(この記事は2022年6月5日に加筆修正しました)
天安門事件のは改革派の指導者だった胡耀邦総書記が亡くなり、胡耀邦の追悼をきっかけに、北京の天安門広場にあつまった数万の学生たちが「独裁打倒、官僚主義反対」をさけびました。そして大規模なデモに発展しました。すると、共産党は、こうした事態が全国に広がることを恐れて、「深刻な政治闘争」、「動乱」として徹底的に弾圧することを決めました。それは二週間ほど続き、人民解放軍は民主化を要求する学生や市民たちに発砲をしたのです。人民を守るはずの人民解放軍が罪のない市民に銃口を向けたのです。
当時中学生だった僕もこの事件はショックでしたね。 そもそも、学生や市民たちは一昔前の学生運動みたいに火炎ビンをもって暴れたりしませんでした。むしろ穏健なデモでした。デモに参加した若者たちはテレサ・テンさんの「月亮代表我的心」を歌ったと。まるでデモというよりキャンプに来たようだったと当時の若者が語るほど。 そんな中、5月27日に香港のハッピーヴァレー競馬場で中国の民主化を支援するコンサートが開かれました。ジャッキー・チェンも出演するなど豪華な顔ぶれでした。そのコンサートには30万人もの市民がつめかけました。そこにテレサさんも出演されました。テレサさんは「民主万歳」と書いたハチマキをしめ、表には「反対軍管」、裏には「我愛民主」と書かれたゼッケンを身に着けておりました。あとサングラスもかけていました。中国での不穏な動きにテレサさんは泣き濡れたと言います。その泣き濡れた目を隠すためにサングラスをしていたのです。 軍事独裁を許さない、私は民主主義を愛するというテレサさんの強い意志が伝わります。
テレサさんはマジで中国の民主化を願っていたのですね。実際、テレサさんは「歌で中国人の心をひとつにしたいんです」と親しい知人に語られていたそうですから。
その時テレサさんが歌ったのが「私の家は山の向こう」でした。この歌は戦時中、抗日歌曲である「松花江上」という歌をもとに、大陸から台湾に逃げてきた兵士たちが1960年代に歌詞をかえて歌った歌でした。このコンサートには2億円の寄付金が集まったと言います。 僕はテレサさんというと穏やかなイメージしかなかったのですが、ここまで強い人で政治色の強い方だったとは思いませんでした。 しかしテレサさんの願いも虚しく中国政府は戒厳令を出し、25万もの人民解放軍を北京に集結。そして6月4日、事件は起こったのです。 装甲車が市民をひき殺したことで、大きな動乱になったのです。その犠牲者は中国当局の発表では三百十九人。しかし実際は千人は軽く超え、下手すれば一万人も超えるのではないかとも言われております。デモに参加した人は逮捕され、20年も拘束された人もいるほど。 テレサさんは天安門事件のことで、ひどく心を痛めておりました。テレサさんは中国の民主化をかねてから願っておりました。しかし、香港が1997年に中国に返還されたとしても、香港で政府による弾圧が起こるかもわからない。果たして香港返還は、香港で暮らしている人々にとって果たして幸せなことなのか?そんなことがテレサさんの脳裏に浮かんだのかもしれない。 この時、テレサさんはインタビューで「わたしチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活しても私はチャイニーズです。だから今年の中国の出来事(天安門事件)全てに私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。私は自由でいたい。そして全ての人が移住であるべきだと思っています。それが脅かされているのが、とても悲しいです。でもこの悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰でもきっと分かり合える。その日が来ることを信じて、私は歌っていきます。」と答えていたそうです。 その後、テレサさんは香港を去り、フランスのパリに移住をします。まさにテレサ・テンさんの歌の「香港」の歌詞のとおり、銀色の翼にのって異国に旅立ったのですね。 そしてフランスに移り住んだテレサさんですが、そこで、フランス人男性出会います。彼とは亡くなるまで交際を続けたといいます。もちろん二人は価値観や生活習慣の違いからしばしばケンカもしたそうです。が、ケンカするほど仲が良いという事か、二人の関係はテレサさんがなくなるまで続きました。
まもなくテレサさんはタイのチェンマイで生活するようになります。1993年には「あなたと共に生きてゆく」をリリースします。この歌の作詞はZARDの坂井泉水さん、作曲は織田哲郎さんという豪華なメンバーです。ヒットしませんでしたが、とてもいい歌です。この曲はテレサさんのオリジナル楽曲としては生前最後のシングルとなりました。
そして、テレサさんも次第に体調をくずし、この歌をリリースした2年後の1995年5月8日にテレサ・テンんさんはなくなります。42歳の若さでした。テレサさんの死は多くの人に衝撃を与えました。テレサさんの死は世界中で報じられ、一時はテレサさんの歌声を禁じた中国のマスコミでも大きく取り上げられ、北京大学でもテレサさんを追悼する看板が立てられたそうです。 台湾でも日本でいう国民栄誉賞のような賞が与えられました。芸能人でこの賞を授与されたのはテレサさんがはじめてだそうです。波乱に満ちた人生でしたが、彼女が残した歌は今も多くの人々に親しまれております。最後にテレサさんの言葉を。 「初めて人前で歌った時、とても楽しかったです。賞金とかご褒美とかそういうのではないんです。歌うのが好きだったから。自分のために歌っただけです。歌えるだけで幸せだったんです。」
