1 遣唐使の廃止がそんなに大事か?
『日本国紀』の感想を再開します。僕は筆者の百田先生を論破できるほど歴史には詳しくないのですが、それでも「え?」と思うことがたびたびです。読み始めてから今日になって平安時代まで読み進めましたが、僕はこの一文に目が留まりました。
「平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使の廃止である。」(p68)
はて?平安時代といえば、坂上田村麻呂の東北遠征だの、菅原道真の失脚事件だの、(後で取り上げる)刀伊の入寇だの、平将門の乱、藤原純友の乱だの、前九年後三年の役だの、果ては源平の合戦だの、大きな出来事結構ありますが。ともあれ百田先生にとって何より大事なのが、遣唐使をやめたことなのだと解釈できました。遣唐使をやめたことによって中国と断交できた、そのことが何より大きな出来事だということでしょうね。百田先生が昭和初期にいたら、松岡洋祐外相の国際連盟脱退をもろ手を挙げて支持しそう。
「私は、この遣唐使の廃止を日本が中国の文化を必要としないという自信の表れであったと見ている」(p69)
この言い方だと、中国よりも日本の文化のほうが優れているみたいなニュアンスです。最近、ようつべやXで見かける、日本すげー、中国韓国ダメ系の動画やつぶやきみたい。
しかも、遣唐使は中止しただけであって、廃止したわけじゃないそうですね。遣唐使中止を決めたのは菅原道真ですが、菅原道真は唐を見下していたのではなく、現実問題、戦乱で唐の国力も衰えているし、しかも航海は命がけ、リスクは大きすぎる。もう少し、唐の国内が安定したら再開しましょうって感じだったようですよ。けれど、日本国内の災害や唐の衰退、ほかにも色々な事情があって遣唐使派遣は遅々として進まず、もたもたしているうちに唐が滅んじゃったっていうのが真相だそうです。
むしろ遣唐使が終わってからも、朝鮮や中国の使節は往来したといいますし、民間の商人は中国との交流があったそうですよ。
百田氏は、遣唐使を中止することで、国風文化と呼ばれる日本独自の文化が花開いたといいますが、まるで中国の文化を日本が拒絶したみたいな言い方です。が、「唐物」といいまして貴族たちの中国に対するあこがれはむしろ高まり、商人経由で中国の品々を買い求めた貴族もいたといいます。
2 仮名文字の発明
百田氏は仮名文字の発明についても言及されております。
「それまでは文章を書く際は、漢文を使うか、そうでない場合もすべての文字を漢字を使用していた。(中略)最初に仮名を使用したのは9世紀初めの僧侶たちだった。彼らは経典などの難読文字の横に、読みやすいように省略文字でふりがなをふった。たとえば、江→エ、止→ト、多→タ、という具合だ。これが片仮名の由来である。片仮名はその後も漢文の読みを表す補助的な文字で使われた。その後、感じの草書体から平仮名が編み出された。平仮名は片仮名に比べ優美な曲線をもっていたことから、宮中で働く女官たちが好んで使った。そのため「女手」とも呼ばれた。この平仮名の発明は日本語における表現力を飛躍的に発展させた。」(p69)
百田先生は漢字は日本人が発明した、いわゆる漢字日本発祥説は主張されていないことは理解できました。そりゃそうですよね。最近のネトウヨと違いますね。いまのネトウヨは平気で漢字日本発祥説をいいますからw。Xみてるとマジでそれをつぶやき、しかも結構「いいね」がついて拡散されているから、真に受けている人もいると思う。今日はエイプリルフールですがw、ついていいウソといけないウソがある。
確かに日本人が発明した漢字もあるのも事実です。和製漢字といいまして、「笹(ささ)」とか「躾(しつけ)」。でも、基本的に漢字が発明されたのは中国。その漢字をもとにして作ったのが、仮名文字ですから。
3 刀伊の入寇
刀伊とい の入寇に関しましては、僕はこの『日本国紀』で知りました。刀伊といとは1019年に起きた出来事で女真族の一派の海賊集団のことで、壱岐・対馬を襲い、さらに九州に侵攻した事件のことです。300人以上の人が殺され、1000人以上の人が拉致されたといいます。北朝鮮の拉致事件みたいな出来事が平安の昔からあったのかと思いましたね。しかも壱岐島の国司である藤原理忠も殺害されたといいます。家屋も結構焼かれ、強奪もされたといいます。当時の朝廷は危機感を持ったといいます。
「この大事件に、朝廷が取った行動は常軌を逸したたものだった。何と武力を用いず、ひたすら夷狄調伏(*1)の祈祷をするばかりだったのだ。」
刀伊を撃退したのは太宰権師(大宰府の次官)だった藤原隆家です。百田先生は朝廷が武力を用いずと仰っておりますが、藤原隆家は朝廷の人間ではなかったってことでしょうか?矛盾していますね。大宰府の次官なら朝廷関係者でしょう。藤原隆家はみ出し者だと『日本国紀』で説明しておりますが、はみだしものというのは左遷どころか、朝廷から身分を完全にはく奪され、本当に野武士みたいにフリーになった人のことでしょう。
さらに同じ年の6月に高麗が使者を日本に派遣して、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送り返してくれたのですね。そして隆家は、そのお礼に高麗の使者に禄を与えたそうですね。なぜか、この辺の話は『日本国紀』には書いておりません。高麗が日本人捕虜を救ったなんて話は都合が悪いってこと?
