戦前の歴史、「国史」では、「白村江の戦い」と「壬申の乱」が取り上げていないのです。だから、戦前の教育を受けた人は、白村江の戦いも壬申の乱も知らない人が少なくなくて、昭和天皇の側近でさえ、「壬申の乱?なにそれ?」って感じだったそうです。

白村江の戦いが取り上げられないのは、日本の負け戦だったからです。この戦いは、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われました。

当時の朝鮮半島は、新羅、高句麗、百済とまさに中国の三国志のような時代でしたが、新羅が力をつけて、百済を攻めてきたのです。百済が日本に助けを求めたのです。それで、日本が朝鮮半島の同盟国であった百済を助けるために、新羅と唐に戦いを挑んだのですが、とんだ負け戦だったのです。日本が負けたということは都合がわるかったのでしょうね。

壬申の乱は、天智天皇の死の翌年の672年に起った皇位継承をめぐる大規模な内乱で、大友皇子と大海人皇子が次期天皇の座を巡って争ったのです。つまり皇位継承の争いです。大海人皇子が天智天皇の弟、大友皇子は天智天皇の子供です。乱は大海人皇子が勝利し、大海人皇子は天武天皇となりました。やはり、天皇の身内同士が相争った事実は都合が悪かったのかもしれません。

※ 参考文献
ある侍従の回想記: 激動時代の昭和天皇
岡部 長章
朝日ソノラマ
1990-02-01