history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

すずめの戸締まり
松本白鸚
2023-09-20



この間、遅ればせながら、アマゾンプライムでアニメ映画「すずめの戸締り」(新海誠監督)を見させていただきました。新海誠の作品は「君の名は」や「天気の子」など見させていただきましたが、今回の「すずめの戸締り」が一番良かったと思います。あんまり話すとネタバレになりますので、ほどほどにしますが、この映画のテーマはずばり巨大地震です。巨大地震を食い止めるべく主人公の少女、すずめが奮闘します。

そして、僕がこの映画をみた数日後に、宮崎県で大きな地震が起こりました。実は、「すずめの戸締り」で最初に大きな地震が起こる場所が、宮崎県。ネットでも話題になっております。僕もびっくりしましたね。映画とほぼ同じ。しかも、政府が正式に南海トラフの大地震を警戒せよというのですから。新年そうそう能登の地震もあったし、怖いですね。今日も神奈川県を中心に地震がありました。

「すずめの戸締り」では、宮崎の次は愛媛、神戸、東京、東北と続くので、次は愛媛か?近々、東京にも大地震がくるのかってネットでウワサされております。地震というのは日本の歴史を紐解いてみると連続的に起きたのですね。特に南海トラフはたびたび大きな地震をそれも、連続的に、九州、四国、近畿と広い地域で地震を起こしてきたのです。おそらく新海誠監督は、南海トラフのことを勉強して、「すずめの戸締り」を作ったのかもしれない。


豊臣秀吉の治世の間にも、天正地震(1586)、別府地震(1596)、慶長伊予地震(1596)、伏見地震(1596)と続いたのですね。特に1596年に別府(九州)、伊予(四国)、そして伏見(近畿地方)と同じ年にいくつも大きな地震がおきたのですね。ほぼ、「すずめの戸締り」と同じですね。というかこの時も南海トラフの震災だったのかもしれません。で、前回の記事で、加藤清正が秀吉を怒らせ、謹慎処分になった話をしましたが、この伏見地震を通して、秀吉は清正を許すのです。どうして許すのかは、順を追ってお話しします。


まずは伏見地震について。マグニチュードは 7.0〜7.1でした。主に堺・京都で大きな被害がありました。東寺、天龍寺、大覚寺などの神社仏閣が被害を受け、伏見城も崩壊しました。そして死者は1,000人を超えたとされております。結構大きな地震だったのですね。その伏見城になんと秀吉がいたのです。絶体絶命のピンチの所を、加藤清正が300人の部下を率いて秀吉を我先に助けに来たのですね。清正は、一度目の朝鮮出兵の件で秀吉を怒らせてしまい、謹慎処分を受けていたのですね。これは石田三成の讒言によるものでしたが。

でも、秀吉の恩を受けていた清正はいち早く助けにきたのですね。秀吉はたいそう感激し、清正のことを許したのですね。そして清正は二度目の朝鮮出兵に参加できたのです。


助かった秀吉は方広寺の大仏めがけて矢を射掛けたそうです。なぜでしょう。じつはこの地震で方広寺の大仏の左手や胸が地震で崩れてしまったのですね。その大仏のひ弱さに秀吉は怒ってしまったのかもしれません。そして、「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえ」と家臣に命じたとか。その豊臣秀吉は2度目の朝鮮出兵の最中に亡くなるのですが、秀吉が生きているうちに清正は秀吉と和解できてよかったと思います。


ただ、この地震加藤のエピソードは後世の創作だとも言われております。清正と秀吉が和解できたのは事実ですが。



Toyotomi_Hideyoshi_and_Katō_Kiyomasa

(地震のさい、秀吉救助に向かう加藤清正)

※ おまけ
息抜きに音楽でも。「すずめの戸締り」の主題歌、「 すずめ feat.十明」。十明の神秘的で美しい声にうっとりします。「すずめの戸締り」は全体的に音楽が良かったです。RADWIMPSの「カナタハルカ」もよかったけれど、映画の途中で80年代の音楽が出てくるのが良かったです。河合奈保子の「けんかはやめて」とか斉藤由貴の「卒業」とか。


