(この記事は2021年12月5日に加筆修正をしました)
(シカと野口英世、恩師小林先生のレリーフ)
野口英世(1876年11月9日 - 1928年5月21日)は、とても有名な人です。野口英世の功績といえば。
千円札の肖像画になった。
たしかにそれも功績の一つかもしれませんがw彼は黄熱病や梅毒等の研究をして、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったそうです。野口英世もえらいけれど、野口英世を育てた母シカは、それ以上にエラいと思います。
シカの愛がなければ、野口英世はあそこまでビックにならなかったかもしれません。それどころか、息子の野口英世のほうは、あちこち人に金を借りまくったり、アメリカ留学の渡航費用やロックフェラーからの研究資金を遊郭でのバカ騒ぎで使いまくったとか浪費癖があったのです。
ビッグになるためには本人の努力が大事なのはいうまでもありませんが、それだけでは非常に難しいのですね。英世は努力もしたけれど、運も強かった。よく努力すれば必ず成功するなんて話を聞きますが、必ずしもそうとはいえないのです。本人の努力も大事だが、運や人の助けも必要なのですね。
プロ野球でも、監督の就任した時期が悪くて、ダメ監督と罵られ退陣した話はよくあります。例えば前の監督の無茶な選手起用で主力の選手たちがボロボロになり、しかもフロントは補強に動いてくれず。今の監督が一生懸命頑張っても、そんな状況じゃ成績なんて残せるわけがない。前の監督やフロントが悪いのであって監督のせいじゃないですよね。
英世は、助けてもらったり、見守ってくれた人が母のシカをはじめたくさんいたことが大きかった。
野口英世は、幼少のころは清作と呼ばれておりました。母が清作を1人残し農作業で家を開けていた頃、まだ赤ん坊の清作が囲炉裏の中に落ちてしまい、左手のヤケドをしてしまいます。
激しく泣き叫ぶ清作の声を聞いた、シカはあわてて清作のところにかけつけました。必死で看病しますが、近くに医者がなくどうすることもできませんでした。
やけどした左手の5本の指がくっついてしまい、農作業が出来ない手になってしまいました。わが子がそんな風になったのは自分の不注意だと、母シカは自分を責めていたのです。野口英世の父親は仕事で家を空ける事が多く、シカも農作業で忙しい、いわば共働きでした。
このころの日本は、今みたいに保育園もベビーシッターも普及していなかった時代でしたから、子供の面倒をみながら働くのは大変だと思うのです。「シカもそんなに自分を責めなくてともいいのになァ
」と僕は思いました。
清作は、手のことで小学校では「てんぼう、てんぼう」といじめられては、泣きながら家に帰ったそうです。そんな清作を必死にシカはなぐさめたのです。しかし、英世はガンバリ屋さんで、いじめられても、学内でトップの成績をとり賞までもらったのです。
また、シカはわが子の幸せを願って、観音様に祈りもささげたとの事です。
清作が13歳になった頃、高等小学校に進学することを夢見ます。しかし、高等小学校に行くには学費がかかります。野口家の家計も豊とはいえず、自分で働くにしても左手がネックでした。そんなとき、猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄先生に優秀な成績を認められ、小林先生のはたらきかけで猪苗代高等小学校に入学できました。
小林先生は卒業まで学費の援助をしてくれたのです。卒業後も清作と家族の世話を続けたそうです。小林先生は清作(野口英世)にとって、まさに生涯の恩師だったのですね。
しかし、清作の左手のコンプレックスは消えませんでした。ある作文の授業で、清作はこのようにつづりました。
「鉛筆をけずることができない」
「弁当箱を開けるのも容易じゃない」
「ナイフで癒着した指を切り離そうとした。」
この作文を見た同級生たちは驚き、なんとか清作を助けようとカンパをしたそうです。小林先生を中心に先生たちもカンパをしました。そのお陰で清作のもとに十円のお金が集まりました。その十円を使い、清作は、猪苗代で開業していた医者の所で手術をしました。左手は完全には治らなかったのですが、清作は医学のすばらしさを知りました。医学のおかげで体だけでなく、長年のコンプレックスも克服できたのです。
それから、清作は英世と名乗り医学の道へと進んでいき、活動の場を海外に移していきます。
続きの記事
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2038597.html

