(この記事は2021年8月11日に加筆修正しました)
1 慶長三陸地震
2011年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災。東北地方(特に宮城県)で震災が起きたのは今回が初めてではありません。以前の記事でも取り上げました貞観地震もそうですが、慶長年間(1596年〜1615年)にも東北に震災が起こったのです。
ときは1611年(慶長16年)12月2日。東北三陸地方に震災が起きました。いわゆる、慶長三陸地震。ウィキペディアでこの地震の震度を調べてみたら、震度5とおもっていたよりもひどくは無いのですね。(マグニチュードは8.1)
しかし、この地震の影響で津波が起きて、東北地方のあちこちで被害があったといいます。なんでも、朝からたびたび地震があり、大きな地震がドカンときた直後に山のように大きい津波がおしよせ、川をさかのぼり、匹そいで木や家々を連れ去ったといいます。死者、被害家屋かおく 多数。家だけでなく、田畑も津波に飲まれたそうです。かなり広い範囲で津波が浸水したのです。なんでも、当時の海岸より一里(約4km)内陸にある宮城県岩沼市いわぬまし の阿武隈川あぶくまがわ 沿いにある千貫山せんがんやま ,/ruby>の麓ふもと まで船が流された記録があるとか。そうとう内陸まで津波が押し寄せたのですね。記録によると南部藩領土は約3000人、伊達藩領では1783人の被害者があったそうです。
この地震が起こる前にイスパニアの探検家のセバスチャン・ビスカイノが日本に訪れ、1611年(慶長16年)の11月10日に伊達政宗だてまさむね に謁見えっけん しているのですね。政宗はイスパニア国王とも親交を結びたいと話、刀や衣服、銀20枚などを贈り、旅行に必要な食糧や馬や船なども用意したといいます。ビスカイノは15日に仙台を立ち、船に乗って仙台藩の北部沿岸の測量を始めました。船で石巻や気仙沼、それから越前高田を経て、12月2日に大船渡に上陸しようとしたら、陸に近づくと、住民たちは村を捨てて山に逃げたのですね。ビスカイノは住民たちはなんで逃げるのだろうと不審に思っていたのですが、やがてその意味がわかったのですね。この日の震災による津波が押し寄せたのですね。幸い、ビスカイノの乗っていた船は助かったのですが。そして、ビスカイノは慶長遣欧使節団けいちょうけんおうしせつだん の船に同乗し、無事帰国できました。慶長遣欧使節団の話は次回します。
2 会津でも起こった地震
ちなみに、この慶長三陸沖地震の前震とみられるのが、やはり1611年8月21日に発生した慶長会津地震です。推定マグニチュード6・9ながら、内陸部の比較的浅い場所が震源だったため、こちらのほうが被害が大きかったそうです。そのため震源の会津一帯で山崩くず れが多発。現在の喜多方きたかた 市周辺でも土砂災害によって川がせき止められ、山崎新湖ができたというほど。会津の鶴ヶ城つるがじょう の石垣もくずれ、天守も傾いたそうです。死者も3700人もでて、会津藩の領内の家屋が二万戸以上壊れたといいます。この震災があったころの会津藩の藩主だった蒲生秀行がもうひでゆき はこの地震を「酒におぼれたり、神仏をバカにするなど私の愚行ぐこう が原因だった」と責任を感じたそうです。秀行はもともと病弱なうえに、いろいろ心労がたたり、地震の翌年、31歳で他界しました。

(鶴ヶ城)
3 震災の教訓
この慶長地震の教訓から、人々は街道と宿場町の整備をおこなったといいます。街道も慶長地震の時の津波が来なかったところにつくられたそうです。それで、今回の東日本大震災で仙台平野は津波で大きな被害を受けましたが、津波の浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まったのですね。歴史に学ぶって大事だなって。
仙台藩を治めていた伊達政宗はどうしたのでしょう?
津波のために田畑がダメになりましたが、それでも政宗がめげないのはすごいところ。なんと彼は、津波で浸水した田畑を塩田にしました。長州より川村孫兵衛カワムラマゴベエ という技術者を連れてきて、塩田造りにあたったのです。塩で苦しめられる土地であれば逆に塩を生産してしまえば良いと。そうやって造られた、この塩は仙台藩の主要な産業の一つとなりました。仙台周辺には、「塩」や「釜」がつく地名が沿岸部に沢山ありますが、塩田がそれだけ多かったのでしょうね。
津波で被害にあった地域の新田開発を行い、復興を進めていったそうです。伊達政宗が積極的に新田開発を行った結果、政宗の領地から米が沢山取れるようになり、江戸のお米の3分の1を供給下ともいわれています。津波の被害が大きくても、はやい復興ができたのも伊達政宗のリーダーシップによるものも大きいとおもわれます。また、東北地域の人々の粘り強さもすごいなあって。
※ 参考文献
また、NHKの「歴史探偵」や「英雄たちの選択」も参考にしました。
1 慶長三陸地震
2011年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災。東北地方(特に宮城県)で震災が起きたのは今回が初めてではありません。以前の記事でも取り上げました貞観地震もそうですが、慶長年間(1596年〜1615年)にも東北に震災が起こったのです。
ときは1611年(慶長16年)12月2日。東北三陸地方に震災が起きました。いわゆる、慶長三陸地震。ウィキペディアでこの地震の震度を調べてみたら、震度5とおもっていたよりもひどくは無いのですね。(マグニチュードは8.1)
しかし、この地震の影響で津波が起きて、東北地方のあちこちで被害があったといいます。なんでも、朝からたびたび地震があり、大きな地震がドカンときた直後に山のように大きい津波がおしよせ、川をさかのぼり、匹そいで木や家々を連れ去ったといいます。死者、被害家屋
この地震が起こる前にイスパニアの探検家のセバスチャン・ビスカイノが日本に訪れ、1611年(慶長16年)の11月10日に伊達政宗
2 会津でも起こった地震
ちなみに、この慶長三陸沖地震の前震とみられるのが、やはり1611年8月21日に発生した慶長会津地震です。推定マグニチュード6・9ながら、内陸部の比較的浅い場所が震源だったため、こちらのほうが被害が大きかったそうです。そのため震源の会津一帯で山崩
(鶴ヶ城)
3 震災の教訓
この慶長地震の教訓から、人々は街道と宿場町の整備をおこなったといいます。街道も慶長地震の時の津波が来なかったところにつくられたそうです。それで、今回の東日本大震災で仙台平野は津波で大きな被害を受けましたが、津波の浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まったのですね。歴史に学ぶって大事だなって。
仙台藩を治めていた伊達政宗はどうしたのでしょう?
津波のために田畑がダメになりましたが、それでも政宗がめげないのはすごいところ。なんと彼は、津波で浸水した田畑を塩田にしました。長州より川村孫兵衛
津波で被害にあった地域の新田開発を行い、復興を進めていったそうです。伊達政宗が積極的に新田開発を行った結果、政宗の領地から米が沢山取れるようになり、江戸のお米の3分の1を供給下ともいわれています。津波の被害が大きくても、はやい復興ができたのも伊達政宗のリーダーシップによるものも大きいとおもわれます。また、東北地域の人々の粘り強さもすごいなあって。
※ 参考文献
また、NHKの「歴史探偵」や「英雄たちの選択」も参考にしました。



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