもとも子もありません。そこで手にした情報をしっかり記憶しておく必要が出てきます。そうして忍者たちは独自の記憶術を編み出したといわれております。しかし、記憶するといいましても、覚えるのは大変です。特に数字は大変ですね。

まず忍者は覚えなくてはいけないことを何かに置き換えて記憶する連想記憶術を使いました。覚えにくい数字は人間の身体や食べ物に置き換えたとか。たとえば1がいも、2が煮梅にうめ、3がさんしょう、4がシイタケという具合に。数字を覚えるのはいつの時代も大変ですが、こうした身近なものに置き換えて記憶をしたのですね。なるほど、これは現代でも語学や資格の勉強でも応用できますね。

さらに絶対忘れてはならないことは、不忘術ふぼうじゅつという秘術を用いました。これは大切なことを思いながら、自らの身体に傷をつけるという記憶術。たとえば、何か覚えたいことを覚えているときに、小刀で自分の指を傷つけてみるとか。

普通の記憶は脳の海馬という部分に記憶されるそうです。しかし恐怖をともなう記憶は大脳にある偏桃体へんとうたいと呼ばれる部分に記憶されるそうです。こくした偏桃体の働きによって恐怖の記憶というのはいつまでも離れないというのです。人間って基本的に忘れる生き物ですが、なぜか恐怖経験というのはいつまでも残っているものなのですね。いじめられた経験とかパワハラを受けた経験とか。いわばトラウマですね。忍者は自傷行為をやって、そのときついた傷をみて、「あ、あの時、あの殿様はこんなことを言っていたな」って記憶がよみがえってくると。これはかなり強引なやり方ですね。下手すりゃ恐怖体験だけが記憶に残り肝心なことを忘れてしまう危険性もあるし、実際にこのやり方でどれだけ覚えられたか疑問ですが、ともあれ忍者は自分のミッションを成し遂げるためには、自ら傷つけることもいとわなかったのですね。

Amygdala

(赤い部分が偏桃体)

参考文献
イラスト図解 忍者
日東書院本社
2012-11-30

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