1 ヒトラーの懐刀
 今日はヒトラーの懐刀、ゲッペルスの話を。ゲッペルスは巧みな話術と宣伝術をもって、ナチスの勢力拡大に大きく貢献しました。当初はマスコミから「行き場のないアウトロー気分」とか「むき出しの暴力本能」いわれるほどナチスは泡沫政党であり、キワモノ扱いだったのが、あれよあれよと権力を握るようになったのは、ゲッペルスの力が大きかった。だから、ヒトラーは大変ゲッペルスを信頼したのです。

また、ヒトラーはオーストリアの人間でドイツ国籍を持っていなかった(のちにヒトラーは国籍取得したが)ので、実質政治活動はゲッペルスが指揮したのです。

そんなゲッペルスは、幼少期は体が弱く、右足が不自由だったといいます。それは成人しても治らず、生涯、右足に特殊な装備をしていたといいます。ゲッペルスはドイツの名門ハイデルベルク大学で文学を学びました。憧れだった文筆家の道を目指したといいます。そのためにはまず出版業界やマスコミ関係を目指したといいます。しかし、当時のドイツはそうした業界のほとんどはユダヤ人が経営者だったといいます。ゲッペルスは何度も新聞に投稿しましたが、採用されることはありませんでした。そうしてゲッペルスはユダヤ人に対する憎悪を抱くようになったのです。

失意のゲッペルスを高揚させたのは、ナチスが起こしたミュンヘン一揆でした。一揆はすぐに鎮圧されましたが、ゲッペルスはユダヤ人に対して批判的だったナチスと、そのリーダーだったヒトラーという人物に興味を持ったのです。

それからゲッペルスは政治家転身を目指し、ナチスに入党。

ゲッペルスは、演説の才能があったので、すぐに台頭したのです。言葉だけでなく、全身を使って人々の心を打ったのです。ヒトラーは「ゲッペルスこそ私が長い間待ち望んだ人間だ」と評価。


1926年、ヒトラーはゲッペルスをベルリンのナチ党の指導者に指名。当時のベルリンは赤のベルリンといわれるほど左派が強かったのです。そんな状況で、ゲッペルスはあえて共産党の集まった集会で過激な演説を行ったといいます。そして突撃隊を送り込み、共産党員と大乱闘をおこしたといいます。その共産党とナチ党の乱闘はマスコミの注目を集めたほど。すると2000人以上のナチ党入党の申し込みがあったといいます。その後も、ゲッペルスは共産党との乱闘を繰り返しては、ナチ党の希望者を増やしたといいます。赤のベルリンとは言われていても、内心は共産党のやり方に不満を持っていた人も少なくなかったのです。そうしてナチスも国会で議席を持つほどになったのです。

2 ゲッペルスの手法
 とはいえ、ナチスはまだまだ泡沫政党。それでゲッペルスは様々な層にそれぞれ異なったアプローチでナチスの公約を訴えたのです。


  • (政治に無関心で無知な)大衆には実現不可能な政策を連発

  • 富裕層には共産党からの脅威

  • 農家には農産物買い上げ価格の引き上げ

  • 労働者には農産物価格の引き上げ


そして、ゲッペルスは使えるものは何でも使いました。


  • 街頭をヒトラーのポスターで埋め尽くした

  • 大量のビラ

  • 飛行機を使って、ヒトラーが空から降り立つパフォーマンスを行った

  • 当時普及して間もなかったラジオを使った

  • 集会ではたいまつを使い、集会者の気持ちを高揚させた



そうして、ナチスは200議席以上を取得。そうしたナチスの動きに各国は警戒したのです。軍国主義的で過激な主張を恐ろしいと思ったのでしょう。でも、ゲッペルスは各国の首脳にナチスは危険な政党ではないと主張。

そして、ゲッペルスはヒトラー独裁を盤石にするため、国民啓蒙・宣伝省を設立。そのトップ大臣の座に就いたのです。ゲッペルスは、ドイツ国民の思想をナチスの思想一色に統一させ、異なる意見を弾圧したのです。出版、映画、そしてラジオとあらゆるメディアを管理下に置いたといいます。特にラジオからは毎日のようにナチスの思想が流れたといいます。映画館でもナチスの政策を訴えるニュースが必ず流されたといいます。そんなに毎回のようにナチスのことを宣伝されたら、ナチスに反感を持つ人間も出てきます。しかし、ナチスは自分たちと異なる考えを持つものは国家の敵とみなされたのです。


特にナチスは結婚を奨励したのです。各家庭が幸せになってほしいから?まさか。そんなことはありません。産めよ育てよで、将来兵隊となって危険な戦地でとびこんでくれる人間を増やすためですよ。戦争もしょせんは人海戦術がものを言いますから。

ゲッペルスの妻はマクダといいまして、マクダは上流階級の出身で、ナチスの理想の女性として宣伝されました。6人の子供もいましたから、埋めよ育てよのナチスにとっては理想だったのです。またヒトラーには妻がいなかったので、マクダが事実上ファーストレディーの役割をはたしたといいます。僕はヒトラーはマクダに不倫でもしたのではないかと勘繰りたくなりますが。

ヒトラーの不倫をといいましたが、実は、ゲッペルスは不倫をしていたのですね。ゲッペルスは女優のリダ・バーロヴァに夢中だったといいます。ゲッペルスと20歳も離れていたといいますから、親子ほど年が離れております。それを知ったマクダはゲッペルスとの離婚を決意。そしてマクダはヒトラーに離婚を若し出たといいます。それを知ったヒトラーは激怒。ゲッペルスとマクダの和解を命じたといいますが、二人の関係は冷え切ったまま。そして不倫相手のリダ・バーロヴァは国外追放されたといいます。

