history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

1 日本国紀を読む
今日から数回にわたって『日本国紀』の感想を取り上げていきます。正直、著者の百田尚樹氏にはいろいろ思うこともあるのですが、彼の著書をろくに読まないで批判するのもよくないと思うので、彼の本を読んでみたいと思ったのですね。

『日本国紀』は元版と文庫本版と両方あるのですが、僕が読んでいるのは元版のほうです。で、元版には歴史的にいろいろ間違いがあって、文庫本版はかなり手直しをされているそうですね。また、元版のことで左どころか保守側からも批判があったとのこと。それくらい曰くつきの本だそうです。ただ、僕も専門家じゃないし、正直歴史の知識もそんなにあるほうじゃないので、あんまり『日本国紀』の歴史的正しさについては検証できないのですが、読んでみた率直な感想は書かせていただきたいと思います。

それと、さらっと見たのですが、『日本国紀』には文字ばかりで絵や写真、図などが全然ないのですね。確かに文章はわかりやすいのですが、図とか写真くらいはあったほうがわかりやすくて、見やすいと思うのですが。


2 縄文時代に農耕はあった
 まず、『日本国紀』の元本において縄文時代は「採取、狩猟、漁撈ぎょろうが主なもので、本格的な農耕や牧畜は行われていなかった」(p10)とありますが、文庫本ではその部分が訂正されて、「農耕生活の萌芽ほうがもうかがえます」に書かれているようです。

縄文時代の農耕の話ですが、全国的ではなかったものの、縄文時代にも農耕が行われていたことが近年の研究でもわかったようですね。

藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』でも縄文農耕説が取り上げられました。「エスパー魔美」が連載されたのは1970年代後半から1980年代前半にかけてですが、まだ縄文時代には農耕がなかったといわれ、教科書にもそう書かれておりました。そんな中でも藤子・f・不二雄は縄文農耕説を先取り取り上げたのです。それが何年もたって縄文農耕説が実証されたのだから、藤子先生はすごいなって。

それと、日本が中国やギリシャと比べて「それらの地域に比べれば、日本はまだ文明的にははるかに遅れた地だった」(p11)と書いてあって、僕は「うわ〜、こりゃネトウヨ達からたたかれるぞ」って思ったもん。

以前に「世界ふしぎ発見」で、ギリシャ文明のことが取り上げられて、ナレーターが「日本ではまだ縄文時代」といったとき、ツイッターで「反日番組」だの「事実じゃない」だの、「日本にも文明があった」だのネトウヨらしき人たちが一斉にかみついたのですよ。それって教科書にも書かれていることなのに、なんなんだって。ひどいのは、エジプトや中国の文明をはるかにしのぐ超古代文明が日本にあって、飛行機も車もあったなんて話をマジで信じている人もいたから、たまげたねw

3 神武天皇について
『日本国紀』に神武天皇の話がでてきます。神武天皇は初代天皇といわれており、神武天皇は奈良県の橿原神宮かしはらじんぐうにまつられております。橿原神宮は僕もと訪れたことがあります。大きな神社で、とても立派な建物でした。橿原神社は神武天皇をまつっているものの、造られたのは意外に新しく明治時代です。

この神社は神武天皇が橿原の地に都を作ったといいます。その橿原に皇居を構え、BC(紀元前)660年2月11日に即位したといいます。いまの建国記念日ですね。明治時代になってに建てられたのが橿原神宮というわけです。

IMG_0769


IMG_0770


IMG_1467

(いづれも橿原神宮の写真)

でも、BC660年といったら、日本の歴史に照らし合わせると縄文時代。卑弥呼の時代より前ですね。そんな大昔に天皇なんていたの?って話になります。橿原市のサイトでも神武天皇の話は歴史的に事実かどうかは不明って書かれているのですね。

