history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 平安時代

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12



1 戦時中なら不敬罪?
 
(保元の乱は)崇徳上皇すとくじょうこう後白河天皇ごしらかわてんのうの争いだが、この争いの背景には、雅とはほど遠いどろどろした人間ドラマがあった。それは崇徳上皇の出世にまつわる話が発端になっている。崇徳上皇は鳥羽上皇とばじょうこうの子供ということになっているが、本当の父親は鳥羽上皇の祖父の白河法皇である。つまり白河法皇が孫の妻と不倫してうまれた子が崇徳天皇(のちの上皇)だったのだ。このことは正史に書かれていないが、様々な状況証拠から、おそらく事実である。(『日本国紀』p82)


信西しんぜいは後白河法皇と男色関係にあったという噂もあるが、これは単なる中傷といわれている。(p86)


自分(平清盛)は白河法皇が祇園女御ぎおんのにょうごに産ませた子という噂を広めていたためだ(事実ではない)(p87)


読んでみて、天皇に対して不倫だの男色関係だのいろいろときわどい話をされておりますが、そんなこと言って大丈夫かw?戦時中だったら、百田先生、不敬罪になりそうですね。もちろん、これらのことはすべて事実ではないのですが、曲がりなりにも「正史」といっておきながら、こういう際どい話をするのもなんだかなって。

それに、もしも、保元の乱の原因が、不倫だのそういったことだとしたら、そんな理由で戦争するなんて天皇家は良くないなって思いますね。保元の乱の背景は貴族や武士の対立がからんでいて複雑な理由がからまった起きたもので、不倫だのそんな理由ではないと思われます。



2 崇徳上皇の怨霊?
 
崇徳天皇(上皇)は日本最大の怨霊おんりょうとされている。死後に都で様々な異変や凶事が相次いで起こったからだが、最も大きなわざわいは「皇を取って民とし民を皇となさん」という予言が実現したことだ。崇徳上皇の死後まもなく、武家出身の平清盛が天皇や貴族に取って代わって政治の実権を握ることになった。(p85)


明治元年(1868)、政治の実権を握った明治天皇は即位の礼の際、京都に白峯宮しらみねぐう(現在の白峯神社)を創建し、崇徳上皇の怨霊を七百年ぶりに讃岐さぬきから京都へ帰還させ、怨霊との和解をはかった。その約百年後には、崇徳上皇が亡くなった香川県で昭和天皇が弐年祭を執り行っている。(p86)


菅原道真もそうですが、平安の昔は怨霊信仰がありまして、不幸な死に方をした人間は怨霊になって、現世の人間に災いをもたらすと信じられていたのですね。僕も人間の念というものは恐ろしいものだと思います。「皇を取って民とし民を皇となさん」の意味は、「天皇家はもはや天皇として民のうえにいる資格はないので、天下のためには民から天皇を出したい」。自分をこんな目に合わせた天皇家が憎い、もはや天皇家は人の上にたつ資格はない、平民から天皇を出したほうがいいってことでしょうね。それくらい崇徳上皇は恨んでいたし、悲しかったのかなって。百田先生は、この予言が的中し、平清盛が権力を握り、武士の台頭につながったみたいな書き方をされております。

日本史上、武家として初めて権力を握った平氏であったが、手法はそれまでの貴族政権を踏襲とうしゅうしたものにすぎなかった。平氏は貴族の真似事をしたかっただけのようにも思える。(p89)


なんか平家に対する悪意を感じるな。というか、百田先生は武家というか、天皇家以外のものが政治の実権を握るのは良くないといっているようにも、この一文から感じられます。

それに崇徳上皇は、讃岐に流罪後の生活はそれは穏やかなもので、さみしさと都を追われた哀しさをうたった和歌は残されているものの、天皇や貴族に対する恨みのようなものは当時の史料には一切残されていないとのこと。

