1 病気になった工女さん

 富岡製糸場の繰糸場の中は、顔が見えなくなるほど蒸気が立ち込め、蒸気の音もすさまじく、大変蒸し暑く、冷房もありません。しかも労働時間は官営時代でさえ8時間弱。だから、病気になる工女さんも多かったのです。特に夏になると、病人が増えたのです。



ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気かっけ(※1)だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。(略)



その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では お雪さんと申されまして、耶蘇やそ(※2)の伝道師になって居らるるように承りました


『富岡日記』P46〜P49まで



幸い、河原鶴子は一命をとりとめましたが、そのまま亡くなった工女さんも少なくないのです。官営時代に亡くなった工女さんの数は52人。意外と多いです。そのうち15歳以下で亡くなった工女さんが4人いたというからかわいそうだなって。医師が工場内に常にいて、健康管理に気を付けていた官営時代でさえ死者がでたのに、労働時間が長くなり、医師も工場内にいなくなった民営化時代は、官営時代のそれよりも多かったのではないかと。


2 工女さんがねむるお寺

富岡製糸場とみおかせしじょうの近くに龍光寺りゅうこうじというお寺があります。このお寺には工女さんのお墓があります。明治6年(官営時代)から明治34年(民営化後)の28年間の間に、60人もの工女さんが亡くなり、その60人のお墓が、ここ龍光寺と海源寺かいげんじというお寺にあるそうです。



ここ龍光寺には工女さんのお墓が30ほどありまして、お墓に埋葬まいそうされているのは工女さんたちだけでなく、製糸場の役人などもいるそうです。また、明治26年の民営化の際、当時の所長が建立した連名のお墓もあります。

で、工女さん達のお墓は、思っていたより質素だなあって思いました。コケがはえている墓もありました。墓が古いから仕方がないといえば仕方がないのですが、なんかむなしいなって。




3 かわいそうな工女さんたちのこと


 3年位前に富岡にいったのですが、その際、工女さんたちをなぐさめるために、お墓にお線香とお花をささげました。墓を見て虚しい気持ちになりましたね。国の繁栄はんえいのために必死に働いて、亡くなったら小さなお墓に入れられて、雨ざらしにされ、しかも墓にコケが生えるような有様ではかわいそうだなっておもいました。


掃除もしたかったが、お墓も古くて、ちょっと触っただけで崩れそうな感じです。かといって、お墓をきれいに作り直すのは大変ですし、お金もかかるし。

ちなみにこのお寺の参拝客は僕のほかにもいらして、初老の男性が線香を上げてました。お参りしてくださる方も少なくないようで、救われた気分になりました。


最後に富岡製糸所で初期に亡くなった工女さんである照井多計の辞世の歌をご紹介します。



「夏の夜の 夢路をさそう時鳥 我が名をあげて 雲の上まで」



この辞世の句は照井多計の墓に刻まれているそうですが、長い年月が経っているため読めなくなっているとのこと。
照井多計は岩手の出身で21歳で異郷の地で亡くなったのですね。彼女はどんな思いでこの辞世の句を詠んだのでしょう。


※1 ビタミンB1の欠乏のために、末梢(まっしょう)神経がおかされ、足がしびれたりむくんだりする症状。下手すると死亡する。明治のころは不治の病と恐れられていた

※2 キリスト教徒のこと


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(龍光寺の入口)

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(説明版)



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工女さんのお墓たち。本当はお墓の写真なんてとるのは趣味じゃないのですが



※ 参考文献及びサイト