1 馬刺し 
みなさんは馬刺しを食べたことがありますか?僕は何度か食べたことがあります。おいしいんですよね。こくがあって。肉なのにあっさりしていて食べやすいんですね。それに、馬の肉は生で食べることもできるんです。馬刺しは日本のあちこちで食べることができますが、馬刺しは熊本の名物グルメなんですね。馬の肉を生で食べる風習はは馬の名産地、たとえば群馬だとか山梨だとか福島だとかが多いですが、熊本ではどうしたわけか、生で食べる風習はなかったようです。馬の肉を生でたべるようになったのも加藤清正がかかわっているのです。朝鮮出兵のさい、食料に困って、清正たちは馬肉を食べたのです。馬肉がおいしかったので、清正が熊本に伝えたと言い伝えられております。





2 慶長の役
 一度、日本と朝鮮で和睦し、戦いは終わりました。しかし、秀吉が朝鮮側が言った和平案に納得できなかったのです。再び秀吉は朝鮮に出兵を命じました。これが慶長の役(1592)です。

ちなみに、このころになると清正は秀吉からの謹慎処分が許され、再び朝鮮半島で戦うことになるのです。なぜ、秀吉からの謹慎処分が解かれたのかは次回の記事で詳しく取り上げますが、文禄5年(1596年)9月5日に起きた伏見地震です。この地震のとき、清正が秀吉を救ったんです。それで許されたんですね。

で、慶長の役では文禄の役以上に日本軍は苦戦を強いられました。明と朝鮮連合軍の猛反撃の上に、極端な食糧不足に襲われたのです。実は、日本からの食糧補給船が朝鮮の水軍に撃破されて、朝鮮に食料が十分に届かなくなったのです。そのうえ地元の民衆の不満もさらに高まり、現地徴収もきたいできません。そのうえ、朝鮮政府は、日本軍の進路にあたる村々の民衆たちに、日本軍に食料家財を一切残さずに山岳地域に避難せよって命じたのです。日本は飢えに苦しむ一方です。

そして、明と朝鮮軍は朝鮮半島の南部にある蔚山城うるさんじょうにまで攻め寄せたのです。蔚山城には日本軍がたてこもっておりました。その蔚山城を明と朝鮮の大軍は蔚山城をすっかり囲んでしまいました。城内の日本軍は4千500ほど、かたや明と朝鮮軍は5万7千。勝負になりません。取り囲まれた日本軍は大ピンチ。

清正はこのころ、蔚山城から10キロほど離れた西生浦城そせんぽじょうにいましたが、蔚山城の仲間を助けるべく、わずか500人だけで蔚山城に向かったのです。清正はたった500名で、明と朝鮮の大軍を押しのけ、蔚山城に入城。すごいですね。清正も、その家臣たちもそうとう強かったのですね。清正の援軍に、蔚山城の仲間たちは大喜び。

3 蔚山城の籠城戦
しかし、そこからが地獄でした。

反撃はおろか、壊滅寸前、食料も水も2,3日分しかないうえに、骨まで凍るほどの寒さで凍死するものも出てくる有様。しかし、清正は一言も弱音をはきませんでした。大将だけに与えられた一善のごはんも自分が食べずに部下に与えたといいます。

食料が尽きた城内では紙をむさぼり、壁土を煮て食べたり、大事な軍馬までも食べたといいます。ある兵士は「すねあてがずり落ちたので外してみると、足の肉は落ち骨と皮ばかりになっていた」と。

そんな状況のなか、味方の援軍がかけつけ、蔚山城に立てこもっていた清正たちは九死に一生を得たのです。蔚山城の籠城戦は清正の戦歴でもっとも過酷なものでした。そして蔚山城の戦いの経験が熊本城の建築に役立ったのです。

