今日は広島に原爆が投下された日ですが、それではここで原爆投下に関する昭和天皇のコメントを見てみましょう。何でこんな無責任な奴が聖人君子みたいに言われているのか。
— 大神 (@ppsh41_1945) August 6, 2023
昭和天皇「広島市民に対しては気の毒であるが、戦争だからやむを得ない事と私は思っていますpic.twitter.com/3od4B6Rlez
三種の神器の話、クソリプ必至だから引用しとくわ。昭和帝「敵が伊勢湾に上陸すれば伊勢熱田両神宮は敵制圧下に入り、神器移動の余裕なく確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい」(「昭和天皇の終戦史」P221)
— 昼寝猫 (@tcv2catnap) December 30, 2023
1 昭和天皇はクズ?
ネットを検索すると昭和天皇陛下のクズエピソードが結構出てきます。じゃあクズかといえば結論から言えばグレーです。完全に擁護はできないが、クズ断定まではできないんですよ。
昭和天皇の発言は『昭和天皇独白録』、『木戸幸一日記』や『杉山メモ』などに書かれておりますが、それらに書かれている昭和天皇の発言すべてが、本人自ら発した言葉なのかどうかわからないのですね。また自ら発した言葉であっても、官僚が書いた作文をただ読み上げただけかもしれない。
それに昭和天皇陛下といえば、「あ、そう」に代表されるようにベラベラしゃべる方じゃない。悪く言えば言葉足らず。だから、真意もろくに伝わらず、誤解する人間が出てきたり、周りの人間に脚色された面もあった可能性も否めないんです。
最近、真子さまが「自分たち(皇室の人間)が言ってもいないことを言ったかのように報道されている」って大変憤られてました。そのご発言をうかがった時、僕は、ああ、これが皇室の人たちの本音であり、昭和天皇陛下や上皇さまや美智子さまも含め皇室の人たちは長年それで苦しめられてきたんだなって思いましたね。
2 絶対君主制とは言えなかった大日本帝国
たとえば、1936年の2・26事件のあった直後の3月10日に昭和天皇は、寺内寿一陸相に訓戒の言葉をかけました。以下のとおり。
最も信頼せる股肱(※1)たる重臣及大将を殺害し、自分を真綿にて首を締むるが如く苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。面して其行為たるや、憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭にも悖り、国体を汚し、其明徴を傷つくるものにして、深く之を憂慮す。此際、十分に粛軍の実を挙げ、再び斯かる失態なき様にせざるべからず。
昭和天皇は2・26事件のことでたいそうお怒りで、青年将校のやったことは軍人勅諭にも違反しているし、昭和天皇を真綿で首をしめるのと同じだと大変手厳しい。ところが、実際の軍隊向けの訓示は以下のようになりました。
近来陸軍において縷々(※2)不詳なる事件を繰り返し、遂に今回の如き大事を惹き起こすに至りたるは、実に勅諭に違背し、此の際部内の禍根を一掃し、将士一致して各々其本務に専心し、再びかかる失態なきを期せよ。
最初、昭和天皇は強いトーンで陸軍の青年将校たちを批判されていたのに、この訓示は控えめなトーンになっております。陸軍の幹部たちは青年将校たちに同情しているものもすくなくなく、あわよくば、この若者たちのことを足掛かりに軍部の発言力を高めようと企てたものさえいたのです。そのせりか、昭和天皇がどれだけ怒っているか、いまいち伝わらないようなかんじになってしまったのですね。このように昭和天皇のお言葉も側近や官僚、はたまた軍部によって捻じ曲げられてしまうこともたびたびあったようです。
また、大日本帝国憲法はたしかに天皇に大きな権限を持たせたことに特徴がありますが、では、天皇がそれをいいことに好き勝手してよいかといえば、そうとも言えず、天皇といえど、やたらと口出しできなかったようです。昭和天皇が戦前ならびに戦時中に直接、政治的な発言をしたのは、総理大臣である田中義一を失脚させたことです。
ことの起こりは張作霖爆破事件。関東軍が張作霖を殺してしまい問題になったのです。ときの首相の田中義一は軍の責任者を一度は軍法会議にかけると言ったものの、陸軍の反発を買ってしまったんですね。田中は、それまでの態度をコロッと変えて、責任者も軽微な処罰で終わったのです。それに対し昭和天皇が田中首相にいった言葉が「辞表したらどうか」って。
