history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。

新年最初のエントリーは天英院の話。天英院は絵島事件にも関わっているし、八代将軍に吉宗がなるときにも、この人が関わっていました。12チャンネルで放送されたある歴史番組では、天英院は実は倒幕をたくらんでいたと。天英院の実家は近衛家、つまり朝廷側です。徳川家をうらんでいた島津家と組んで徳川を倒そうとしたのです。

島津家は幕府から、実際の石高よりも大目の税をとるなどいろいろと嫌がらせをされていたとか。

そこで、綱吉の養子でもあり、天英院の子飼いでもある竹姫を島津家に嫁がせ、幕府と島津家を和解させます。しかし、それは表面的なものでした。

幕府に島津家に対するいやがらせをやめさせる一方で、竹姫に幕府を倒すように洗脳(せんのう)をさせます。やがてその倒幕の志が島津家の子から子へと受け継がれ、13代将軍家定の代になって、島津家の娘の篤姫を家定に嫁がせ、将軍家定を毒殺したというものでした。

これが本当だったら怖い話ですね。

でも、天英院が本当に幕府を倒すつもりがあるのならば、7代将軍家継の後継を名君の吉宗ではなく、あまり領民からの評判のよくなかった尾張家の継友を推薦(すいせん)したと思います。しかも尾張家と近衛家は親せき関係だったそうですし。

というか、本当に天英院が倒幕派だったら、家継が亡くなった時の将軍不在のドタバタをもっと利用したはずです。将軍が決まらない状況なんて、幕府を倒すまたとないチャンスですからね。

それに、幕末の時代の島津久光は倒幕どころか、初めは佐幕派(幕府の味方)でした。後に倒幕へと傾くのですが、それはあくまで外国のこわさを理解し、日本が植民地になったらやばいと判断したからであって、個人的なウラミだとは僕には思えません。

竹姫は久光のひいおじいちゃんである島津重豪の養育をして、彼の藩政に影響を与えたのは事実ですが、倒幕どころか、むしろ幕府を憎まないように養育したんじゃないでしょうか?

島津重豪の娘は11代将軍の家斉の元に嫁ぎましたし。篤姫も、朝廷が幕府を本格的につぶそうとしたときに、和宮とともに徳川家の存続を薩長に対して懇願したといわれています。話を天英院に戻して、もしも天英院がいなかったら幕府はもっと早く滅んでいたと私は思います。




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1 ギャンブル好きだった?五十六
 山本五十六(やまもといそろく)がマージャンやポーカーといったギャンブルが好きだった事は、本を読むまで知らなかったです。日本が生き残るかほろびるかの大変な状況じょうきょうの中で、そういったものが五十六にとって良い息抜いきぬきになっていたと思われます。息抜きもそうだが、ギャンブルを通して勝負のカンをみがいていたのかもしれません。

後に五十六はムチャともいうべき真珠湾攻撃しんじゅわんこうげきを断行するのですが、ある意味ギャンブル好きの彼らしい決断w?

とはいっても、五十六は行当たりばったりの人間ではなく、ちゃんと先見の目もあったようです。当時の日本は戦艦せんかん大和が象徴しょうちょうするように一種の巨大戦艦信仰きょだいせんかんしんこうがありました。巨大戦艦信仰が根強い中でも、五十六は、戦艦せんかんよりも戦闘機せんとうきの方が役に立つ事を理解していていました。


2 アメリカとの戦争に反対した五十六

 山本五十六はアメリカにわたって圧倒的あっとうてきな国力を身を持って体験しました。それで、「日本はアメリカと戦争をするべきではない」と、五十六は理解しました。

だから五十六は、ドイツとイタリアとの同盟に反対していました。当時のドイツはアメリカと対立していて、もしドイツと組めば、アメリカとの戦争は避けられないと五十六は考えていました。そんな事もあってアメリカにくしの右翼うよくから命をねらわれることもあったとか。

しかし五十六の意思とは裏腹うらはらにドイツとイタリアと日本とで三国同盟は結ばれ、日本とアメリカとの戦争がけられなくなりました。

ここで、五十六はどうしたのでしょうか?

五十六は真珠湾にてアメリカ軍を攻撃し、アメリカの戦意を失わせ、アメリカと早期に講和をしようと考えました。

「アメリカとの戦争を避けられない以上は、やるしかない。でも、やるからには早く戦争をおわらせねばならない」と思ったのかもしれません。このときの五十六の苦悩くのうはかり知れません・・・・

ところが、外務省のミスで宣戦布告せんせんふこくの通知がおくれてしまい、通知よりも先に真珠湾でアメリカの艦隊かんたい爆撃ばくげきをしたために、「日本、今に見てろよ!」ってアメリカの戦意を失うどころか、かえっておこらせてしまいました。

これは五十六にとって、いや日本にとって大変なミスだったようです。後悔こうかい先に立たず」。そんな言葉が思わずかびます・・・


3 よき家庭人の山本五十六

 ところで、五十六は戦場という修羅場しゅらばをはなれ家庭にもどれば、子どもにめっぽうあまいお父ちゃんだったようです。子どもといいっしょに食事をしたりする事はほとんど無かったものの、体が弱かった息子のことを気遣きづかい、メロン、パパイヤ、マンゴーといった高いものを息子に買ってあげたそうです。病気で授業におくれるとイラだつ息子に「休んでおれ」ともいったとか。