3 戦による民の犠牲はありましたよ
「注目すべきことがある。それはこの戦い(源平の合戦)が、武士のみで行われたものであるということだ。一般民衆はまったく巻き添えになっていない」(p104)


僕はこの記述をかいて「ええ!?」って思いましたよ。僕みたいな素人が見ても疑問に思います。だいたい「まったく〜ない」という言い方からして怪しい。僕は予備校生時代、「全く」とか「必ず」という言葉が設問文にあったら、まず疑えって教えられたし、いまも「必ず」って言葉は信じておりません。

源平の合戦でも当然、民衆は戦に巻き込まれました。たとえば、平重衡たいらのしげひらが東大寺や興福寺など仏閣を焼き討ちにした事件(南部焼き討ち)。教科書にものっております。この焼き討ち事件で東大寺の大仏も完全に焼け落ちてしまい、多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死したといわれております。失火という説もありますが、『延慶本平家物語』でも「寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く」とありまして、計画的に行った可能性も高いです。しかし、これほどにまで被害が大きくなるとは平重衡も思わなかったとか。

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当時の民衆の言葉に「七度の飢饉ききんより一度の戦」ってありまして、一度の戦争は7度の飢饉よりひどく、それくらい争いは民草に災いをもたらすものって言われているのです。一ノ谷の合戦の前哨戦ぜんしょうせん三草山みくさやまの戦いでは民家も焼き払われたって記録もあります

それに、百田先生のご著書にも「京都を支配した(木曽)義仲きそよしなかは洛中で乱暴狼藉らんぼうろうぜきを働き」(89p)ってしっかり書いてあって、「民衆はまったく巻き添えになっていない」とすでに矛盾しているのですが・・・

源頼朝は自分の軍に略奪を禁じたといいますが、それくらい当時の武士たちにとって略奪を行うのは当たり前だったことでしょう。そうでなきゃ略奪を禁じる必要はないでしょう?

それと百田先生は「ヨーロッパや中国では、戦争となると必ず市民に多くの犠牲が出る」(p」90)とあります。「必ず」とありますが、確かにそれは事実です。けれど、百田先生の言い方だと、最近、ようつべで流行の「日本すげー、中国、韓国ダメダメじゃん」動画と同じです。日本でも戦争のときは、市民に犠牲者が出たんですよ。太平洋戦争はもちろん、源平の合戦の時代ではないけれど、戦国時代なんてひどいものでしたよ。

※ 参考文献


 



1 遣唐使けんとうしの廃止がそんなに大事か?
『日本国紀』の感想を再開します。僕は筆者の百田先生を論破できるほど歴史には詳しくないのですが、それでも「え?」と思うことがたびたびです。読み始めてから今日になって平安時代まで読み進めましたが、僕はこの一文に目が留まりました。

「平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使けんとうしの廃止である。」(p68)

はて?平安時代といえば、坂上田村麻呂の東北遠征だの、菅原道真の失脚事件だの、(後で取り上げる)刀伊の入寇だの、平将門の乱、藤原純友の乱だの、前九年後三年の役だの、果ては源平の合戦だの、大きな出来事結構ありますが。ともあれ百田先生にとって何より大事なのが、遣唐使をやめたことなのだと解釈できました。遣唐使をやめたことによって中国と断交できた、そのことが何より大きな出来事だということでしょうね。百田先生が昭和初期にいたら、松岡洋祐外相の国際連盟脱退をもろ手を挙げて支持しそう。

「私は、この遣唐使の廃止を日本が中国の文化を必要としないという自信の表れであったと見ている」(p69)