そして、田中首相は総辞職。それから間もなくして、田中義一は突然亡くなってしまうのですね。心労で病気になったか、自殺したか、それとも暗殺されたか。いづれにせよ、早すぎる死でした。この突然の田中の死に昭和天皇も心を痛めたといいます。戦後になって昭和天皇陛下は「若気の至りだと今は考えている」って語られたとか。そして、戦後になってこのように回想されております。
この事件(田中義一失脚事件)あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した。
田中義一失脚事件以降、昭和天皇といえど内閣の意見に従わざるを得ず、逆に言えば、政治家や側近、軍部が天皇の威を借りて好き勝手できるようになったってことでしょうね。何か問題があったら、取り巻き連中は天皇のせいにして逃げることもできたってことでしょう。
3 世間とのずれ
っぱ昭和天皇よ
— 青狸 (@dora_kasu) March 25, 2024
家を焼かれた子供に「勉強しなさいね」と言い放つ象徴さん、ほんまありがとう https://t.co/GzJ0doEQW7 pic.twitter.com/jjrzDtD5o9
ただ、戦後の行幸の際、家を失い、家族を失った子供にどこか他人事のようなことを言っているのは気になりました。申し訳ないが、あなたの終戦の決断がもう少し早ければ、この子の家も、そして家族も失わずに済んだのに。もちろん、昭和天皇はコミュ不足で、気の利いた言葉をかけてあげられなかったって見方もできますが、上皇様やいまの天皇陛下だったら、もっと優しい言葉をかけていたと思うし、「こんな目に合わせてしまって、本当に申し訳ない」って謝っていたと思います。
昭和天皇はたぶん悪気は無かったと思います。「こち亀」で中川が両津に、フェラーリに乗ったとか、100均なにそれ?みたいな発言など、さりげない庶民離れのセレブな言動が、両津に反感買われた、あの感じに似ている。
無理もありません。幼少の頃から山縣有朋や乃木希典あたりから、世界を束ねる神になれって叩き込まれ、庶民との接触も禁じられてきたのですから。
ダイアナ妃は幼少時のウィリアム王子をスラム街に連れてきて「これがイギリス社会の現実よ」って教えましたが、おそらく昭和天皇は、こういう教育を受けなかった、というより受けさせてもらえなかった。
膝をつかれて、国民と対話をする天皇陛下皇后陛下(上皇陛下上皇后陛下)
— 松村尚和(Hisakazu Matsumura) (@matsuhis1) June 6, 2024
恐れ多い事でございます。#スメラギイヤサカ pic.twitter.com/4Cr7n2CBb8
(膝をつかれて国民と同じ目線に立つ天皇皇后両陛下ならびに上皇さま上皇后さま)
引揚げ者を慰問される昭和天皇と、
— ➶⡱꙳so this is love✰⋆*☪︎*。✰˖٭₊✼୭*ˈ.*・̩͙☀︎ః❅꙳˖٭₊ (@aozoraoribie) June 25, 2022
関東大震災で赤十字を慰問された貞明皇后
有り難いお写真です😭
国民は、皇族方に膝をついて慰問される事は望んでいません。
皇族方には、一般人と同レベルに成り下がる事を望んでいません。 pic.twitter.com/Px7W5wnFIO
(ネトウヨらしき人の発言)
実際、上皇様やいまの天皇陛下は被災地ご訪問の際、普段着を着て、膝をついて国民と同じ目線を合わせておりますが、そうした天皇陛下のご姿勢は多くの国民から支持され、海外では「エンペラーが国民と同じ目線にいる」って大変驚き、称賛されています。けれど上皇様や天皇陛下の姿勢に批判をする保守言論人やネトウヨも少なくないのです。
何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であろうと車上であろうと良いのです。(江藤淳の発言)
これじゃあ、いくら天皇が国民に寄り添おう、配慮しようと思っても、それすら許してもらえないですね。
あくまで天皇は超然としていて一般国民と距離を置いているのが望ましいってことでしょうね。
こんな連中に囲まれたら昭和天皇も時々、「ん❓」って言動をされるだろうし、仮に本音を語られても、周りの人間に捻じ曲げられこともあるでしょう。
逆に上皇様や今の天皇陛下は周りに何言われようと国民に寄り添おうとされているんですね。
※1 もっとも頼りになる家臣の事
※2 しばしば
* 参考文献
2 三種の神器を心配した
(1945年7月31日、本土決戦も覚悟しなくてはならなくなり、木戸内大臣に語った言葉。)