しかし、真珠湾間近の12月3日の夜の山本家はさすがに重苦しい雰囲気ふんいきだったそうです。その時の献立こんだてみそ汁と野菜の煮物にものと小さなタイだったが、五十六はタイだけは手をつけなかったといわれています。

タイはおめでたさを象徴しょうちょうするお魚です。それに手をつけなかったということは、おめでたい気持ちになれなかったのでしょう・・もうこの家に生きてもどることは無いであろうと五十六は感じたのかもしれません・・・

真珠湾攻撃以降アメリカと日本の戦争はドロぬま化。山本五十六は60をこえたにもかかわらず戦闘機せんとうきに乗りこみ、アメリカの攻撃こうげきにあい亡くなりました・・・。

オマケ

山本五十六の映画の予告編の動画を見つけたのでご紹介します。僕はまだ見た事がないので、今度レンタルしてみようかと。





聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実- [DVD]


参考文献



海燃ゆ―山本五十六の生涯

「添了麻煩」

どういう意味でしょう?

実は「添了麻煩」の言葉が出てきたのは、1972年の中国交正常交渉のときです。この言葉を日本側の通訳が周恩来に語った途端に、周恩来は血相を変えて怒りました。場の空気もその一言で一瞬で凍ってしまったそうです。

どうしてでしょう?

交渉に臨んだ田中角栄が「先の大戦で中国に日本は大変な迷惑をかけた」と述べ、その「迷惑をかけた」を「添了麻煩」と通訳は訳したそうです。

周恩来が激怒した理由は「添了麻煩」では、お詫びの言葉としては非常に軽いから。僕はまだ中国語初心者だから、あんまり中国語のニュアンスの違いについては良くわからないのですが、そんなにお詫びの言葉としては軽い表現なのでしょうか?

日本語の「迷惑」という漢字をそのまま中国語にすると「正気をうしなう、迷う」って意味になるそうです。「日本は中国を迷わせました」じゃおかしいですしw

でも、「添了麻煩」という言葉が軽いお詫びの意味であると日本側の通訳が知らなかったわけではないそうです。これは、日本の親台派の反発を恐れて、このような表現を用いたそうです。親台派とは中国大陸よりも台湾を支持する政治家のこと。親台派の政治家といえば、元総理の岸信介さん、福田赳夫さん等がそうでした。最近では石原慎太郎さんも親台派の政治家といえそうです。

先の大戦で「日本は中国に対して本当に悪い事をした、ごめんなさい!!」という気持ちはある。けれど、あんまりへりくだった言い回しをすれば、今度は国内の親台派から「土下座外交」と批判をされてしまう。

何回も何回も原稿を推敲して、角栄や外務省の官僚が考えに考え抜いてやっと出てきたのがこの表現なのだといわれています。

中国側は「添了麻煩」という言葉に「日本の戦争に対する歴史認識が現れている」と不快感を示し、日本側は「言葉尻を捉えた言いがかりではないか?」と困惑するばかり。言葉の使い方は、難しいですね。

ともあれ、この交渉で日中国交正常化はされたのは、歴史が示すとおりです。


(参考文献)

日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
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氷川清話 (講談社学術文庫)
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1 中国との戦争に反対した勝海舟

明治のころは、朝鮮半島ちょうせんはんとうをめぐって日本と中国(しん)がはげしく対立し、両国は戦争になってしまいました。。でも、勝海舟(かつかいしゅう)は日清戦争を反対していたそうです。(日清戦争)。


2 氷川情話より


 ”かちうみぶね”じゃなかったw勝海舟がどんな事を言っていたか?それは、『氷川清話』(ひかわせいわ)に書いてあります。以下「『氷川清話』より引用します。


「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟ケンカだもの。犬もはないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国のやつらが分からぬに限る。支那しなの実力が分かったら最後、欧米おうべいからドシドシしかけてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。」


「一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客こきゃくサ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。」


3 勝が心配していたことが現実に


 勝海舟が心配していたことは、日清戦争後に現実のものになります。日清戦争(下関条約しものせきじょうやく)で手に入れた遼東半島りゃおとんはんとうはけっきょくロシア・ドイツ・フランスが間に入って中国に返すようになったし、ロシアも朝鮮半島のちかくまで南下してしまいます。

昭和に入ってからも、日中両国の関係は悪化するばかり。そうしておきたのが日中戦争です。日本は「中国なんて弱い、ラクショーじゃんw」と思っていたようですが、実際は戦争はドロぬま化します。元日本兵だった男性は中国兵のことを「強かったですわ」と語っております。

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日清講和記念館。ここで下関条約が行われた。山口県下関の春帆楼(しゅんぱんろう)という旅館にある。

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日清講和記念館の中。実際に条約が行われたところ。


オマケ
 
今日は日本だけでなく、中国の人にも人気のある谷村新司さんの歌を。曲は「すばる」。中国では「星」という題で親しまれています。

谷村新司さんは、中国の人にとても尊敬されていて、「日中友好の使者」だと絶賛ぜっさんされています。




http://www.youtube.com/watch?v=4_UXWMwq03Q
(映らなかったらごめんなさい)

また、こちらの記事もよろしかったらどうぞ。 

意味深な勝海舟の言葉

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