この言い方だと、中国よりも日本の文化のほうが優れているみたいなニュアンスです。最近、ようつべやXで見かける、日本すげー、中国韓国ダメ系の動画やつぶやきみたい。

しかも、遣唐使は中止しただけであって、廃止したわけじゃないそうですね。遣唐使中止を決めたのは菅原道真ですが、菅原道真は唐を見下していたのではなく、現実問題、戦乱で唐の国力も衰えているし、しかも航海は命がけ、リスクは大きすぎる。もう少し、唐の国内が安定したら再開しましょうって感じだったようですよ。けれど、日本国内の災害や唐の衰退、ほかにも色々な事情があって遣唐使派遣は遅々として進まず、もたもたしているうちに唐が滅んじゃったっていうのが真相だそうです。

むしろ遣唐使が終わってからも、朝鮮や中国の使節は往来したといいますし、民間の商人は中国との交流があったそうですよ。

百田氏は、遣唐使を中止することで、国風文化と呼ばれる日本独自の文化が花開いたといいますが、まるで中国の文化を日本が拒絶したみたいな言い方です。が、「唐物」といいまして貴族たちの中国に対するあこがれはむしろ高まり、商人経由で中国の品々を買い求めた貴族もいたといいます。

2 仮名文字の発明
 百田氏は仮名文字の発明についても言及されております。 

「それまでは文章を書く際は、漢文を使うか、そうでない場合もすべての文字を漢字を使用していた。(中略)最初に仮名を使用したのは9世紀初めの僧侶たちだった。彼らは経典などの難読文字の横に、読みやすいように省略文字でふりがなをふった。たとえば、江→エ、止→ト、多→タ、という具合だ。これが片仮名の由来である。片仮名はその後も漢文の読みを表す補助的な文字で使われた。その後、感じの草書体から平仮名が編み出された。平仮名は片仮名に比べ優美な曲線をもっていたことから、宮中で働く女官たちが好んで使った。そのため「女手おんなで」とも呼ばれた。この平仮名の発明は日本語における表現力を飛躍的に発展させた。」(p69)

百田先生は漢字は日本人が発明した、いわゆる漢字日本発祥説は主張されていないことは理解できました。そりゃそうですよね。最近のネトウヨと違いますね。いまのネトウヨは平気で漢字日本発祥説をいいますからw。Xみてるとマジでそれをつぶやき、しかも結構「いいね」がついて拡散されているから、真に受けている人もいると思う。今日はエイプリルフールですがw、ついていいウソといけないウソがある。

確かに日本人が発明した漢字もあるのも事実です。和製漢字といいまして、「笹(ささ)」とか「躾(しつけ)」。でも、基本的に漢字が発明されたのは中国。その漢字をもとにして作ったのが、仮名文字ですから。

3 刀伊の入寇といのにゅうこう
刀伊とい の入寇に関しましては、僕はこの『日本国紀』で知りました。刀伊といとは1019年に起きた出来事で女真族じょしんぞくの一派の海賊集団のことで、壱岐・対馬いき・つしまを襲い、さらに九州に侵攻した事件のことです。300人以上の人が殺され、1000人以上の人が拉致らちされたといいます。北朝鮮の拉致事件みたいな出来事が平安の昔からあったのかと思いましたね。しかも壱岐島の国司である藤原理忠ふじわらのまさただも殺害されたといいます。家屋も結構焼かれ、強奪もされたといいます。当時の朝廷は危機感を持ったといいます。

「この大事件に、朝廷が取った行動は常軌じょうきしたたものだった。何と武力を用いず、ひたすら夷狄調伏いてきちょうぶく(*1)の祈祷きとうをするばかりだったのだ。」

刀伊を撃退したのは太宰権師だざいごんのそち(大宰府の次官)だった藤原隆家ふじわらのたかいえです。百田先生は朝廷が武力を用いずと仰っておりますが、藤原隆家は朝廷の人間ではなかったってことでしょうか?矛盾していますね。大宰府の次官なら朝廷関係者でしょう。藤原隆家はみ出し者だと『日本国紀』で説明しておりますが、はみだしものというのは左遷どころか、朝廷から身分を完全にはく奪され、本当に野武士みたいにフリーになった人のことでしょう。

さらに同じ年の6月に高麗こうらいが使者を日本に派遣して、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送り返してくれたのですね。そして隆家は、そのお礼に高麗の使者にろくを与えたそうですね。なぜか、この辺の話は『日本国紀』には書いておりません。高麗が日本人捕虜を救ったなんて話は都合が悪いってこと?