結局、この戦も豊臣秀吉の死によって、日本軍は兵を引き上げることになり、2度にわたる朝鮮出兵は幕を閉じたのです。



まずはこの動画をご覧ください。怖いですねえ。野生の虎の凶暴さがよくわかります。いま、日本の各地で熊が出没して、人間を襲うこともあるから気をつけろなんてニュースで話題になっておりますが、熊どころじゃないですね。僕も虎を上野動物園でみましたが、怖い思いをしましたよ。動物園の動物は基本的に野生の動物より温厚なはずなのですが、僕が虎のおりの前にくるなり、おくにいた虎が寄ってきて、吠えられたもの。野生の虎なんてもっとこわいでしょうね。

加藤清正が朝鮮出兵の際、トラ退治をしたという伝承はあります。虎とヤリで戦ったといいますが、それは嘘。実際は鉄砲で撃ったといいます。ヤリで戦うなんて無謀もよいところ。また、加藤清正一人が虎退治をしたイメージがありますが、実際はほかの武将もトラ退治をしたそうですよ。

実は、豊臣秀吉には世継ぎがいなかったのです。それで虎の肉を食べれば、世継ぎができるって当時は信じられていたのです。それで秀吉に気に入られようと武将たちがこぞってトラをしとめたのです。つまり、トラ退治をしたのは加藤清正だけじゃなかったってことですね。清正も別に秀吉に気に入られようとしたわけではなく、主君のためって思って虎を退治したのですね。

戦後、日本の政治家が韓国に訪れました。その時の韓国大統領・李 承晩イスンマンと会談した際、「韓国の虎は加藤清正にみんな殺されたから生き残っていない」って日本の政治家に毒づいたのですね。それくらい、トラ退治=加藤清正のイメージが強いってことですね。

Kato-Kiyomosa-tiger-hunting-in-Korea







 

1 ぼした祭り
熊本に「ぼした祭り」という祭りがあるのご存じでしょうか。正式には藤崎宮秋の例大祭というそうです。毎年、9月に5日間行われ、第3月曜日(敬老の日)をその最終日とするお祭りです。その最終日に行われる神幸行列が祭りのクライマックスなんだそうです。その中で観客の注目を集めるのは、神輿に付き従う「随兵(ずいびょう)」と「飾り馬(かざりうま)」の奉納行列です。飾り馬は、近年は60団体以上が奉納し、「ドーカイ、ドーカイ」という威勢のよい勢子たちの掛け声と、ラッパなどの鳴り物でにぎやかに行進しながら、熊本市内を練り歩くとのことです。



このお祭りも最初は「ドーカイ」ではなく「ぼした、ぼした」って掛け声だったそうです。しかし、その掛け声に在日の韓国人が反発したのですね。「ぼした」とは「朝鮮を滅ぼした」という意味だと難癖をつけたのですね。言いがかりもいいところといいたいところなのですが、この「ぼした祭り」も実は加藤清正が朝鮮出兵のときに無事に帰国できたということで、神様に感謝して、みずから随兵頭となって兵を引き連れて藤崎宮の神幸式に参加したのが始まりと伝えられています。このお祭りは朝鮮出兵とつながりがあるのですね。

2 朝鮮出兵 
朝鮮出兵は文禄・慶長の役といいます。二度にわたって豊臣秀吉は朝鮮に兵をだしました。清正は二回とも出陣しました。一度目の文禄の役(1592)では、二番隊の主将となり、鍋島直茂などを傘下に置き2万2800の兵を率いて釜山に上陸し朝鮮半島の攻略しました。ちなみに一番隊の主将が小西行長でした。

清正率いる軍は快進撃を続け、漢城ハンソン(いまの韓国首都のソウル)を越えて、中国の東北部のオランカイという所まで進んだのですね。そして朝鮮の王子を二人をとらえたのです。その快進撃から清正は「鬼上官」と恐れられたほどでした。


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(見づらいのですが、赤い線が加藤清正率いる第二軍の進軍ルートです)

