history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 飛鳥・奈良時代

百田尚樹の『日本国紀』の感想を書いてみて、「う〜ん」と思うこと多々あったのですが、『日本国紀』の突っ込みどころといいますか、『日本国紀』を通して知った話もいろいろありました。大伴部 博麻 おおとものはかまの存在もそうです。

今日は、「日本国紀」の感想をいったんお休みして、大伴部の話をします。

大伴部は、新羅の攻撃によって滅亡した百済を再興すべく派遣された人間です。こうした日本の百済再興運動は白村江の戦い(*1)に発展します。

大伴部は唐軍にとらわれて長安まで送られてしまいます。長安には唐と日本が戦争状態になったために捕まった4人の遣唐使がいたのです。664年に唐が日本侵略を企てていることを大伴部が知ってしまった。それで、自らを奴隷として売り、そうして得たお金を4人の遣唐使たちの帰国資金に充てたといいます。4人は671年に帰国し、唐が日本侵略を企んでいることを伝えたといいます。

唐に残された大伴部は長安に残ったのですが、690年に許され、帰国することができたのです。そして持統天皇は大伴部の功績をたたえ、官位を与えたり、褒美もあたえ、また、子孫三代に渡って水田を相続を許可する事と税の免除を約束しました。

そして、勅語も送りました。「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」と。なんて読むのか不勉強の僕にはわかりませんが、この勅語には「愛国」という言葉があります。そして、この勅語は天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語だといわれております。第二次世界大戦時の日本で大伴部博麻は愛国心の象徴的存在として崇められたといいます。

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12



1 『l嫌韓流』のような主張
百田氏の『日本国紀』の飛鳥時代、奈良時代の章を読ませていただきましたが、一言でいえば、朝鮮や中国に関して、敵意を通り越して、侮辱ぶじょくさえ感じられる記述がみられました。まるで『嫌韓論』みたい。たとえば、

  1. 「朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対である」(p40)


  2. 「遣唐使は朝鮮半島を経由しない海路を通った」(p49)


  3. 「現在は語られることはないが、中国には古代から近代まで『食人文化』があった(p50)


てな具合。

まず1ですが、筆者は、朝鮮の外交がヘタレという一方で、聖徳太子がずい煬帝ようだいに対して毅然とした外交を行ったことを称賛しております。でも朝鮮半島の国々が必ずしも中国の王朝に対して平身低頭の態度ばかり取っていたわけじゃないのですね。

たとえば隋と高句麗は緊張関係にあって、たびたび隋と高句麗は戦争を行っていたのですよ。いわゆる隋の高句麗遠征というもので、煬帝の父である楊堅ようけんの代からはじまって煬帝も高句麗に戦いを挑みました。それは598年から614年の間で4回もあったといいます。高句麗は隋の大軍に屈せず、4度の遠征のうち3度も勝利しております。そのうち三回目の第三次遠征(613年)では高句麗の抵抗も激しく、隋国内で内乱があって軍を引き上げる羽目になったのです。

このように隋と高句麗は戦争状態にありました。はじめ、聖徳太子からの「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」から始まる国書について、煬帝も怒ったのですが、煬帝としても日本と結んでおくのも悪い話ではないと思ったのでしょうね。

2についてですが、何もここまで嫌韓的な態度を示さなくてもって思いました。「韓国がよく『日本の文化は朝鮮が伝えた』と主張するが、史実があやふやな古代は別にして、遣唐使以降の文化や技術の輸入には、朝鮮はまったく関与していないといえる。」(p49)と『日本国紀』に書いてありますが、そもそも遣唐使が朝鮮半島を通らなかったのは陸路より海路のほうが便利だし、まして、朝鮮が嫌いだから海路を通ったなんてことはありえません。

それに遣唐使はあくまで政治的外交であって民間レベルだと朝鮮との交流もあったといいます。政治的外交と民間の通商は別物です。それどころか、新羅の使節もあったといいます。8世紀末には、新羅からの使節は途絶するものの、9世紀前半になると新羅商人が日本にやってきたといいます。

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3ですが、確かに中国では食人の記録は明の時代までありました。けれど、それが文化と断定はできないんですよ。たしかに人を食う話はあったけれど、文化と呼べるほどの広がりではなかったというのが真相です。


