history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

1 元寇の話がやたら長い
 「日本国紀」の鎌倉時代に関する記述はおよそ18ページにわたっておりますが、そのうち8ページほどにわたって書かれているのが、文永の役、弘安の役、つまり元寇の話なのです。百田先生にとって、元寇はとても重要なテーマだってことがわかります。なにしろ、元軍の侵略を日本は戦って防いだのですから。「元寇と同じように近々、日本にきっと中国が攻めてくるから、国防を強化して、若者を兵役につかせろ!」って百田先生の声が読んでいて聞こえてきましたよ。別に悪いって言ってるんじゃないですよ、ただ、僕と百田先生の考え方が違うって言っているだけですから。

元寇の時の幕府の執権は北条時宗でした。時宗は若くして執権になりました。百田氏は、

「執権だった北条政村まさむらは、この国難に対し、鎌倉武士断の団結を高めるため、六十二歳である自身は引退し、北条得宗家とくそうけ時宗ときむねに執権の座を譲った。驚くべきことに、この時、時宗は満十六歳であった。
(P98)



「驚くべきことに」という言い方が何か引っかかって、いろいろ資料を調べたところ、北条政村は実は引退しておらず、安達泰盛あだちやすもり平頼綱たいらのよりつななどの幕府の有力者らとともに若い時宗を盛り立てていたのですね。そりゃ若干十六歳の若者にいきなりこの国難を任せるのはリスクがたかいですからね。

「北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする調停を抑えて、黙殺する態度を貫いた。(中略)無礼な手紙に対して返書をしないのは当然である」(p98)



僕も思わず「へ?」って思って、資料を調べたら、やはり幕府は断固たる態度で元の要求をはねつけたというよりも、執権が若いので時間稼ぎをする必要があったのですね。国内体制を整え、迎撃の準備を進めるための北条政村や、安達泰盛らの作戦だったようですよ。

「世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけである。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思う。」(p105)


百田先生らしい記述だなと思いましたが、これもからくりがありまして。実は元のフビライは日本との交渉の際や日本への攻撃の際、高麗を利用しておりますが、元に対する高麗の抵抗は結構すごくて、元の日本攻撃へのかなりの障害になっていたそうです。1270年に朝鮮半島で起きた三別抄さんべつしょうの乱。当時の高麗は元の事実上の支配下にあったのですが、1270年に高麗の武将たちによる抵抗運動があったのです。その戦いはすさまじいものでした。それが三別抄さんべつしょうの乱。高麗も日本に援軍を要請したほどでした。結局、幕府は高麗に一切協力することはなかったのですが。先ほど、幕府が時間稼ぎをしたというのも、こうした朝鮮半島における元と高麗の情勢があったからなのですね。

1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、あしかけ4年にわたった反乱は収束するのです。実は、1274年の文永の役(最初の元と日本の)戦いは、そうした激しい戦いの翌年に行われたものです。もちろん、日本側の武士の奮闘もありましたしたが、「三別抄の反乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。」という意見もあるほどです。

文永の役のあとに元は南宋と戦って、南宋をほろぼしていますが、その戦いによる損害もそうですが、支配した中国での徴兵忌避きひなども重なり、兵力を多く集めた割には軍の指揮系統の乱れや士気の低下も見られました。元の捕虜になった兵士たちもやる気をなくし、元に協力するつもりもなかったようです。次の弘安の役でも、日本兵の踏ん張りもありましたし、暴風雨もそうですが、元軍の士気が低く、戦の途中で逃亡するものもいたほど。いくら兵隊を集めたって、士気が低ければどうしよもないですね。

実はフビライは三度の日本侵略を考えていたのですが、ベトナムの反乱があって結局、日本侵略はおじゃんになりました。元は日本に二度も攻めましたが、その前後で、中国、朝鮮、ベトナムの激しい抵抗運動があったのです。そうしたことが日本が蒙古を打ち破ることができた要因の一つなのですね。

