1 戦時中なら不敬罪?
(保元の乱は)崇徳上皇と後白河天皇の争いだが、この争いの背景には、雅とはほど遠いどろどろした人間ドラマがあった。それは崇徳上皇の出世にまつわる話が発端になっている。崇徳上皇は鳥羽上皇の子供ということになっているが、本当の父親は鳥羽上皇の祖父の白河法皇である。つまり白河法皇が孫の妻と不倫してうまれた子が崇徳天皇(のちの上皇)だったのだ。このことは正史に書かれていないが、様々な状況証拠から、おそらく事実である。(『日本国紀』p82)
信西は後白河法皇と男色関係にあったという噂もあるが、これは単なる中傷といわれている。(p86)
自分(平清盛)は白河法皇が祇園女御に産ませた子という噂を広めていたためだ(事実ではない)(p87)
読んでみて、天皇に対して不倫だの男色関係だのいろいろときわどい話をされておりますが、そんなこと言って大丈夫かw?戦時中だったら、百田先生、不敬罪になりそうですね。もちろん、これらのことはすべて事実ではないのですが、曲がりなりにも「正史」といっておきながら、こういう際どい話をするのもなんだかなって。
それに、もしも、保元の乱の原因が、不倫だのそういったことだとしたら、そんな理由で戦争するなんて天皇家は良くないなって思いますね。保元の乱の背景は貴族や武士の対立がからんでいて複雑な理由がからまった起きたもので、不倫だのそんな理由ではないと思われます。
2 崇徳上皇の怨霊?
崇徳天皇(上皇)は日本最大の怨霊とされている。死後に都で様々な異変や凶事が相次いで起こったからだが、最も大きな禍は「皇を取って民とし民を皇となさん」という予言が実現したことだ。崇徳上皇の死後まもなく、武家出身の平清盛が天皇や貴族に取って代わって政治の実権を握ることになった。(p85)
明治元年(1868)、政治の実権を握った明治天皇は即位の礼の際、京都に白峯宮(現在の白峯神社)を創建し、崇徳上皇の怨霊を七百年ぶりに讃岐から京都へ帰還させ、怨霊との和解をはかった。その約百年後には、崇徳上皇が亡くなった香川県で昭和天皇が弐年祭を執り行っている。(p86)
菅原道真もそうですが、平安の昔は怨霊信仰がありまして、不幸な死に方をした人間は怨霊になって、現世の人間に災いをもたらすと信じられていたのですね。僕も人間の念というものは恐ろしいものだと思います。「皇を取って民とし民を皇となさん」の意味は、「天皇家はもはや天皇として民のうえにいる資格はないので、天下のためには民から天皇を出したい」。自分をこんな目に合わせた天皇家が憎い、もはや天皇家は人の上にたつ資格はない、平民から天皇を出したほうがいいってことでしょうね。それくらい崇徳上皇は恨んでいたし、悲しかったのかなって。百田先生は、この予言が的中し、平清盛が権力を握り、武士の台頭につながったみたいな書き方をされております。
日本史上、武家として初めて権力を握った平氏であったが、手法はそれまでの貴族政権を踏襲したものにすぎなかった。平氏は貴族の真似事をしたかっただけのようにも思える。(p89)
なんか平家に対する悪意を感じるな。というか、百田先生は武家というか、天皇家以外のものが政治の実権を握るのは良くないといっているようにも、この一文から感じられます。
それに崇徳上皇は、讃岐に流罪後の生活はそれは穏やかなもので、さみしさと都を追われた哀しさをうたった和歌は残されているものの、天皇や貴族に対する恨みのようなものは当時の史料には一切残されていないとのこと。
3 戦による民の犠牲はありましたよ
「注目すべきことがある。それはこの戦い(源平の合戦)が、武士のみで行われたものであるということだ。一般民衆はまったく巻き添えになっていない」(p104)
僕はこの記述をかいて「ええ!?」って思いましたよ。僕みたいな素人が見ても疑問に思います。だいたい「まったく〜ない」という言い方からして怪しい。僕は予備校生時代、「全く」とか「必ず」という言葉が設問文にあったら、まず疑えって教えられたし、いまも「必ず」って言葉は信じておりません。
源平の合戦でも当然、民衆は戦に巻き込まれました。たとえば、平重衡が東大寺や興福寺など仏閣を焼き討ちにした事件(南部焼き討ち)。教科書にものっております。この焼き討ち事件で東大寺の大仏も完全に焼け落ちてしまい、多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死したといわれております。失火という説もありますが、『延慶本平家物語』でも「寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く」とありまして、計画的に行った可能性も高いです。しかし、これほどにまで被害が大きくなるとは平重衡も思わなかったとか。
当時の民衆の言葉に「七度の飢饉より一度の戦」ってありまして、一度の戦争は7度の飢饉よりひどく、それくらい争いは民草に災いをもたらすものって言われているのです。一ノ谷の合戦の前哨戦の三草山の戦いでは民家も焼き払われたって記録もあります
それに、百田先生のご著書にも「京都を支配した(木曽)義仲は洛中で乱暴狼藉を働き」(89p)ってしっかり書いてあって、「民衆はまったく巻き添えになっていない」とすでに矛盾しているのですが・・・
源頼朝は自分の軍に略奪を禁じたといいますが、それくらい当時の武士たちにとって略奪を行うのは当たり前だったことでしょう。そうでなきゃ略奪を禁じる必要はないでしょう?
それと百田先生は「ヨーロッパや中国では、戦争となると必ず市民に多くの犠牲が出る」(p」90)とあります。「必ず」とありますが、確かにそれは事実です。けれど、百田先生の言い方だと、最近、ようつべで流行の「日本すげー、中国、韓国ダメダメじゃん」動画と同じです。日本でも戦争のときは、市民に犠牲者が出たんですよ。太平洋戦争はもちろん、源平の合戦の時代ではないけれど、戦国時代なんてひどいものでしたよ。
※ 参考文献