また、このような記述も気になりました。

 「私は大胆な仮説を述べたい。百済は日本の植民地に近い存在であった」(p46)。百済に大和朝廷から派遣された重臣が駐在していたこと、百済がほろんだとき、多くの百済人が日本に亡命したことを百田氏はその根拠とされているようですね。さすがにそれはないでしょう。任那 にんなが日本の植民地に近い存在というのなら、話は分かりますが。



2 17条の憲法のすごさ
 百田氏は『日本国紀』におきまして、聖徳太が制定した「17条の憲法」を称賛しております。僕もその点は全く同意です。ただ、百田氏は日ごろからネ〇ウ〇的な発言が目立ち、てっきり北朝鮮のような「軍国独裁国家」を肯定しているかと僕は思っていただけに、意外に思えたのですね。

まず、百田氏は、十七条の憲法第一条の「和を以て貴しと為し、さからふこと無きと宗とせよ」(原文は漢文)について、「世界の国のほとんどが先制独裁国であった時代に、『争うことなく、話し合いで決めよう』ということを第一義に置いた憲法というのは、世界的にも珍しい画期的なものであったといえる。」(p43)って称賛しているのですね。つまり民主主義を世界のどの国よりもも取り入れたことが素晴らしいと筆者は主張しているのですね。

それと百田氏は、「17条の憲法」において個人崇拝を否定していることを称賛しているのですね。
「さらに驚くべきは、第三条にようやく『天皇のみことのりを大切にせよ」と書かれていることだ。聖徳太子は天皇の摂政であり、同時に皇太子であったわけだから、これを最初に持ってきても何ら不思議ではない。しかし太子はこれを三番目に置いた。(中略)しかも「天皇」そのものではなく、天皇の「詔」を大切にせよと書かれている。これは個人崇拝を求めていないということを意味している。」(p43〜44)
と書いてありました。ということは、百田先生は、民主主義を重視して、個人崇拝を否定する立場なんだなって理解してよいのですね。

ちなみに17条の憲法は、厳密にいうと「憲法」ではないのですね。役人の決まり事とか、掟を定めた者であって憲法ではないのです。憲法とは「国家の統治権」を規定する法律のことです。



3 『逆説の日本史』の影響か?
 百田氏は天智天皇と天武天皇は兄弟じゃなかったみたいないい方をされておりますが、僕は「そうなの?」って思いましたよ。僕はずっと日本史で兄弟だと教わりましたが。天武天皇と天智天皇が血と血で争う戦争(壬申の乱)をしたのも、兄弟じゃないとしたら納得できるって主張ですが、それだけで二人が兄弟じゃないと主張するのは弱いですね。僕は普通に二人は兄弟だって考えたほうが無難のような気がするのですが。

それと、調べてわかったのですが、天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないって言い出しっぺは、百田氏ではないみたいですね。

どうも『逆説の日本史』の井沢元彦が天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないって説の言い出しっぺのようですね。僕は『逆説の日本史』って読み物としては面白いけれど、それが歴史的に正しいかといえば、?と思うことが多いんですよね。そして、百田氏の『日本国紀』は、天智天皇と天武天皇の話だけでなく『逆説の日本史』の影響を結構受けているみたいなんですよね。でも、その割には『日本国紀』には『逆説の日本史』を参考にしたとは書かれていないし、それどころか、普通こういった歴史本には参考文献なりサイトが書かれているのですが、それがないんですよね。




※1 663年に日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争。日本が百済を助けようとして新羅と戦ったが、新羅は唐に助けられ、日本軍を打ち破った。

※ 参考サイト
 


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現在の日本の首都は東京です。皆さんご存じですね。しかし、飛鳥時代から平安時代にかけて何度も遷都を繰り返した、つまり首都が何度も変わったのですね。