戦時で敗戦が濃厚になり、本土決戦が迫った時の昭和天皇の発言です。なんと国民の命より三種の神器のほうが大事って話なのです。ひどい話であります。そもそも三種の神器というものは、日本書紀にも古事記にも、皇位の象徴だと書かれていないんですね。また、三種の神器が古代からあったものではなく、壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水したときに草なぎの剣も一緒に海に沈んでしまったのです。つまり、いまある草なぎの剣はレプリカなんです。
国民の命を守るためではなく、三種の神器を守るために講和をしようというのです。それが事実なら昭和天皇はどうしようもないワルでしょう。ただ、昭和天皇が本当にこんなこと言ったのかよくわからんのです。それと昭和天皇が三種の神器ばかり心配し、国民のことを顧みていないといえば、そうでもありません。以下終戦間際の発言を。
あと、戦時中まで昭和天皇の執務室にはナポレオンの胸像があったが、玉音放送の当日、執務室にあったはずのナポレオン像がなくなり、ダーウィンの像が飾られていたなんてエピソードもあります。ナポレオンは軍事の象徴。もし、ナポレオンの像なんて飾っていたら自分がナポレオンにのっとり、軍隊を動かしていたことがばれる、だから昭和天皇はナポレオン像を隠したってウワサもありますが、あくまで、これもウワサ。
3 原子爆弾はやむをえない
(1975年の記者クラブの会見の際、原爆投下について質問をされたとき)
この原爆やむを得ない発言は、当時の人たちを失望させたのですね。もし、昭和天皇がマジで思っていたとしたら、相当なクズですね。ただ、この発言もアメリカに訪れ、アメリカから帰ってきて日が短いので、このような発言をした可能性もあるのです。
原爆投下は日本にとって災難のほか何物でもないのですが、アメリカにとっては戦争を終わらせたもの、原爆投下がなかったら日本軍は戦争をやめなかったという認識の人が多いのです。むしろ、日本人は日本軍の独裁政権から救ってあげたのだから感謝しろみたいな認識。まして戦後から30年くらいしかたっていないのであれば、いまよりもっとそういう認識の人が多かったはず。
そんな状況の中で天皇が原爆を批判するような発言をすれば、それはそれで国際問題になりかねません。昭和天皇はリアリストでアメリカとの同盟を非常に重要視していました。そこでアメリカを怒らせるのはまずいって計算が働いたのかもしれません。
4 勉強をしなさい
昭和天皇は先の戦争で空襲の被害にあった都市などを巡行したのですね。その時、ある子供のはなしかけたのですね。その時のやり取りがこちら。
え?普通だったら家族のことを心配する言葉を投げかけるよね?しかも、この子の両親は空襲で亡くなっているのですね。このやりとりを聞いている限りでは昭和天皇はサイコパスだなって思えます。
ただ、これも解釈次第なんですよね。「本があるなら、大丈夫だから、体に気を付けてがんばって」ってニュアンスともとれるのですよね。つまり、子供が厳しい社会を泳ぎ渡るにはやはり勉強しなきゃいけないって現実もあるんですね。昭和天皇陛下は、良くも悪くも現実主義者だったうえに、失礼ながら言葉足らずなとこ
ろがあったから、このやり取りも何ともいえないのですね。ただ、その子の家が焼けたのも昭和天皇の終戦の決断が遅れたことも理由なので、もう少し当事者意識を持っていただきたかったなあって。上皇様やいまの天皇陛下だったら、もっと優しい言葉を子供に投げかけていたろうなって。
5 戦争責任 言葉のアヤ
この昭和天皇の御言葉は昭和50年に日本記者クラブ主催の会見のもの。アメリカから帰国後すぐの会見で出た言葉。昭和天皇が訪米中、ホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という発言について記者が質問をして、その質問を受けての天皇の言葉。要するに戦争責任についてどう思われるかという事。僕は正直、逃げているなって印象です。はっきり言って。天皇に戦争責任が全くないかといえばウソになりますから。
昭和天皇の発せられた「言葉のアヤ」発言は、大きくマスコミに取り上げられることもなく、この発言を批判する識者もほとんどなかったのです。ただ、昭和天皇の発言に怒りを覚えた人も少なからずいたのです。たとえば詩人の茨木のり子は、このような詩をそのとき詠みました。
「四海波静」(1975年11月)より