これだけの快進撃ができたのも、もちろん、清正たちが強かったこともありますが、朝鮮軍がまともな武器を持っていなかったことが大きいのですね。日本は鉄砲をたくさんもっておりましたが、朝鮮軍には鉄砲もろくになかった状況です。これでは勝負になりません。

また、地元の民衆の支持も無視できなかったのです。当時の李氏朝鮮は腐敗していて、民衆は不満を抱いていたのです。だから、日本軍を解放軍のように歓迎したのです。地元の豪族の中にも日本軍に協力するものもあらわれたのですね。日本軍は朝鮮の人に乱暴狼藉をしなかったのです。それは秀吉が地元の人に乱暴や略奪をしたり、放火をすることを禁じたことも大きい。


李氏朝鮮に仕えてもらちがあかないから、日本軍についておこう、日本が朝鮮を支配した暁には自分もきっとより良い地位につけるだろうって計算があったのでしょうね。

ところが、日本軍の統治が浸透するにつれて、状況が違ってきたのです。とくにその導火線となったのが、検地ならびに年貢供出の強硬でした。年貢供出の強硬については民衆の不満を抱かせると清正もはじめは慎重な姿勢をとっていたのですが、しかし食べ物とりわけ、お米の現地調達をしないと日本軍はまともに戦えません。結局、食料を略奪する羽目になり、ますます民衆の怒りを買ってしまったのですね。そして日本軍に不満を持った豪族や民衆たちが蜂起し、日本軍も大変な目にあったのです。
3 和睦
そんな折、一番隊主将の小西行長が朝鮮との和睦交渉をひそかに進めておりました。日本軍も苦戦を強いられた上に、食料も不足し明まで朝鮮に援軍に加わりましたから。また、朝鮮に渡航した石田三成も和睦交渉へと進めておりました。もともと小西行長や石田三成はこの戦争に疑問を持っておりましたから。そして、戦争をはじめた秀吉自身も明に攻め入るのは無理だという認識に至ったのですね。

そして、秀吉は朝鮮に対して和平案をだしたのですが、「明の皇帝の娘を天皇に嫁がせろ」とか「朝鮮の重臣たちに日本に背かないようにしろ」とか「朝鮮半島の一部を日本の領土と認めろ」とか無茶苦茶な内容ばかりで、これでは交渉は決裂すると行長は考え、行長は明の皇帝側には、「秀吉が明に降伏した」と伝え、秀吉には「明が降伏した」とウソの報告を伝え、なんとか和平を結ぶことに成功。しかし、こうした食い違いがのちの慶長の役につながるのですが。

そして、清正も日本に戻るように命じられ、清正はしぶしぶ帰国することになるのです。しかも、清正は謹慎処分を下されてしまうのですね。清正が戦争を勝手に続けてしまうから、和平が進まなくて困っているみたいなことを石田三成が秀吉に伝えたのです。それを聞いた秀吉が怒って、清正を謹慎処分にしてしまったのです。

清正は小西行長や石田三成に対して不満を持ったのですね。自分が謹慎処分になったのは、小西と三成が秀吉にウソの情報をながしたからだろうって。しかも、和平交渉は清正抜きで行われたから、よけい清正は不満を持ったことでしょう。最前線で戦ってきた自分にも言い分があるって。

のちの歴史を見れば小西行長の行動のほうが正しいのですが、朝鮮平定こそが主君の秀吉のためって張り切っていた清正には、それがわからなかったのでしょうね。

1 熊本城建設
 加藤清正のおさめた肥後の国には隈本城や千葉城という城がすでにありました。しかし、清正はお城のリニューアルを行いました。国を治めるためのシンボルとして立派な城を建てたいと。清正が立派な城を作りたいと思った動機は、おそらく朝鮮出兵でしょう。朝鮮出兵は2度にわたり行われましたが、特に2度目の慶長2年(1597)の慶長の役でした。この時、日本軍は朝鮮の出城で敵軍に取り囲まれてしまったのです。そのうえ、物資も食料も不足し、大変な思いをしたのです。敵に囲まれる恐怖、一向にこない援軍、そして飢え。清正もその時の苦い経験が、熊本城建設に生かされたのですね。また、朝鮮出兵の報復として朝鮮や明が日本に攻めてくる可能性もゼロでない。その時、最前線で日本を守る要塞として熊本城の存在は大きくなります。