(野口英世の母が毎月一回おとずれたといわれている中田観音)
*参考にしたもの
「THE歴史列伝」
(シカと野口英世、恩師小林先生のレリーフ)
野口英世(1876年11月9日 - 1928年5月21日)は、とても有名な人です。野口英世の功績といえば。
千円札の肖像画になった。
たしかにそれも功績の一つかもしれませんがw彼は黄熱病や梅毒等の研究をして、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったそうです。野口英世もえらいけれど、野口英世を育てた母シカは、それ以上にエラいと思います。
シカの愛がなければ、野口英世はあそこまでビックにならなかったかもしれません。それどころか、息子の野口英世のほうは、あちこち人に金を借りまくったり、アメリカ留学の渡航費用やロックフェラーからの研究資金を遊郭でのバカ騒ぎで使いまくったとか浪費癖があったのです。
ビッグになるためには本人の努力が大事なのはいうまでもありませんが、それだけでは非常に難しいのですね。英世は努力もしたけれど、運も強かった。よく努力すれば必ず成功するなんて話を聞きますが、必ずしもそうとはいえないのです。本人の努力も大事だが、運や人の助けも必要なのですね。
プロ野球でも、監督の就任した時期が悪くて、ダメ監督と罵られ退陣した話はよくあります。例えば前の監督の無茶な選手起用で主力の選手たちがボロボロになり、しかもフロントは補強に動いてくれず。今の監督が一生懸命頑張っても、そんな状況じゃ成績なんて残せるわけがない。前の監督やフロントが悪いのであって監督のせいじゃないですよね。
英世は、助けてもらったり、見守ってくれた人が母のシカをはじめたくさんいたことが大きかった。
野口英世は、幼少のころは清作と呼ばれておりました。母が清作を1人残し農作業で家を開けていた頃、まだ赤ん坊の清作が囲炉裏の中に落ちてしまい、左手のヤケドをしてしまいます。
やけどした左手の5本の指がくっついてしまい、農作業が出来ない手になってしまいました。わが子がそんな風になったのは自分の不注意だと、母シカは自分を責めていたのです。野口英世の父親は仕事で家を空ける事が多く、シカも農作業で忙しい、いわば共働きでした。
このころの日本は、今みたいに保育園もベビーシッターも普及していなかった時代でしたから、子供の面倒をみながら働くのは大変だと思うのです。「シカもそんなに自分を責めなくてともいいのになァ
清作は、手のことで小学校では「てんぼう、てんぼう」といじめられては、泣きながら家に帰ったそうです。そんな清作を必死にシカはなぐさめたのです。しかし、英世はガンバリ屋さんで、いじめられても、学内でトップの成績をとり賞までもらったのです。
また、シカはわが子の幸せを願って、観音様に祈りもささげたとの事です。
清作が13歳になった頃、高等小学校に進学することを夢見ます。しかし、高等小学校に行くには学費がかかります。野口家の家計も豊とはいえず、自分で働くにしても左手がネックでした。そんなとき、猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄先生に優秀な成績を認められ、小林先生のはたらきかけで猪苗代高等小学校に入学できました。
小林先生は卒業まで学費の援助をしてくれたのです。卒業後も清作と家族の世話を続けたそうです。小林先生は清作(野口英世)にとって、まさに生涯の恩師だったのですね。
しかし、清作の左手のコンプレックスは消えませんでした。ある作文の授業で、清作はこのようにつづりました。
「鉛筆をけずることができない」
「弁当箱を開けるのも容易じゃない」
「ナイフで癒着した指を切り離そうとした。」
この作文を見た同級生たちは驚き、なんとか清作を助けようとカンパをしたそうです。小林先生を中心に先生たちもカンパをしました。そのお陰で清作のもとに十円のお金が集まりました。その十円を使い、清作は、猪苗代で開業していた医者の所で手術をしました。左手は完全には治らなかったのですが、清作は医学のすばらしさを知りました。医学のおかげで体だけでなく、長年のコンプレックスも克服できたのです。
それから、清作は英世と名乗り医学の道へと進んでいき、活動の場を海外に移していきます。
続きの記事
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2038597.html

(野口英世の母が毎月一回おとずれたといわれている中田観音)
*参考にしたもの
「THE歴史列伝」

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