朝廷は祈祷をしたのがおかしいといいますが、この時代は別に珍しいことではないのです。なにしろ帝が病気になると加持祈祷を行ったような時代ですからね。何か事件とか問題があると昔の人たちは祈祷を行ったんですよ。令和の今だって神社で病気平癒だとか家内安全、交通安全はもとより、コロナの時も疫病退散の祈祷を行ったでしょう。要するに百田先生は平安時代は比較的平和な時代で、現在の日本と似ていると。それで人々が平和ボケになり、祈祷を行った朝廷を今の日本の政府の国防意識の低さと重ねたのでしょう。刀伊の入寇を例に挙げ国防の意識を高めなきゃダメだと主張されていることがよく理解できました。
この刀伊の入寇の意義は大変なもので、この事件を契機に国防の重要性が高まり、武士の台頭にもつながったのは本当のことです。
百田先生は、飛鳥時代を明治から昭和初期にたとえ、平安時代が今の日本と同じだと仰りたいのでしょうね。少なくとも、平安時代も決して平和な時代ではなく、いろいろと争いもありました。それと桓武天皇も健児の性で郡司の子弟たちや弓馬に秀でた農民たちで構成された兵士たちを組織しております。だから、平安時代の朝廷だって平和ボケではなかったのですね。
*参考サイトならびに参考文献
『日本国紀』の感想を再開します。僕は筆者の百田先生を論破できるほど歴史には詳しくないのですが、それでも「え?」と思うことがたびたびです。読み始めてから今日になって平安時代まで読み進めましたが、僕はこの一文に目が留まりました。
「平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使の廃止である。」(p68)
はて?平安時代といえば、坂上田村麻呂の東北遠征だの、菅原道真の失脚事件だの、(後で取り上げる)刀伊の入寇だの、平将門の乱、藤原純友の乱だの、前九年後三年の役だの、果ては源平の合戦だの、大きな出来事結構ありますが。ともあれ百田先生にとって何より大事なのが、遣唐使をやめたことなのだと解釈できました。遣唐使をやめたことによって中国と断交できた、そのことが何より大きな出来事だということでしょうね。百田先生が昭和初期にいたら、松岡洋祐外相の国際連盟脱退をもろ手を挙げて支持しそう。
「私は、この遣唐使の廃止を日本が中国の文化を必要としないという自信の表れであったと見ている」(p69)
この言い方だと、中国よりも日本の文化のほうが優れているみたいなニュアンスです。最近、ようつべやXで見かける、日本すげー、中国韓国ダメ系の動画やつぶやきみたい。
しかも、遣唐使は中止しただけであって、廃止したわけじゃないそうですね。遣唐使中止を決めたのは菅原道真ですが、菅原道真は唐を見下していたのではなく、現実問題、戦乱で唐の国力も衰えているし、しかも航海は命がけ、リスクは大きすぎる。もう少し、唐の国内が安定したら再開しましょうって感じだったようですよ。けれど、日本国内の災害や唐の衰退、ほかにも色々な事情があって遣唐使派遣は遅々として進まず、もたもたしているうちに唐が滅んじゃったっていうのが真相だそうです。
むしろ遣唐使が終わってからも、朝鮮や中国の使節は往来したといいますし、民間の商人は中国との交流があったそうですよ。
百田氏は、遣唐使を中止することで、国風文化と呼ばれる日本独自の文化が花開いたといいますが、まるで中国の文化を日本が拒絶したみたいな言い方です。が、「唐物」といいまして貴族たちの中国に対するあこがれはむしろ高まり、商人経由で中国の品々を買い求めた貴族もいたといいます。
2 仮名文字の発明
百田氏は仮名文字の発明についても言及されております。
「それまでは文章を書く際は、漢文を使うか、そうでない場合もすべての文字を漢字を使用していた。(中略)最初に仮名を使用したのは9世紀初めの僧侶たちだった。彼らは経典などの難読文字の横に、読みやすいように省略文字でふりがなをふった。たとえば、江→エ、止→ト、多→タ、という具合だ。これが片仮名の由来である。片仮名はその後も漢文の読みを表す補助的な文字で使われた。その後、感じの草書体から平仮名が編み出された。平仮名は片仮名に比べ優美な曲線をもっていたことから、宮中で働く女官たちが好んで使った。そのため「女手」とも呼ばれた。この平仮名の発明は日本語における表現力を飛躍的に発展させた。」(p69)