茨木のり子も戦争でずいぶん苦労をされたのです。それなのに天皇は謝るどころか「言葉のアヤ」で片づけるとは何事かということでしょう。昭和天皇にはやはりあの場で謝罪の言葉を述べるべきかと思いつつも、昭和天皇があの場で戦争責任を謝罪したら、右翼や当時の保守系の政治家や言論人たちが黙っていなかったでしょうね。難しいところです。実際、今の上皇様が天皇をされていたころ「先の大戦に対する深い反省とともに」と述べられた時、一部の保守系の人間が批判しておりましたし。
6 戦争責任 つらい
昭和天皇は晩年、側近に「戦争責任を言われてつらい」ともらしたとか。昭和60年ごろから、識者や議員さんたちから、天皇の戦争責任を問う声が上がってきたのです。そんときに漏らしたのが、「つらい」発言。ただ、僕は「いわれてつらい」というのが気になりますね。「戦争責任を思うとつらい」ならわかりますが、「いわれて」というのが引っ掛かります。
本当につらい思いをしたのは、天皇の名において、あの戦争で苦しんだ国民だと思うのですが、その辺は昭和天皇はどうお考えなのだろう。
ざっと昭和天皇のお言葉を並べて、
伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番良いと思ふ。(中略)万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。
(1945年7月31日、本土決戦も覚悟しなくてはならなくなり、木戸内大臣に語った言葉。)
戦時で敗戦が濃厚になり、本土決戦が迫った時の昭和天皇の発言です。なんと国民の命より三種の神器のほうが大事って話なのです。ひどい話であります。そもそも三種の神器というものは、日本書紀にも古事記にも、皇位の象徴だと書かれていないんですね。また、三種の神器が古代からあったものではなく、壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水したときに草なぎの剣も一緒に海に沈んでしまったのです。つまり、いまある草なぎの剣はレプリカなんです。
三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統2600年有余年の象徴を失ふこととなり、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、そして之が護持のきわめて困難なることを想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。
国民の命を守るためではなく、三種の神器を守るために講和をしようというのです。それが事実なら昭和天皇はどうしようもないワルでしょう。ただ、昭和天皇が本当にこんなこと言ったのかよくわからんのです。それと昭和天皇が三種の神器ばかり心配し、国民のことを顧みていないといえば、そうでもありません。以下終戦間際の発言を。
皇室と人民と国土が残っておれば国家生存の根幹は残る。これ以上望みなき戦争を継続すれば元も子もなくなるおそれが多い。
自分としては国民をこれ以上苦しめることは到底しのびえない。また国土を焦土と化すことは、ご先祖に対して申し訳がない。(昭和20年8月の御前会議での発言)
あと、戦時中まで昭和天皇の執務室にはナポレオンの胸像があったが、玉音放送の当日、執務室にあったはずのナポレオン像がなくなり、ダーウィンの像が飾られていたなんてエピソードもあります。ナポレオンは軍事の象徴。もし、ナポレオンの像なんて飾っていたら自分がナポレオンにのっとり、軍隊を動かしていたことがばれる、だから昭和天皇はナポレオン像を隠したってウワサもありますが、あくまで、これもウワサ。
3 原子爆弾はやむをえない
原子爆弾が投下されたことに対してはいかんに思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っております。
(1975年の記者クラブの会見の際、原爆投下について質問をされたとき)
この原爆やむを得ない発言は、当時の人たちを失望させたのですね。もし、昭和天皇がマジで思っていたとしたら、相当なクズですね。ただ、この発言もアメリカに訪れ、アメリカから帰ってきて日が短いので、このような発言をした可能性もあるのです。
原爆投下は日本にとって災難のほか何物でもないのですが、アメリカにとっては戦争を終わらせたもの、原爆投下がなかったら日本軍は戦争をやめなかったという認識の人が多いのです。むしろ、日本人は日本軍の独裁政権から救ってあげたのだから感謝しろみたいな認識。まして戦後から30年くらいしかたっていないのであれば、いまよりもっとそういう認識の人が多かったはず。