それにもともと元が日本に求めたのは通交でした。日本に最初から侵略する意図はなかったのです。

2 なぜか触れられていない日蓮宗と時宗
 百田先生は、鎌倉仏教について「日本国紀」のp108からp109にかけて触れておりますが、なぜか、鎌倉仏教のうち、日蓮宗については触れられておりません。法然と親鸞、つまり念仏宗のことは詳しく書かれておりますが、日蓮宗に関しては全く。なんで?って思いましたよ。日蓮は辻説法をしながら、幕府の政治の在り方を批判し「立正安国論」を北条時頼にだしたほどでした。今の政治のままだと外国に攻められてしまうかもしれないとも日蓮は言ったのですね。事実、そうなったのですが。時宗の代になって、日蓮は幕府の政治を批判したという理由で逮捕されてしまいます。鎌倉幕府を語るうえで日蓮は重要人物の一人なのですが、まったく語られていないのは不自然です。

禅宗の説明もあっさりで、臨済宗と曹洞宗の名前もでてきません。禅宗は鎌倉武士にも受け入れられ、執権である北条時頼も建長寺(臨済宗)を建立したほどなので、禅宗の説明ももっとあったほうがよかったんじゃないかって思うのですが。

さらに時宗も取り上げていない。踊念仏といわれ、民衆の間で熱狂的に広まったほどなのですが。

3 護良親王が全く触れられていない。
 いよいよ南北朝の話になりますが、楠木正成のことはよく触れられておりますが、護良親王のことが「日本国紀」で全く出てこないのは、護良親王ファンである僕には悲しいものがありました。僕なんか、このブログでいくつものエントリーに分けて護良親王をとりあげたのにw

楠木正成も南北朝の戦いにおいて重要人物かもしれないが、護良親王の活躍は大きいと思います。

楠木正成は、楠公とよばれるほどで、戦前、戦時中と彼のことを学校で教えられたのです。百田先生は、当然戦前・戦時中支持派ですから、楠公を持ち上げるのは当然でしょうね。

* 参考文献ならびに参考サイト
日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12








日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12



1 戦時中なら不敬罪?
 
(保元の乱は)崇徳上皇すとくじょうこう後白河天皇ごしらかわてんのうの争いだが、この争いの背景には、雅とはほど遠いどろどろした人間ドラマがあった。それは崇徳上皇の出世にまつわる話が発端になっている。崇徳上皇は鳥羽上皇とばじょうこうの子供ということになっているが、本当の父親は鳥羽上皇の祖父の白河法皇である。つまり白河法皇が孫の妻と不倫してうまれた子が崇徳天皇(のちの上皇)だったのだ。このことは正史に書かれていないが、様々な状況証拠から、おそらく事実である。(『日本国紀』p82)


信西しんぜいは後白河法皇と男色関係にあったという噂もあるが、これは単なる中傷といわれている。(p86)


自分(平清盛)は白河法皇が祇園女御ぎおんのにょうごに産ませた子という噂を広めていたためだ(事実ではない)(p87)


読んでみて、天皇に対して不倫だの男色関係だのいろいろときわどい話をされておりますが、そんなこと言って大丈夫かw?戦時中だったら、百田先生、不敬罪になりそうですね。もちろん、これらのことはすべて事実ではないのですが、曲がりなりにも「正史」といっておきながら、こういう際どい話をするのもなんだかなって。

それに、もしも、保元の乱の原因が、不倫だのそういったことだとしたら、そんな理由で戦争するなんて天皇家は良くないなって思いますね。保元の乱の背景は貴族や武士の対立がからんでいて複雑な理由がからまった起きたもので、不倫だのそんな理由ではないと思われます。



2 崇徳上皇の怨霊?
 
崇徳天皇(上皇)は日本最大の怨霊おんりょうとされている。死後に都で様々な異変や凶事が相次いで起こったからだが、最も大きなわざわいは「皇を取って民とし民を皇となさん」という予言が実現したことだ。崇徳上皇の死後まもなく、武家出身の平清盛が天皇や貴族に取って代わって政治の実権を握ることになった。(p85)


明治元年(1868)、政治の実権を握った明治天皇は即位の礼の際、京都に白峯宮しらみねぐう(現在の白峯神社)を創建し、崇徳上皇の怨霊を七百年ぶりに讃岐さぬきから京都へ帰還させ、怨霊との和解をはかった。その約百年後には、崇徳上皇が亡くなった香川県で昭和天皇が弐年祭を執り行っている。(p86)