朝廷は祈祷をしたのがおかしいといいますが、この時代は別に珍しいことではないのです。なにしろ帝が病気になると加持祈祷を行ったような時代ですからね。何か事件とか問題があると昔の人たちは祈祷を行ったんですよ。令和の今だって神社で病気平癒びょうきへいゆだとか家内安全、交通安全はもとより、コロナの時も疫病退散の祈祷を行ったでしょう。要するに百田先生は平安時代は比較的平和な時代で、現在の日本と似ていると。それで人々が平和ボケになり、祈祷を行った朝廷を今の日本の政府の国防意識の低さと重ねたのでしょう。刀伊の入寇を例に挙げ国防の意識を高めなきゃダメだと主張されていることがよく理解できました。

この刀伊の入寇の意義は大変なもので、この事件を契機に国防の重要性が高まり、武士の台頭にもつながったのは本当のことです。

 飛鳥時代の政府(朝廷)は、防人制度さきもりせいどを作ったり大宰府だざいふ水城みずきを築いたりして、常に外国からの侵略に備えていたが、三百年も平和が続くと、朝廷も完全は平和ボケにおちいり、国を守るという考えが希薄になっていた
(p81)


百田先生は、飛鳥時代を明治から昭和初期にたとえ、平安時代が今の日本と同じだと仰りたいのでしょうね。少なくとも、平安時代も決して平和な時代ではなく、いろいろと争いもありました。それと桓武天皇かんむてんのう健児の性こんでいのせい郡司ぐんじの子弟たちや弓馬きゅうばに秀でた農民たちで構成された兵士たちを組織しております。だから、平安時代の朝廷だって平和ボケではなかったのですね。


*参考サイトならびに参考文献




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現在の日本の首都は東京です。皆さんご存じですね。しかし、飛鳥時代から平安時代にかけて何度も遷都を繰り返した、つまり首都が何度も変わったのですね。


  • 斉明天皇元年(655年)冬、難波京なにわきょうから飛鳥川原宮へ遷都。

  • 斉明天皇2年(656年)、、飛鳥川原宮あすかかわらのみやから岡本宮おかもとのみやへ遷都。

  • 斉明天皇7年(661年)、岡本宮から朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみやへ遷都

  • 天智天皇6年(667年)、朝倉橘広庭宮から近江大津宮おうみおおつのみやへ遷都。

  • 天武天皇元年(672年)、近江宮から飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやへ遷都。

  • 持統天皇8年(694年)、飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都。

  • 和銅3年(710年)、藤原京から平城京へ遷都。

  • 天平12年(740年)、平城京から恭仁京へ遷都。

  • 天平15年(743年)、恭仁京くにきょうから紫香楽宮しがらきのみやへ遷都。

  • 天平17年(745年)、紫香楽宮から平城京へいじょうきょうへ還都。

  • 延暦3年(784年)、平城京から長岡京ながおかきょうへ遷都。

  • 延暦13年(794年)、長岡京から平安京へいあんきょう(京都)へ遷都。


655年から794年まで、およそ150年にもかけて12回も変わったのです。すごいですね。遷都の理由は様々ですが、おもに疫病が流行ったり、戦乱が起こったり、そういう縁起の悪いというので首都をたびたびかえては、心機一転やり直そうと思ったのですね。794年に平安京にうつってから落ち着いたのですね。とはいいましても治承4年(1180年)、平安京から福原京へ一時的に都に移ったのですが、半年後に平安京にすぐ戻りました。しかし、これだけ首都が変わるということは、財政的にも大変でしたし、労役を課される人民も大変でした。労役だからボランティア。給料も出ないでハードな仕事をしていたのだから大変だったと思います。ましてや今みたいにブルドーザーとか、そんなものもなかった時代でしたから。貴族や役人たちは華やかなで優雅な生活を送っていた一方で庶民は大変苦しい生活をしていたのです。まして、朝廷のきまぐれでたびたび遷都をされていたらたまらない。とくに天平年間は5年間で3回も変わったから大変だったかと。