4 神武の東征は本当にあったか?
神武天皇といえば神武の東征とうせい。これも史実かどうか何とも言えない話です。え、神武の東征ってどんな話かって?僕もうまくは説明できないのですが、もともと神武天皇は九州は宮崎の出身だったが、東征をおこない幾たびの戦いを行い、大和の地で安住の地を得たと。東征をわかりやすく説明した動画をみつけたので、ご紹介します。




だけれども、この話が事実かどうかというと、僕も正直う〜んでして。神武の東征に空飛ぶ船なんて出てくるけれど、もはやSFの世界ですもの。それと、東征のことも動画でみてわかったのですが、神武天皇の東征については考古学的に東に向かった勢力はなく、実際には26代目の継体天皇の話を転用したのではないか?とも考えられます。

さらに百田氏は神武の東征の根拠は、銅鐸どうたくだというのですね。なんでも中国地方から見つかった銅鐸はていねいに埋められて傷もないのに、近畿地方から出土した銅鐸は破壊されていると。征服民が被征服民の文化を否定し、祭祀さいしの道具などを破壊することは珍しいことではないからだというのが著者の主張。でも、縄文時代にはまだ銅鐸なんてなかった時代。神武天皇が壊すも壊さないも、神武天皇がいたとされる時代には銅鐸が存在しなかったのですね。

まあ、僕も全否定はしないし、元になった話はあるのではと思うけれど。

あと百田氏といえば、意外にも王朝交代説をとっているのですね。これには保守言論人やウヨから大いに批判があったのです。「継体天皇の代で王朝が入れ替わった」(p31)とあるのですが、そもそも右派の人にとって天皇家は「万世一系」で一度も絶えたことがないという考え。それをあろうことか、保守系の百田氏が王朝交代説をとってしまったから批判されたと。

百田氏は文庫本で「実際は応神天皇や継体天皇のときに王朝交替が起きていて、歴史的事実としては万世一系ではないのだけど、万世一系であるという理念、フィクションが信じられてきたことは重要」
みたいな話を書いたようですが。文庫本でも王朝交替を否定していないのですね。百田氏は『永遠のゼロ』を書いた時も左だけでなく、右からもたたかれたとおっしゃっていたが、この『日本国紀』でも同じことが起きていたんだなあって。

※ 参考文献ならびにサイト 


https://webgenron.com/articles/article20220607_01



『日本国紀』をファクトチェック~史実をどう歪めているか
平井美津子
日本機関紙出版センター
2019-08-05


日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12




エスパー魔美(1) (てんとう虫コミックス)
藤子・F・不二雄
小学館
2017-02-28




1 作家が歴史を語るべきか?


(↑クリックすると、サイトに飛びます)

上のサイトで、呉座勇一、辻田真佐憲、與那覇潤のご三方が、「つくる会」や百田尚樹の著書「日本国紀」について語られているので興味深く読ませてもらった。僕はまだ百田の「日本国紀」を読んでいないから、称賛も批判もできない。僕は基本的に小説家が歴史書を書いたからといって悪いとは思わない。あくまで読み物としてみる分には面白いと思うから。

僕は歴史小説としての面白さと、歴史の学術的な正しさは水と油だと思っております。だから、歴史小説にあんまり、歴史的正しさを求めてはいけないと思いますね。最近の大河ドラマは原作付ではありません。なぜなら、大河ドラマで歴史的に間違いがあるとすぐにクレームがくるから。

昔は大佛次郎とか、司馬遼太郎とかたいてい原作がついていたのですが。それは、歴史小説は時に物語としての面白さを優先するために史実をアレンジしたり、史実でないことを作り上げることが結構あるからなんですね。


ドラマ版の「忠臣蔵」に出てくる東下りだってそうだもん。垣見五郎兵衛と大石内蔵助が対峙する有名なシーンですが、史実だと、あんな話はありません。けれど、以前に「忠臣蔵」で東下りの話がカットされたものを見たことがあるけれど、なんか物足りなくてね。「忠臣蔵」の話を史実に忠実な話にすると恐ろしくつまらない話になるでしょうね。