そんな状況の中で天皇が原爆を批判するような発言をすれば、それはそれで国際問題になりかねません。昭和天皇はリアリストでアメリカとの同盟を非常に重要視していました。そこでアメリカを怒らせるのはまずいって計算が働いたのかもしれません。
4 勉強をしなさい
昭和天皇は先の戦争で空襲の被害にあった都市などを巡行したのですね。その時、ある子供のはなしかけたのですね。その時のやり取りがこちら。
天皇「家は焼かれなかったの?」
子供「はい、焼かれました」
天皇「えっ?本は大丈夫でしたか?よく勉強しなさいね」
え?普通だったら家族のことを心配する言葉を投げかけるよね?しかも、この子の両親は空襲で亡くなっているのですね。このやりとりを聞いている限りでは昭和天皇はサイコパスだなって思えます。
ただ、これも解釈次第なんですよね。「本があるなら、大丈夫だから、体に気を付けてがんばって」ってニュアンスともとれるのですよね。つまり、子供が厳しい社会を泳ぎ渡るにはやはり勉強しなきゃいけないって現実もあるんですね。昭和天皇陛下は、良くも悪くも現実主義者だったうえに、失礼ながら言葉足らずなとこ
ろがあったから、このやり取りも何ともいえないのですね。ただ、その子の家が焼けたのも昭和天皇の終戦の決断が遅れたことも理由なので、もう少し当事者意識を持っていただきたかったなあって。上皇様やいまの天皇陛下だったら、もっと優しい言葉を子供に投げかけていたろうなって。
5 戦争責任 言葉のアヤ
そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
この昭和天皇の御言葉は昭和50年に日本記者クラブ主催の会見のもの。アメリカから帰国後すぐの会見で出た言葉。昭和天皇が訪米中、ホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という発言について記者が質問をして、その質問を受けての天皇の言葉。要するに戦争責任についてどう思われるかという事。僕は正直、逃げているなって印象です。はっきり言って。天皇に戦争責任が全くないかといえばウソになりますから。
昭和天皇の発せられた「言葉のアヤ」発言は、大きくマスコミに取り上げられることもなく、この発言を批判する識者もほとんどなかったのです。ただ、昭和天皇の発言に怒りを覚えた人も少なからずいたのです。たとえば詩人の茨木のり子は、このような詩をそのとき詠みました。
戦争責任を問われて その人は言った(中略)
思わず笑いが込みあげて どす黒い笑い吐血のように 噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう 文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
「四海波静」(1975年11月)より
茨木のり子も戦争でずいぶん苦労をされたのです。それなのに天皇は謝るどころか「言葉のアヤ」で片づけるとは何事かということでしょう。昭和天皇にはやはりあの場で謝罪の言葉を述べるべきかと思いつつも、昭和天皇があの場で戦争責任を謝罪したら、右翼や当時の保守系の政治家や言論人たちが黙っていなかったでしょうね。難しいところです。実際、今の上皇様が天皇をされていたころ「先の大戦に対する深い反省とともに」と述べられた時、一部の保守系の人間が批判しておりましたし。
6 戦争責任 つらい
昭和天皇、戦争責任「つらい」 故小林忍侍従の日記|BIGLOBEニュース https://t.co/zyEPVcnEGU pic.twitter.com/P4rW8haWv6
— BIGLOBEニュース (@shunkannews) August 23, 2018
昭和天皇は晩年、側近に「戦争責任を言われてつらい」ともらしたとか。昭和60年ごろから、識者や議員さんたちから、天皇の戦争責任を問う声が上がってきたのです。そんときに漏らしたのが、「つらい」発言。ただ、僕は「いわれてつらい」というのが気になりますね。「戦争責任を思うとつらい」ならわかりますが、「いわれて」というのが引っ掛かります。
本当につらい思いをしたのは、天皇の名において、あの戦争で苦しんだ国民だと思うのですが、その辺は昭和天皇はどうお考えなのだろう。
ざっと昭和天皇のお言葉を並べて、
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