今日から2回にわたって飯沼貞吉(いいぬまさだきち)について取り上げます。飯沼貞吉は白虎隊びゃっこたいの生き残りで、昭和のはじめまで存命ぞんめいでした。彼は飯盛山いいもりやま自刃じじんしたのですが、運よく助かったのです。




1 出陣命令が下って

 慶応けいおう4年(1868年)8月22日の朝早くに、白虎隊士中二番隊びゃっこたいしちゅうにばんたい、飯沼貞吉のもとに出陣命令しゅつじんめいれいが届きました。

閑話休題、白虎隊士中二番隊という言葉がでてきましたね。それについてご説明します。白虎隊というと飯盛山で亡くなった19人だけかと思われますが、実際の白虎隊の人数は300人ほどいて、士中しちゅう寄合よりあい足軽あしがると身分によって3つのパートに分かれていました。さらにそれぞれが一番隊、二番隊と二つのグループに分かれていた。ちなみに士中とはシチューのことではなくw、単独で主君にお目見えができるさむらいのことです。


お話を戻します。飯沼はこのとき15才でした。実は白虎隊は16才以上じゃないとはいれないのです。けれど、主君への忠誠心があつい飯沼は年齢 ねんれいいつわって入隊したのです。 飯沼は、出陣の様子をこのように伝えたようです。

「白虎隊は、主君へのために命を捨てる覚悟かくごを決め、勇気凛々威風堂々ゆうきりんりんいふうどうどう鶴ケ城つるがじょうを後にした」

出陣の際、飯沼の母親は戦いに行こうとするわが子に短冊たんざくわたしました。え?その短冊には何と書いてあったかって?それは後ほど。

2  食べ物などを置いてしまった
 その日(8月22日)のお昼のこと。白虎隊たちが、会津あいづ鶴ケ城つるがじょうから、 官軍たちが待ち構えている猪苗代湖いなわしろこへ向かう途中とちゅう、将校が白虎隊隊士に携帯品けいたいひん(食べ物など)を茶屋にあず1けるように命じたのです。 身軽になって、一刻いっこくもはやく戦場にけつけるためだと思われます。

しかし、このことがのちに白虎隊たちを窮地きゅうちおとしいれるのです・・・

腹が減っては戦ができぬといいますが、戦争において十分な食糧を常備するのは当然のことです。たとえば戦国時代の加藤清正は米3升に味噌ミソ、銀銭300文を腰につけていたといいます。白虎隊の将校が、兵法の基本を知っていれば、あの悲劇はまぬがれていたかもしれない・・・


3 日向内記(ひゅうがないき)と別れる

 午後4時ごろに白虎隊たちは鶴ケ城から東へ8キロはなれた戸ノ口が原とのくちがはら猪苗代湖いなわしろこのほとりにある)に到着しました。そこでは、白虎隊より早く出撃しゅつげきしていた会津藩と、官軍がはげしく争っていました。

白虎隊たちも参戦しました。戦いの最中に雨もりだしました。あたりも暗くなっていきました。会津軍の指揮官の日向内記(ひゅうがないき)は、「その場で待っていろ」を命じたそうです。日向内記は白虎隊たちからはなれていったのです。白虎隊から離れた日向内記はそのまま白虎隊の元に戻ることはなかったそうです。食料を調達するためとも、軍議ぐんぎに参加するためだとも言われております。

よく、日向は自分だけげるために、白虎隊を置き去りにしたともいわれていますが、そんなことはありません。白虎隊士中二番隊は日向内記がもどってくるまで待っていました。

冷たい雨がそそぐぐなか、白虎隊は日向内記を待ち続けました。白虎隊たちは、寒さにふるえていました。しかも腹ペコだったから、なおさら寒さにこたえたことでしょう。 茶屋で食べ物を預けたのがあだとなったのですね・・・

指揮官が不在というのは、10代の白虎隊士にとっては不安でいっぱいです。自分達の近くには敵がいっぱいいるのに、どうすることもできない状況じょうきょう。それにペコの苦しさ。続きはまた次回。