2  間違った歴史観
逆に言えば、歴史小説の面白さをあんまり史実や学術的な面に落とし込むのはどうかなって。歴史小説の面白さと、史実とは本来異なるものですから、その辺の線引きも必要だと思います。もっといえば、歴史小説家が教科書の内容にまで自説を押し付けたり、歴史学者がこれまで築き上げた学説を否定したり。それはよくないと思う。

こんなことを言っては申し訳ないが、「逆◯の日◯史」なんて見てると、筆者が学者の通説を批判し、自分の主張は正しいと言っている。しかも、この本の著者は「つくる会」の賛同者だったというから、開いた口がふさがらない。

何より恐ろしいのは、そういう間違った歴史の知識でも何べんでも繰り返されると本当のことかのように広まってしまうのですね。ヒトラーの側近のゲッペルスも「ウソもたくさん言えば事実になる」って言っていましたっけ。

司馬遼太郎にせよ大佛次郎にせよ、あくまで読み物として読んでくださいねって態度だったし、教科書の内容に口出しなんてとてもとても。

ちなみに司馬遼太郎とか昔の有名な歴史小説家は、ちゃんと著名な歴史学者と懇意な間柄で、ちゃんと史実を踏まえつつも物語としての面白さも追及したといいます。まして、歴史学者を上から目線で足蹴りするような歴史作家は昔はいなかったそうです。

3 専門を語ればよい?
それはさておき、このご三方の対談で気になったのが、呉座勇一氏の発言。呉座氏が『頼朝と義時』(講談社現代新書)という新書を出したとき、Amazonのカスタマーレビューで「呉座は中世後期(南北朝−室町時代)が専門のはずなのに、なんで前期(鎌倉時代)について本を書いているんだ」というようなコメントがいくつかついたと。呉座氏は、けっこうショックを受けたそうです。

僕は、呉座氏が中世だけでなく、江戸時代や明治、大正、昭和のことを語った著書をだしても全然OKだと思います。日本史の歴史学者はたとえ江戸時代とか中世が専門だとしても、日本の歴史全体の流れを把握していないと歴史を語れないと思います。実際、氏が書いた著書にも太平洋戦争のこととかも書かれているし、日本史どころか世界史の話もご自身の著書で触れられているし、戦国時代がご専門の小和田哲男氏だって通史の本を書いている。



教養としての文明論
與那覇 潤
ビジネス社
2024-05-23






にほんは、『文字と組織の世界史:新しい「比較文明史」のスケッチ』を書かれた鈴木董氏に実際にお会いしたことがあって、大変驚かれたといいます。鈴木氏は法学部の出身で中東史が専門だそうです。ところが日本近世の武士の職制にも詳しくて、オスマン帝国を説明するにも「これは日本の児小姓(こごしょう)に近い」などと説明されていたそうです。インド史、ヨーロッパ史、インカ史、何を尋ねても適切な答えがかえってきたとうから、歴史学は本来、自分の専門分野を極めつつも、歴史を全体的にとらえる作業なり研究が大事なのかって思いました。いわゆる森をみてから木を見るみたいな。

医者だってそうだと思いますよ。僕の親戚が歯科医をやっておりますが、歯の知識だけ知ってればよいだけでなく体全体の知識も理解がないと、まともな治療ができないって。僕の母が天疱瘡という皮膚の病気になりました。僕は母の主治医からそう聞かされてもピンとこなくて、そんな病気あるんだって思いましたもん。でも、親戚は専門外だったものの、よく知っておりましたよ。

