関ケ原の合戦で勝利した徳川家康の天下は誰の目からみても明らかでした。しかし、家康にとって豊臣家の存在は目の上のたんこぶ。なんとかしてやっつけておきたい。とはいえ、いきなり戦争をふっかけるのも上策とは言えません。豊臣秀吉は亡くなったとはいえ、後を継いだ豊臣秀頼がいる。しかも、秀頼のもとには加藤清正など豊臣の忠臣たちも多い。何より家康の専横を快く思ってい者も多い。
だから家康はいきなり力ずくで豊臣家をつぶすのではなく外堀から埋めていって、そして一気に攻め落とす作戦にでたのですね。
まず、家康は慶長8(1603)年7月、千姫(当時7歳)を秀頼(当時11歳)に輿入れさせるのですね。千姫とは家康の孫です。徳川と豊臣の結びつきは秀吉の願いでもあったようですが、家康は豊臣家一族として好き勝手に意見を言えるようになった。ある意味豊臣家の乗っ取りですね。しかし、そんな家康に従わぬ豊臣勢も少なくありません。家康の意図はミエミエだから。清正も当然、家康を警戒しておりました。
それから月日が流れ、1611年(慶長16年)3月28日に家康が行ったのは豊臣秀頼を招き、二条城にて会見を行いました。
いわゆる二条城の会見です。それまで、家康は豊臣の家臣という位置づけでしたが、逆に家康が秀頼を呼びつけたと。これはそれまでの力関係が逆転したことを意味します。普通は、家康が秀頼のもとに挨拶しにいくものですから。会談を受け入れた秀頼はある意味、自分が家康の家臣になることを受け入れたようなもの。
会見には加藤清正も同席し、会見中は秀頼のそばにいたといいます。もし、秀頼に何かあれば清正も黙ってないぞってことでしょう。でも、清正の娘も徳川家に嫁いでいたので加藤家と徳川家は親戚だったのですね。もちろん、清正も豊臣に恩義があるとはいえ、徳川とも親戚。歴史では清正が秀頼を案じて付き添いをしたみたいな書かれ方ですが、むしろ家康が豊臣と徳川両家に顔がきく清正をキャスティングしたのが真相のようです。とはいえ、徳川家と豊臣家の間に挟まれた清正は苦しい立場だったと思われます。
会見自体は和やかな雰囲気だったようですが、お互いの腹のなかは、穏やかとは言えない状況でした。家康は虎視眈々と天下を狙い、あわよくば豊臣家を滅ぼそうとしている。そんな家康の魂胆が会見の端々から伝わってくる。
そんな状況の中、会見から何日か経って清正の様態が悪くなり、そのまま病気で倒れ亡くなったといいます。なんでも、会見を済ませ、船にのって肥後に帰ろうとしたのですが、船中で清正は熱病が襲われたといいます。熊本に到着しても病気は完治せず、逆にますます悪化したと。
長年の無理がたたって病気になったのか、それとも家康に毒の入ったまんじゅうを食わされたのか、清正の突然の死は謎がおおいです。ただ毒殺説は、清正が二条城から出て日にちも経っているので可能性は低いです。ですが、この清正の死は豊臣家にとって大打撃であり、 家康にとってはチャンスだったのですね。