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(都の模型)


当時の役人たちの衣装↓

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漫才の歴史は意外と古く、平安時代にその原型があったといいます。当時は漫才と言わず、千秋萬歳(せんずまんざい)」(略して「萬歳」)にあります。基本は「太夫」と「才蔵」の2人組の芸です。2人は新年のめでたい日に家々を訪れ、その玄関先で芸を披露します。太夫が扇、才蔵が鼓をもち家々を回ります。

太夫と才蔵は、七福神などおめでたい言葉を節にのせて歌を歌うのですね。これは「今年一年、悪いことが起きませんように」と神に祈るのですね。歌だけでなく時に面白いことを言って楽しませるのですね。

万歳は神事の一種とされていますが、そんなに堅苦しいものではありませんでした。鼓を持ち面白いことを言うのが才蔵。つまりボケです。扇子を持った太夫がたしなめる、いわゆるツッコミ。そんな2人の掛け合いで笑わせます。笑う門には福来ると言ういう意味で、新年からわっはっはって笑えば、おめでたいですよね。それが昭和初期になり横山エンタツ・花菱(はなびし)アチャコという漫才コンビが、楽器を持たず、歌も歌わず、会話だけで笑わせる漫才をはじめたのです。それが今の漫才につながったのですね。


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源義経の家臣である弁慶が怪力の持ち主だったのは有名な話。というか弁慶なる人物が実在したかどうかは疑わしいのですが、それはともかく置いておいて、奈良県の吉野にある吉水神社に弁慶の力釘というものがあります。

源義経は、源平の合戦で平家と戦い輝かしい活躍ぶりでしたが、平家が倒れたとたんに、兄の源頼朝から、義経は疎まれてしまったのですね。この時代は兄弟といえども油断ができない、下手すると自分の親兄弟に寝首をとられてしまう危険もある。寝首を取られるくらいなら、親兄弟といえど殺してしまおうと。そんな時代に生まれたことが頼朝・義経兄弟の不幸でもありましたが。頼朝に追われた、義経は吉野に身を寄せていました。それをしった頼朝の追手は吉野までやってきたんです。それで、吉水神社の前身である吉水院のお坊さんたちが義経をかくまったのですね。え、吉水神社の前身の吉水院ってどいうことかって?もともとは僧坊で、1300年以上前である天武天皇の時代(白鳳年間)に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した格式高い僧坊だったのです。

僧坊が神社となったのは、明治時代に行われた神仏分離によって、吉水院が後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから、明治八年に「𠮷水神社」と改められたのです。

頼朝の追手が吉水院までやってきて、「そこに義経がいるのはわかっている!出てこい!」ってさけんだのです。すると、弁慶が顔を真っ赤にして、そばにあった釘を二本手に取って、大声でさけんだのです。

「やあやあ、我こそは弁慶なり!力自慢をいたそうぞ」

それで、追手たちのすぐ近くにあった岩に、弁慶はなんと持っていた二本の釘を力を込めて、それも親指だけでうちこんだのです。ハンマーとか使わずにですよ。すごいですね。豆腐にくぎを打ち込むのとはわけが違います。追手たちは恐れをなして逃げ出したのですね。そんなバカな話あるもんかと思うかもしれません。しかし、弁慶の力釘の伝承は歴史的に根拠があったかどうかはべつにして、のちの時代まで語り継がれ、かの豊臣秀吉が、吉野に訪れ、弁慶の力釘にふれて、こういったといいます。

「力をもらいたい・・・力を!」って。


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