ところが、「専門のことだけを語ればいい」みたいなクレームがくるようでは、そのような作業も否定され、木だけを見て森を見ないなんてことになってしまうでしょう。



IMG_1431


IMG_1461


IMG_1433


IMG_1432


IMG_1441


IMG_1445


IMG_1437


IMG_1446


IMG_1443


この間、山梨県の竜王というところに訪れました。竜王はJR甲府から、松本行きに乗って一駅先のところです。駅から徒歩25分くらいのところに行くと釜無川という川にぶつかります。その川に信玄堤というものがあります。その名の通り、武田信玄が作った堤防です。信玄が作った堤防の特徴は、自然に逆らおう、打ち勝とうとして高いダムをつくろうとしたのではなく、あくまで人間は自然には勝てないという前提で堤を作りました。川の流れをうまく調整して勢いを弱めさせるような堤だったのですね。








しかも驚くべきことに、信玄堤は戦国の世から今日に至るまで現役で、今もなお甲府市を洪水から守っており、台風がきても大丈夫だそうです。すごいですねえ。昔の人の知恵に驚かされます。逆に現代の土木技術をフル活用してダムを造ったとしても、自然に打ち勝とう、征服しようという感覚でもってダムを作ったりすると、いつか自然からのしっぺ返しがきそうで怖いような気がします。

信玄だけでなく、熊本を治めた加藤清正も優れた土木技術をもっていて、熊本の地を洪水から守ったといいます。昔の大名は行政能力がないと務まらないといわれ、単なるパフォーマンス頼みの知事とはわけが違うってことですね。

また、信玄は聖牛という器具も使って洪水から守っていました。この聖牛も発祥は甲州だとされ、やはり水の流れを変えて、洪水を防ぐためにつくられたものだそうです。こうした信玄の工夫により、川が氾濫をしなくなっただけでなく、新田開発も行うことができたといいます。領民思いのすごい人ですね。逆に言えば領民の支持を得ないと領国経営を行うのは困難だったことがうかがえます。

ちなみに、これは地元の人に聞いたのですが、武田家は甲州の豪族ではないそうですね。発祥の地は茨城県のひたちなか市のあたりだそうです。それが、今でいう県知事のような肩書で武田氏は甲州の地に赴任したのですね。武田氏は武田勝頼の代で織田信長に滅ぼされたイメージがありますが、残党が残っており、それが明治維新後も永らえ、いまも武田家の子孫がいらっしゃるそうです。



IMG_1454

(聖牛)
IMG_1451

唐時代の詩人の杜牧とぼくはいにしえの建康の都に思いをめぐらせ詩をつくりました。それが有名な「江南こうなんの春」です。



漢詩の大意
広々とした江南のあちこちから、うぐいすの鳴き声が聞こえてくる。木々の緑と紅の花とがまじりあって美しい。水辺の村や山沿いの村居酒屋の旗が風に吹かれている。南朝依頼の古都建康には、たくさんの寺院がたちならび、お堂や塔が春雨にかすんでいる


前回の記事で、りょうの武帝の話をしました。武帝は、いくつもの寺を建立しておりました。武帝にならって貴族たちも寺をこぞって立てたので、梁の都、建康けんこうはたくさんの寺が立ち並ぶ都市になりました。建康の人口は140万を超えたといいますから、かなりの大都市だったのですね。それが唐の時代になると、すっかりさびれて、その面影もなくなったということでしょうね。この世は諸行無常ではかないものだと思い知らされます。

1 だるま人形のモデルは

IMG_1218


我が家のだるまさんです。だるまさんといえば転ばない人形です。七転び八起きっていいますものね。「ドラえもん」でも、幼いころののび太に、のび太のおばあちゃんが、だるまを見せながら諭すシーンが出てくるのですよ。幼いころののび太が転んで泣いたので、おばあちゃんが「だるまさんは偉いね、転んでも起き上がるね」って。感動的なお話ですね。多くの失敗をしても立ち上がりなさいってことでしょう。





ところが我が家のダルマさんは、いちど転んだら全く起き上がりませんw誰かの助けがないと起き上がれないのですw嫌になります。一回転んだら、誰かの助けがないと大変やばいことになる、そんな不吉なものを感じさせる、我が家のダルマでありますww