  • 斉明天皇元年(655年)冬、難波京なにわきょうから飛鳥川原宮へ遷都。

  • 斉明天皇2年(656年)、、飛鳥川原宮あすかかわらのみやから岡本宮おかもとのみやへ遷都。

  • 斉明天皇7年(661年)、岡本宮から朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみやへ遷都

  • 天智天皇6年(667年)、朝倉橘広庭宮から近江大津宮おうみおおつのみやへ遷都。

  • 天武天皇元年(672年)、近江宮から飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやへ遷都。

  • 持統天皇8年(694年)、飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都。

  • 和銅3年(710年)、藤原京から平城京へ遷都。

  • 天平12年(740年)、平城京から恭仁京へ遷都。

  • 天平15年(743年)、恭仁京くにきょうから紫香楽宮しがらきのみやへ遷都。

  • 天平17年(745年)、紫香楽宮から平城京へいじょうきょうへ還都。

  • 延暦3年(784年)、平城京から長岡京ながおかきょうへ遷都。

  • 延暦13年(794年)、長岡京から平安京へいあんきょう(京都)へ遷都。


655年から794年まで、およそ150年にもかけて12回も変わったのです。すごいですね。遷都の理由は様々ですが、おもに疫病が流行ったり、戦乱が起こったり、そういう縁起の悪いというので首都をたびたびかえては、心機一転やり直そうと思ったのですね。794年に平安京にうつってから落ち着いたのですね。とはいいましても治承4年(1180年)、平安京から福原京へ一時的に都に移ったのですが、半年後に平安京にすぐ戻りました。しかし、これだけ首都が変わるということは、財政的にも大変でしたし、労役を課される人民も大変でした。労役だからボランティア。給料も出ないでハードな仕事をしていたのだから大変だったと思います。ましてや今みたいにブルドーザーとか、そんなものもなかった時代でしたから。貴族や役人たちは華やかなで優雅な生活を送っていた一方で庶民は大変苦しい生活をしていたのです。まして、朝廷のきまぐれでたびたび遷都をされていたらたまらない。とくに天平年間は5年間で3回も変わったから大変だったかと。



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(都の模型)


当時の役人たちの衣装↓

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蘇我氏と物部氏は仏教の受け入れをめぐって対立していたというのが通説になっております。しかし、最近の研究でどうもそれは疑わしい。

そもそも仏教は6世紀半ばに百済王の聖明王から大和朝廷に正式にいただいたもの。日本側の都合で、「こんなのいらねえよ」って突き返せるものではないのです。それは物部氏といえど反対できなかったのです。渋川廃寺という物部氏ゆかりの寺があったのですが、そこから物部氏も仏教を受容していた痕跡が最近になって見つかったといいます。蘇我氏と物部氏が対立したのは、むしろどちらが仏教の担当者になるかという役目争いだったという説もあるのです。むしろ蘇我氏と物部氏の対立は仏教というより権力闘争だったというのが真相だったそうです。そうして両者は対立、血で血を争う戦に発展したのです。いわゆる丁未ていびの乱です。

暑い日が続いておりますね。熱中症に注意ですね。歩いていて足がほつれたりしたら、それは熱中症のサインだとか。睡眠中にも熱中症になることがあるので寝る前に水分を取るとよいそうです。以下、僕がテレビで知った情報ですw

今日は、曲名に「青」がつく曲のアンケートです。曲名に赤とか白とか青とか色がつく楽曲は、それこそ色々ありますが、とりわけ「青」は非常に多い。青は日本人が好きな色のひとつなのかもしれない。実際、日本人が好きな色のランキングで「青」は二位に入っております。ちなみに一位は「黒」だそうです。意外ですね。ブラック企業とか、黒星とか良くない意味で使われたり、今のこの時期に台所とかでゴソゴソ出てくるGの色も黒なので、むしろ嫌いな色にランキングされそうなのに。

万葉集にも「あをによし、奈良の都は、咲く花の、にほふがごとく、今盛りなり」とあります。意味は「奈良の都は花の香が香ばしく、今が盛りとたくさん咲いています」。「あをに」とは漢字で「青丹」と書きまして、「あをによし」は「奈良」にかかる枕詞です。青丹は青色の土のことで、奈良では「青丹」がよく取れたのですね。おもに顔料や化粧料の黛に使われたそうです。青丹とは僕も実物を見たことがないのですが、その色は青とはいいがたく緑色に近いそうですが。

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