さらに、ゲッペルスは国民に対してウソの情報も流しました。ゲッペルスにとって、情報の正しさなど問題ではなかったのです。


  • アウトバーンの工事作業は、最新式の機械を使わず人海戦術を行ったので、あまりうまくいかなかったが、工事をしている労働者たちの汗水たらして働く姿は、ナチスの理想と宣伝された。


  • ポーランドでドイツ系住民が迫害されたと宣伝。実際はそんなことはなくて、ナチスがポーランド侵攻の正当化していた。表向きは、ドイツ系住民の保護とされていたが、ただの侵略戦争だった。


  • ウソと偏見にまみれたユダヤ人批判のプロパガンダ映画を作り、ユダヤ人弾圧を正当化


実際、ゲッペルスは作った映画の出演者にこういうセリフを言わせております。

世界はすぐに忘れる。ウソも何度も繰り返されれば、最後には信じられるようになるのだ」


3 ゲッペルスの最後
戦争が泥沼化し、ドイツが負けそうになると、ヒトラーが引っ込みがちになり、かわりにゲッペルスが前面に出るようになったのです。彼がヒトラーに変わり大衆の前で演説したのです。しかも、円是宇野会場ではサクラまで仕込んだというからたちが悪い。演説が終わるとゲッペルスは部下たちに満足げにこう語ったといいます。

私がビルの屋根から飛び降りろと命じていたなら、彼らはその通りにしただろう。

ドイツは、数々の戦争に負けて、どんどん追い詰められていきます。それでもゲッペルスはドイツ国民を戦争に駆り立てることをやめませんでした。ソ連兵によるドイツ人虐殺をあえて大々的に訴え、降伏の恐怖を訴えたといいます。最後まで徹底抗戦を続けさせるために。ベルリンにソ連兵が迫る中、ゲッペルスは「コルベルク」という映画を作り上げました。これは19世紀にプロイセンにナポレオン軍が攻め寄せたが、それを勇敢な市民たちが立ち上がり徹底抗戦したって映画です。ゲッペルスはこの映画をつくった狙いをこう語りました。

ここに映画大作『コルベルク』の制作を命じる。本作では、題名に冠された都市を模範に、郷土と前線が一体となった国民はいかなる敵にも勝ることを示すものとする。国防軍、国家、党の全部署に対し、必要な場合に援助、支援の申し入れを行う権限を与える。またその際、ここで本職が命じた映画は、我々の精神的戦争遂行に貢献するものと言及することも許可す




しかし、この映画は当時のドイツ人には受け入れられず興行成績も散々だったといいます。そりゃ戦争で敵も目前と迫っている状況じゃ映画どころじゃありませんよね。しかも、この映画に出てきたほぼ同じセリフを、ゲッベルスは1943年2月にスポーツ宮殿演説の終末に使用していたのです。「今こそ、民よ、立ち上がれ、そして嵐よ、起きよ! 」って。国民の間には厭戦ムードが漂っていたのに、空気読めませんね。しかも、皮肉なことに、本作の舞台となったコルベルクは1945年3月18日にソ連赤軍とポーランド人部隊によって陥落したが、ゲッベルスはそれを報じることを禁じたといいます。


敗戦間際になると、ヒトラーに金魚の糞のようにくっついた側近たちもあっさり離れ、ゲッペルスだけが付き従ったといいます。ヒトラーにとっては感激でしょう。ゲッペルスを心の友と思ったことでしょう。ヒトラーは、ゲッペルスを次期首相に命じて自ら命を絶ちます。すると、その翌日ゲッペルスも後を追うようにマクダと子供6人を道連れにして自殺をするのです。

「私は総統のために総統のそばで役立てうるのでなければ個人として何の価値もない子の命を総統の傍らで終えることを選ぶのである」と言い残して。

4  日本もゲッペルスの手法を学んだ
 こうしたゲッペルスの手法は、日本も学んだのですよ。恐ろしいですね。日本放送協会つまり
NHKも、ゲッペルスの国民啓蒙・宣伝省を参考にして組織づくりをしたといいます。当時の近衛文麿首相は異常というほどナチスかぶれで、ヒトラーのコスペレまでしたほど。安倍晋三がヒトラーだという人がいますが、そんなの手ぬるい。近衛文麿は、東条英機のせいで目立たないけれど、彼こそ日本を軍国主義に推し進めた張本人だといっても過言ではありません。


当時、日本でも普及してまもないラジオを用いて、近衛は勇ましい言葉を国民に訴えたのです。また近衛は日独伊三国同盟を結んだり、ナチスにまなんであらゆる政党を解体し、大政翼賛会を作り上げたのですから。

隣組とか、市民を戦争に駆り立てるための組織を作ったり、戦争に反対するものをアカだの非国民だのと攻撃する仕組みも作ったり。まさにゲッペルスの真似事だなって。実際、多くの国民が日本のプロパガンダに乗っかって、戦争協力を率先的に行いました。戦争が終わったとたんに、プロパガンダに乗った人ほど「騙された!」っていうのです。しかし、伊丹十三監督の父である伊丹万作は、それは違うと看破したのです。↓




最後にゲッペルスの言葉を。

プロパガンダは人々を説得し、ある考えに駆り立てることができればよいのである。大衆とは弱く、臆病で、怠惰な人々である。アイデアがシンプルで日常生活に関連していればいるほど、それをみんなに伝えたいという要求が高まっていく。一人ひとりが大衆に広めるなら我々の世界観が国家を乗っ取る日が来るだろう。



この記事は「映像の世紀」を参考にしました。