1 『l嫌韓流』のような主張
百田氏の『日本国紀』の飛鳥時代、奈良時代の章を読ませていただきましたが、一言でいえば、朝鮮や中国に関して、敵意を通り越して、侮辱さえ感じられる記述がみられました。まるで『嫌韓論』みたい。たとえば、
- 「朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対である」(p40)
- 「遣唐使は朝鮮半島を経由しない海路を通った」(p49)
- 「現在は語られることはないが、中国には古代から近代まで『食人文化』があった(p50)
てな具合。
まず1ですが、筆者は、朝鮮の外交がヘタレという一方で、聖徳太子が髄の煬帝に対して毅然とした外交を行ったことを称賛しております。でも朝鮮半島の国々が必ずしも中国の王朝に対して平身低頭の態度ばかり取っていたわけじゃないのですね。
たとえば隋と高句麗は緊張関係にあって、たびたび隋と高句麗は戦争を行っていたのですよ。いわゆる隋の高句麗遠征というもので、煬帝の父である楊堅の代からはじまって煬帝も高句麗に戦いを挑みました。それは598年から614年の間で4回もあったといいます。高句麗は隋の大軍に屈せず、4度の遠征のうち3度も勝利しております。そのうち三回目の第三次遠征(613年)では高句麗の抵抗も激しく、隋国内で内乱があって軍を引き上げる羽目になったのです。
このように隋と高句麗は戦争状態にありました。はじめ、聖徳太子からの「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」から始まる国書について、煬帝も怒ったのですが、煬帝としても日本と結んでおくのも悪い話ではないと思ったのでしょうね。
2についてですが、何もここまで嫌韓的な態度を示さなくてもって思いました。「韓国がよく『日本の文化は朝鮮が伝えた』と主張するが、史実があやふやな古代は別にして、遣唐使以降の文化や技術の輸入には、朝鮮はまったく関与していないといえる。」(p49)と『日本国紀』に書いてありますが、そもそも遣唐使が朝鮮半島を通らなかったのは陸路より海路のほうが便利だし、まして、朝鮮が嫌いだから海路を通ったなんてことはありえません。
それに遣唐使はあくまで政治的外交であって民間レベルだと朝鮮との交流もあったといいます。政治的外交と民間の通商は別物です。それどころか、新羅の使節もあったといいます。8世紀末には、新羅からの使節は途絶するものの、9世紀前半になると新羅商人が日本にやってきたといいます。

3ですが、確かに中国では食人の記録は明の時代までありました。けれど、それが文化と断定はできないんですよ。たしかに人を食う話はあったけれど、文化と呼べるほどの広がりではなかったというのが真相です。
また、このような記述も気になりました。
「私は大胆な仮説を述べたい。百済は日本の植民地に近い存在であった」(p46)。百済に大和朝廷から派遣された重臣が駐在していたこと、百済がほろんだとき、多くの百済人が日本に亡命したことを百田氏はその根拠とされているようですね。さすがにそれはないでしょう。任那 が日本の植民地に近い存在というのなら、話は分かりますが。
2 17条の憲法のすごさ
百田氏は『日本国紀』におきまして、聖徳太が制定した「17条の憲法」を称賛しております。僕もその点は全く同意です。ただ、百田氏は日ごろからネ〇ウ〇的な発言が目立ち、てっきり北朝鮮のような「軍国独裁国家」を肯定しているかと僕は思っていただけに、意外に思えたのですね。
まず、百田氏は、十七条の憲法第一条の「和を以て貴しと為し、忤らふこと無きと宗とせよ」(原文は漢文)について、「世界の国のほとんどが先制独裁国であった時代に、『争うことなく、話し合いで決めよう』ということを第一義に置いた憲法というのは、世界的にも珍しい画期的なものであったといえる。」(p43)って称賛しているのですね。つまり民主主義を世界のどの国よりもも取り入れたことが素晴らしいと筆者は主張しているのですね。
それと百田氏は、「17条の憲法」において個人崇拝を否定していることを称賛しているのですね。
「さらに驚くべきは、第三条にようやく『天皇の詔を大切にせよ」と書かれていることだ。聖徳太子は天皇の摂政であり、同時に皇太子であったわけだから、これを最初に持ってきても何ら不思議ではない。しかし太子はこれを三番目に置いた。(中略)しかも「天皇」そのものではなく、天皇の「詔」を大切にせよと書かれている。これは個人崇拝を求めていないということを意味している。」(p43〜44)と書いてありました。ということは、百田先生は、民主主義を重視して、個人崇拝を否定する立場なんだなって理解してよいのですね。
ちなみに17条の憲法は、厳密にいうと「憲法」ではないのですね。役人の決まり事とか、掟を定めた者であって憲法ではないのです。憲法とは「国家の統治権」を規定する法律のことです。
3 『逆説の日本史』の影響か?
百田氏は天智天皇と天武天皇は兄弟じゃなかったみたいないい方をされておりますが、僕は「そうなの?」って思いましたよ。僕はずっと日本史で兄弟だと教わりましたが。天武天皇と天智天皇が血と血で争う戦争(壬申の乱)をしたのも、兄弟じゃないとしたら納得できるって主張ですが、それだけで二人が兄弟じゃないと主張するのは弱いですね。僕は普通に二人は兄弟だって考えたほうが無難のような気がするのですが。
それと、調べてわかったのですが、天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないって言い出しっぺは、百田氏ではないみたいですね。
どうも『逆説の日本史』の井沢元彦が天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないって説の言い出しっぺのようですね。僕は『逆説の日本史』って読み物としては面白いけれど、それが歴史的に正しいかといえば、?と思うことが多いんですよね。そして、百田氏の『日本国紀』は、天智天皇と天武天皇の話だけでなく『逆説の日本史』の影響を結構受けているみたいなんですよね。でも、その割には『日本国紀』には『逆説の日本史』を参考にしたとは書かれていないし、それどころか、普通こういった歴史本には参考文献なりサイトが書かれているのですが、それがないんですよね。
※1 663年に日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争。日本が百済を助けようとして新羅と戦ったが、新羅は唐に助けられ、日本軍を打ち破った。
※ 参考サイト


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