IMG_1219






あとダルマといえば群馬県の高崎のだるま弁当を連想します。群馬の駅弁といえば、だるま弁当。僕も何度か食べたことがありますが、おいしいです。群馬県といえば横川の峠の釜めしも有名で、群馬の駅弁ではだるま弁当と峠の釜めしは人気を二分しております。


そんな、だるま人形のモデルは中国の高僧、達磨だるま禅師です。達磨禅師がひたすら座禅をしている姿をモチーフにしてつくられたのがダルマ人形です。

達磨の経歴は謎が多く、南インドの王子だったという説もあります。5世紀後半に中国にやってきて、洛陽らくようなどを中心に活動しました、華北の北魏ほくぎにある嵩山すうざんにある少林寺にこもり、壁に向かって9年間も座禅を組み悟りを開きました。いわゆる面壁九年めんぺきくねん

少林寺というと、少林寺拳法を連想します。ここのお寺の僧侶たちは拳法で身体を鍛えておりました。ちなみに、日本の少林寺拳法と中国の少林寺の坊さんがやっている拳法は別物です。日本の少林寺拳法は日本生まれで、岡山県生まれの宗道臣そうどうしんとう人が始めたのですが、あんまり話すと脱線するのでこの辺にします。

2 武帝とは
達磨といえば、りょう武帝ぶていとの禅問答が有名です。禅問答の話をする前に、梁の武帝のお話を。武帝は502年に即位し、政治改革に熱心で、かつ仏教を大変敬っており「皇帝菩薩」と呼ばれるほどでした。中国の歴史上もっとも仏教に帰依した皇だといわれております。



3 達磨と武帝の禅問答
 お話は、達磨が少林寺にこもって座禅をする前にさかのぼります。梁の皇帝・武帝が達磨を宮殿に呼び寄せました。まず、武帝はこれまで多くの寺を建てた、僧侶を育てた、どんな功徳が得られるかって達磨に尋ねました。すると達磨は、

無功徳むくどく

って答えたのです。

ただ、お寺を建てればよい、お坊さんを育てればよいという武帝の考え方に達磨はNOといったのですね。いくら武帝が仏教に帰依しているからといって、それはあくまで己の功名心とか利己的な動機から寺を作ったり、坊さんを育てているだけじゃないかって達磨は思ったのでしょうね。


さらに武帝は自国の仏教指導者となって国を救ってほしいと達磨に頼みます。しかし、達磨はそれを拒みます。達磨の目指す仏教は直指人心見性成仏じきしじんしんけんしょうじょうぶつ。難しい言葉ですが、自分が本来は仏である、つまり人に頼る前に修行精進して自分の仏性に気づきなさい、って意味です。皇帝が国を救うことにこだわっているようでは、本当の仏教はわからない、それどころか、この国の将来さえ危ういと達磨は言い放ち、武帝の元を去りました。武帝はたいそうがっかりしたといいます。

実際、武帝は仏教に帰依しすぎて国の財産をじゃぶじゃぶ寺に寄進し、さらには皇帝の身分を捨てて仏門に入り修行をしたといいます。困った家臣は寺にお金を払って、朝廷に連れ戻して皇帝の座に戻したのです。そんなことがたびたび続いたのです。皇帝に戻ったり、坊さんになったり、そんなことが幾たびも繰り返されたのです。考えられませんよね。日本に例えるなら、総理大臣が、たびたび内閣総辞職しては、政治家をやめて宗教家になって、そうかと思えば、また政治家に戻って、総理に返り咲いたり、そんな状況。それでは国が乱れますよね。

さらに、戦争中でも、寺が燃えたら、休戦をしてまでも寺の再建をしたといいます。戦地で必死で戦っている兵士たちも、主君がそんな調子では、士気が下がってしまいます。

結局、梁は戦争に負けたあげく、侯景こうけいという家臣の裏切りにもあい、武帝は幽閉され、2か月後、孤独のうちに武帝は86歳の生涯を閉じたといいます。

このページのトップヘ