(この記事は2023年4月8日に加筆修正しました)
マッカーサーは日本の原爆投下を反対していたといいます。そもそも、マッカーサーは原爆の開発計画すら知らされていたなかったのです。1945年の7月25日付(原爆)投下命令書のコピーが届けられ始めて知ったといいます。

戦後、広島で原爆投下2周年記念日に慰霊祭イレイサイが行われましたが、マッカーサーはメッセージを送ったといいます。

そのヒロシマの教訓をマッカーサーは以下のように述べております。

「それは戦争の破壊性を助長ジョチョウするために、自然力を利用することはますます進歩して、ついには人類を絶滅し、現代世界の物質的構造物を破壊するような手段が、手近に与えられるまでに発達するだろうという警告である」(『中国新聞』)



原爆を使うことは、人類滅亡につながるとマッカーサーは警告したのですね。

ところが、朝鮮半島で戦争が起こり、戦争が泥沼化どろぬまかするとマッカーサーの態度は一変。中国の義勇軍が北朝鮮側に味方したことで、国連軍側(アメリカ、韓国側)が劣勢に立たされてしたまったのです。それに対してマッカーサーは激怒。はじめは国連軍側が圧倒的に優勢で、中国と朝鮮半島との国境近くまで迫ったのです。マッカーサーは国連軍の兵士たちに「クリスマスには帰れる」って励ましたほど。しかし、それが中国の全面的な協力で無になってしまったのです。

彼は原爆使用と中国本土への軍事作戦を含む全面戦争の戦略を強く押し出し、ついにトルーマン大統領に解任させられてしまいます。「クリスマスまでには帰れる」と断言したマッカーサーのプライドはズタズタに傷つけられたのです。マッカーサーは北朝鮮や中国をぎゃふんといわせようと考えたのでしょうね。1950年のクリスマスイブにマッカーサーは機密の無線をワシントンに送りました。原爆を中国や北朝鮮に投下してほしいという内容で、実際に原爆を落とす都市のリストまで書かれていたのです。北京や大連など中国の都市だけでなくウラジオストックやナホトカとかソ連の都市まで、その年のリストに書かれていたのです。

また、マッカーサーは、1954年1月にあるジャーナリストに非公開を条件に「朝鮮戦争に10日間で勝つ方法」を語ったといいます。曰く、

「朝鮮北部に30発から50発の原爆を投下して敵の空軍を一掃いっそうし、ついで米海兵二個師団で増強された蒋介石ショウカイセキ50万を台湾タイワンから送り込む。さらに放射性コンバルトを日本海から黄黄海コウカイまで敵の主要補給戦にばらまき、朝鮮を中国東北部(かつての満州あたり)から遮断シャダンする」


というものでした。落とす原爆の数がハンパないですね。3発から5発の間違いじゃないかって。もし、マッカーサーが本当に原爆を中国や朝鮮半島に原発を落としていたら、犠牲者も多く出たであろうし、それこそ第三次世界大戦の危機に直面したかもしれない。恐ろしいですね。でも原爆投下によって第三次世界大戦の危機が訪れたとしても、そんなの関係ねえ!って感じだったようです。

第三次世界大戦になることを恐れたトルーマン大統領はマッカーサーをすべての職を解任。これによってマッカーサーは日本を去ることになりました。帰国するマッカーサーを当時の多くの日本人たちは見送りました。当時の日本人はマッカーサーは軍国主義から救ってくれた平和主義者のイメージがあったのですが、まさか彼が中国に原爆を落とそうと考えていたとは知る由もありません。マッカーサーはアメリカでも当時、非常に人気が高く太平洋戦争の英雄だとみなされていました。マッカーサーをクビにしたトルーマン大統領の人気は急落。トルーマンは民主党の所属でもありましたから、民主党の支持率も低下。それが、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハワー大統領が当選につながったのです。

もっともマッカーサーのインタビューは彼が死後公開され、話題になり、マッカーサーの名声は失墜シッツイしたとか。




最後に1951年のマッカーサーの退任演説の一部を引用します。

わたしはいま生きている誰よりも戦争については知っています。私にとってはこれほど嫌悪すべきものはほかにありません。しかし、いったん戦争が我々に押し付けられれば、これを迅速に終わらせるためには使えるすべての手段を使う以外に選択肢はありません。


そして、マッカーサーは有名な言葉で締めくくります。

老兵は死なず ただ消え去るのみ


* 参考文献
図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01



あと「映像の世紀」も参考にしました