百田先生は漢字は日本人が発明した、いわゆる漢字日本発祥説は主張されていないことは理解できました。そりゃそうですよね。最近のネトウヨと違いますね。いまのネトウヨは平気で漢字日本発祥説をいいますからw。Xみてるとマジでそれをつぶやき、しかも結構「いいね」がついて拡散されているから、真に受けている人もいると思う。今日はエイプリルフールですがw、ついていいウソといけないウソがある。
確かに日本人が発明した漢字もあるのも事実です。和製漢字といいまして、「笹(ささ)」とか「躾(しつけ)」。でも、基本的に漢字が発明されたのは中国。その漢字をもとにして作ったのが、仮名文字ですから。
3 刀伊の入寇
刀伊とい の入寇に関しましては、僕はこの『日本国紀』で知りました。刀伊といとは1019年に起きた出来事で女真族の一派の海賊集団のことで、壱岐・対馬を襲い、さらに九州に侵攻した事件のことです。300人以上の人が殺され、1000人以上の人が拉致されたといいます。北朝鮮の拉致事件みたいな出来事が平安の昔からあったのかと思いましたね。しかも壱岐島の国司である藤原理忠も殺害されたといいます。家屋も結構焼かれ、強奪もされたといいます。当時の朝廷は危機感を持ったといいます。
「この大事件に、朝廷が取った行動は常軌を逸したたものだった。何と武力を用いず、ひたすら夷狄調伏(*1)の祈祷をするばかりだったのだ。」
刀伊を撃退したのは太宰権師(大宰府の次官)だった藤原隆家です。百田先生は朝廷が武力を用いずと仰っておりますが、藤原隆家は朝廷の人間ではなかったってことでしょうか?矛盾していますね。大宰府の次官なら朝廷関係者でしょう。藤原隆家はみ出し者だと『日本国紀』で説明しておりますが、はみだしものというのは左遷どころか、朝廷から身分を完全にはく奪され、本当に野武士みたいにフリーになった人のことでしょう。
さらに同じ年の6月に高麗が使者を日本に派遣して、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送り返してくれたのですね。そして隆家は、そのお礼に高麗の使者に禄を与えたそうですね。なぜか、この辺の話は『日本国紀』には書いておりません。高麗が日本人捕虜を救ったなんて話は都合が悪いってこと?
朝廷は祈祷をしたのがおかしいといいますが、この時代は別に珍しいことではないのです。なにしろ帝が病気になると加持祈祷を行ったような時代ですからね。何か事件とか問題があると昔の人たちは祈祷を行ったんですよ。令和の今だって神社で病気平癒だとか家内安全、交通安全はもとより、コロナの時も疫病退散の祈祷を行ったでしょう。要するに百田先生は平安時代は比較的平和な時代で、現在の日本と似ていると。それで人々が平和ボケになり、祈祷を行った朝廷を今の日本の政府の国防意識の低さと重ねたのでしょう。刀伊の入寇を例に挙げ国防の意識を高めなきゃダメだと主張されていることがよく理解できました。
この刀伊の入寇の意義は大変なもので、この事件を契機に国防の重要性が高まり、武士の台頭にもつながったのは本当のことです。
飛鳥時代の政府(朝廷)は、防人制度を作ったり大宰府に水城を築いたりして、常に外国からの侵略に備えていたが、三百年も平和が続くと、朝廷も完全は平和ボケに陥り、国を守るという考えが希薄になっていた
(p81)
百田先生は、飛鳥時代を明治から昭和初期にたとえ、平安時代が今の日本と同じだと仰りたいのでしょうね。少なくとも、平安時代も決して平和な時代ではなく、いろいろと争いもありました。それと桓武天皇も健児の性で郡司の子弟たちや弓馬に秀でた農民たちで構成された兵士たちを組織しております。だから、平安時代の朝廷だって平和ボケではなかったのですね。
*参考サイトならびに参考文献


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