※ 参考文献
「映像の世紀 バタフライ・エフェクト」(NHK)
当時中学生だった僕もこの事件はショックでしたね。 そもそも、学生や市民たちは一昔前の学生運動みたいに火炎ビンをもって暴れたりしませんでした。むしろ穏健なデモでした。デモに参加した若者たちはテレサ・テンさんの「月亮代表我的心」を歌ったと。まるでデモというよりキャンプに来たようだったと当時の若者が語るほど。 そんな中、5月27日に香港のハッピーヴァレー競馬場で中国の民主化を支援するコンサートが開かれました。ジャッキー・チェンも出演するなど豪華な顔ぶれでした。そのコンサートには30万人もの市民がつめかけました。そこにテレサさんも出演されました。テレサさんは「民主万歳」と書いたハチマキをしめ、表には「反対軍管」、裏には「我愛民主」と書かれたゼッケンを身に着けておりました。あとサングラスもかけていました。中国での不穏な動きにテレサさんは泣き濡れたと言います。その泣き濡れた目を隠すためにサングラスをしていたのです。 軍事独裁を許さない、私は民主主義を愛するというテレサさんの強い意志が伝わります。
テレサさんはマジで中国の民主化を願っていたのですね。実際、テレサさんは「歌で中国人の心をひとつにしたいんです」と親しい知人に語られていたそうですから。
その時テレサさんが歌ったのが「私の家は山の向こう」でした。この歌は戦時中、抗日歌曲である「松花江上」という歌をもとに、大陸から台湾に逃げてきた兵士たちが1960年代に歌詞をかえて歌った歌でした。このコンサートには2億円の寄付金が集まったと言います。 僕はテレサさんというと穏やかなイメージしかなかったのですが、ここまで強い人で政治色の強い方だったとは思いませんでした。 しかしテレサさんの願いも虚しく中国政府は戒厳令を出し、25万もの人民解放軍を北京に集結。そして6月4日、事件は起こったのです。 装甲車が市民をひき殺したことで、大きな動乱になったのです。その犠牲者は中国当局の発表では三百十九人。しかし実際は千人は軽く超え、下手すれば一万人も超えるのではないかとも言われております。デモに参加した人は逮捕され、20年も拘束された人もいるほど。 テレサさんは天安門事件のことで、ひどく心を痛めておりました。テレサさんは中国の民主化をかねてから願っておりました。しかし、香港が1997年に中国に返還されたとしても、香港で政府による弾圧が起こるかもわからない。果たして香港返還は、香港で暮らしている人々にとって果たして幸せなことなのか?そんなことがテレサさんの脳裏に浮かんだのかもしれない。 この時、テレサさんはインタビューで「わたしチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活しても私はチャイニーズです。だから今年の中国の出来事(天安門事件)全てに私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。私は自由でいたい。そして全ての人が移住であるべきだと思っています。それが脅かされているのが、とても悲しいです。でもこの悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰でもきっと分かり合える。その日が来ることを信じて、私は歌っていきます。」と答えていたそうです。 その後、テレサさんは香港を去り、フランスのパリに移住をします。まさにテレサ・テンさんの歌の「香港」の歌詞のとおり、銀色の翼にのって異国に旅立ったのですね。 そしてフランスに移り住んだテレサさんですが、そこで、フランス人男性出会います。彼とは亡くなるまで交際を続けたといいます。もちろん二人は価値観や生活習慣の違いからしばしばケンカもしたそうです。が、ケンカするほど仲が良いという事か、二人の関係はテレサさんがなくなるまで続きました。
まもなくテレサさんはタイのチェンマイで生活するようになります。1993年には「あなたと共に生きてゆく」をリリースします。この歌の作詞はZARDの坂井泉水さん、作曲は織田哲郎さんという豪華なメンバーです。ヒットしませんでしたが、とてもいい歌です。この曲はテレサさんのオリジナル楽曲としては生前最後のシングルとなりました。
そして、テレサさんも次第に体調をくずし、この歌をリリースした2年後の1995年5月8日にテレサ・テンんさんはなくなります。42歳の若さでした。テレサさんの死は多くの人に衝撃を与えました。テレサさんの死は世界中で報じられ、一時はテレサさんの歌声を禁じた中国のマスコミでも大きく取り上げられ、北京大学でもテレサさんを追悼する看板が立てられたそうです。 台湾でも日本でいう国民栄誉賞のような賞が与えられました。芸能人でこの賞を授与されたのはテレサさんがはじめてだそうです。波乱に満ちた人生でしたが、彼女が残した歌は今も多くの人々に親しまれております。最後にテレサさんの言葉を。 「初めて人前で歌った時、とても楽しかったです。賞金とかご褒美とかそういうのではないんです。歌うのが好きだったから。自分のために歌っただけです。歌えるだけで幸せだったんです。」
※ 参考文献



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