清正はこう語りました。

国の本を定ることが第一肝要なるぞ、本定まれば城郭こそ国府の本なるぞ、本定まれば城下も是に連なる事は古今の例なり



城のリニューアルは、1591年(天正19年)から建設が始まり、1600年(慶長5年)頃には天守が完成しました。また肥後には白川と坪井川、井芹川など幾つかの川が流れているのですが、清正は河川改修を行いました。ひとつは洪水を防ぐため、二つ目は新田開発のため、三つめは川をお城の堀代わりにしたのです。


しかし、お城を作るとなると莫大なお金がかかります。そのお金はどうやって捻出したのでしょうか。豊臣家がだしてくれた?違います。それは清正の経済感覚が優れていたからです。

2 外交貿易を行っていた
 加藤清正は外交貿易をおこなっていたのです。貿易先は東南アジアや中国。絹やら砂糖やら中国の陶磁器やら東南アジアの品々やらが熊本の城下町に出回っていたのです。城下町では、このような歌が歌われていたほど。

女の喜ぶ呉服町。ぎりっと廻れば唐人が、軒をつらねて街づくり。朝も早うから売り手買い手の忙しさ。金銀づくめの綾錦。下戸に好物、金平糖。氷砂糖や天門〇。上方にゃ南蛮酒、ルソンの壺はここにある。


熊本の港には中国からの船も来ており、また城下町にも唐人屋敷、いわば中華街ができていたのですね。しかし、一方的に外国の品々を輸入するだけでは赤字です。加藤清正が目を付けたのは小麦です。清正は小麦の栽培を命じていたのですね。この時代の日本で小麦栽培を行っていたのはおどろきです。熊本はいまも、うどんや、そうめんもおいしいところだといわれております。うどんも、そうめんも原料は小麦ですからね。そうした歴史的背景があったのですね。

3 検知と治水工事
 清正は両国の検地をおこなったうえで、新田開発も行いました。そうして農作物の生産力を高めていったのです。さらに、治水工事をすることで、洪水も防ぐことができました。清正は治水工事だけでなく、新田開発を並行的に行ったところに特徴がありました。清正は「土木の神様」と呼ばれるほど、その治水技術は定評がありました。特に菊池川、白川、緑川、球磨川
くまがわ
はたびたび氾濫をおこしてたいへんだったのです。それらの川を見事に治めたのですね。彼の手法は、

  1. 自ら上流と下流を見て回った


  2. 舟に乗って川を検分した


  3. 河川工事に明るい家来も引き連れ、川幅、深さ、よどみ、水の流れもチェック


  4. 地元の人間に水利の古今の状況、つまり過去に水害があったか、どんな被害があったかを聞き込み清正はよそから来た人間なので、肥後の国の水害の歴史を知る必要がった


  5. 難工事になりそうな地点では、必ず神社で祈祷したり、水がよどむところには龍神や水神をまつった


  6. 水当たりの激しいところや難所には、小笹や若竹を植え込ませ、「水の流れにけっして無理のいかないような仕組み」を考案。


  7. 白川・坪井川、井芹川が合流している地点に石造りの背割堰せわりせきでしめきり、三つの川を分流させた。これを石塘いしどもという。三つの川が一緒に合流すれば、嵐のときには水かさがまし、洪水になる。三つの川を分けることでそれを防ぐことができる。



※ 参考サイト
http://www.wakuwaku-land.jp/PhotoRallyPhoto/PhotoRally3lowerreach/ishidomo.html




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