※ 参考文献









広島に原ばくが落ちたのが昭和20年8月6日、8時15分だといわれております。8時16分だという説もありますが、いづれにしても、朝っぱらであることはまちがいありません。

8時15分前の広島の様子は、「原爆の子」という本によると平和そのものだったそうです。外で川に泳ぎに行ったり、おばあちゃんとお寺参りをしたり、部屋でのんびりとていたり、そんな感じだったようです。


そんな戦時中とは思えぬようなのんびりとした光景が、8時15分後に地獄(じごく)の光景にかわってしまうとは、当時の広島の人たちは夢にもおもわなかったことでしょう。

とはいいましても、昭和19年以降にちょこちょこと空しゅうがあったようです。また、8月5日の深夜に空しゅう警報けいほうがありました。ただし、このときはどういうわけか、空爆くうばくはなかったようです。



夜中に空しゅう警報けいほうがあったので、市民は深夜にもかかわらず、防空壕ぼうくうごう逃>げ込んだといいます。そんなこともあって寝不足ねぶそくの市民もいたようです。

そして、夜が明けた午前7時ごろには、今度は警戒警報けいかいけいほうがなります。

その当時の様子を『原爆の子』(げんばくのこ)にのっている女の子の作文から引用します。



私は八月五日の晩のく空しゅうでぼうくうごうに入ったまま、朝になるのをまっていました。いよいよ朝になっても、空しゅうはやみません。(略)すると、けいかいけいほうになったので、すぐぼうくうごうから出て家に帰りました。



警戒警報けいかいけいほうのサイレンがなったので、すぐいつものように防空壕ぼうくうごうに入っていたら、まもなく警戒警報けいかいけいほう解除になり、僕は防空ずきんを放り投げて遊びにでかけた。


ところで、文中に警戒警報けいかいけいほうと空しゅう警報いう言葉が出てきますが、両者はそれぞれちがうようですね。調べによりますと、敵の航空機が近づくと、警戒警報が出るそうですね。それで、空しゅうのキケンが予想されると空しゅう警報が発令されるそうです。

空しゅう警報は危険度が高く、警戒警報のほうが危険度が低いということですね。

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/testimony/02_1words/testimo02_1_05.html#(参考サイト)

警報が解除されたので、広島の人々は安心して防空壕ぼうくうごうの外に出て行ってしまったのですね。もし、警報が解除されなかったら、防空壕ぼうくうごうの中にいた人たちは助かったかもしれません。



そして、8時15分。運命の時間がやってきます・・・





昭和20年(1945年)、8月6日の8時15分(16分の説もあり)、原ばくが広島に投下されました。

まずは原ばく投下について語られている動画をどうぞ。



こんなに恐ろしい兵器を人間がつくってしまったのかと、僕は動画をみてぞっとしました。それにしても動画に出てくるエノラゲイの機長の「ほっとしたよ」の一言、ひどいなあと思いました。

自分の子どもが被ばくをしたらどんな気分だと聞きたくなります。

一方で、エノラゲイに乗っていたひとりの元乗組員の悲しげな表情で原ばく投下の気持ちを語っていたのも印象に残りました。

この一発の爆弾ばくだんは多くの人を不幸にさせました。

8時15分に、「ばーん」というとても大きな音とともに、白い光がぴかっと光り、青い植木の色もかれたような色になったといいます。

そして、一瞬(いっしゅん)にして家やたてものをこわしてしまいました。爆風ばくふうで家の下じぎになった人、ガラスの破片が体につきささった人、皮ふが熱線でとけて、その皮ふがたれさがってしまった人、水をもとめてさまよう人、まさに地獄じごくの光景だったといいます・・・



(原ばくが落とされたあとの光景。広島だけでなく長崎の光景も映っております)


親が原ばくで亡くなってしまったかわいそうな子どもたちもたくさんいました。次回はそんな子どもたちについてふれます。