菅原道真もそうですが、平安の昔は怨霊信仰がありまして、不幸な死に方をした人間は怨霊になって、現世の人間に災いをもたらすと信じられていたのですね。僕も人間の念というものは恐ろしいものだと思います。「皇を取って民とし民を皇となさん」の意味は、「天皇家はもはや天皇として民のうえにいる資格はないので、天下のためには民から天皇を出したい」。自分をこんな目に合わせた天皇家が憎い、もはや天皇家は人の上にたつ資格はない、平民から天皇を出したほうがいいってことでしょうね。それくらい崇徳上皇は恨んでいたし、悲しかったのかなって。百田先生は、この予言が的中し、平清盛が権力を握り、武士の台頭につながったみたいな書き方をされております。

日本史上、武家として初めて権力を握った平氏であったが、手法はそれまでの貴族政権を踏襲とうしゅうしたものにすぎなかった。平氏は貴族の真似事をしたかっただけのようにも思える。(p89)


なんか平家に対する悪意を感じるな。というか、百田先生は武家というか、天皇家以外のものが政治の実権を握るのは良くないといっているようにも、この一文から感じられます。

それに崇徳上皇は、讃岐に流罪後の生活はそれは穏やかなもので、さみしさと都を追われた哀しさをうたった和歌は残されているものの、天皇や貴族に対する恨みのようなものは当時の史料には一切残されていないとのこと。

3 戦による民の犠牲はありましたよ
「注目すべきことがある。それはこの戦い(源平の合戦)が、武士のみで行われたものであるということだ。一般民衆はまったく巻き添えになっていない」(p104)


僕はこの記述をかいて「ええ!?」って思いましたよ。僕みたいな素人が見ても疑問に思います。だいたい「まったく〜ない」という言い方からして怪しい。僕は予備校生時代、「全く」とか「必ず」という言葉が設問文にあったら、まず疑えって教えられたし、いまも「必ず」って言葉は信じておりません。

源平の合戦でも当然、民衆は戦に巻き込まれました。たとえば、平重衡たいらのしげひらが東大寺や興福寺など仏閣を焼き討ちにした事件(南部焼き討ち)。教科書にものっております。この焼き討ち事件で東大寺の大仏も完全に焼け落ちてしまい、多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死したといわれております。失火という説もありますが、『延慶本平家物語』でも「寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く」とありまして、計画的に行った可能性も高いです。しかし、これほどにまで被害が大きくなるとは平重衡も思わなかったとか。

IMG_1666


当時の民衆の言葉に「七度の飢饉ききんより一度の戦」ってありまして、一度の戦争は7度の飢饉よりひどく、それくらい争いは民草に災いをもたらすものって言われているのです。一ノ谷の合戦の前哨戦ぜんしょうせん三草山みくさやまの戦いでは民家も焼き払われたって記録もあります

それに、百田先生のご著書にも「京都を支配した(木曽)義仲きそよしなかは洛中で乱暴狼藉らんぼうろうぜきを働き」(89p)ってしっかり書いてあって、「民衆はまったく巻き添えになっていない」とすでに矛盾しているのですが・・・

源頼朝は自分の軍に略奪を禁じたといいますが、それくらい当時の武士たちにとって略奪を行うのは当たり前だったことでしょう。そうでなきゃ略奪を禁じる必要はないでしょう?

それと百田先生は「ヨーロッパや中国では、戦争となると必ず市民に多くの犠牲が出る」(p」90)とあります。「必ず」とありますが、確かにそれは事実です。けれど、百田先生の言い方だと、最近、ようつべで流行の「日本すげー、中国、韓国ダメダメじゃん」動画と同じです。日本でも戦争のときは、市民に犠牲者が出たんですよ。太平洋戦争はもちろん、源平の合戦の時代ではないけれど、戦国時代なんてひどいものでしたよ。

※ 参考文献


 



1 遣唐使けんとうしの廃止がそんなに大事か?
『日本国紀』の感想を再開します。僕は筆者の百田先生を論破できるほど歴史には詳しくないのですが、それでも「え?」と思うことがたびたびです。読み始めてから今日になって平安時代まで読み進めましたが、僕はこの一文に目が留まりました。

「平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使けんとうしの廃止である。」(p68)

はて?平安時代といえば、坂上田村麻呂の東北遠征だの、菅原道真の失脚事件だの、(後で取り上げる)刀伊の入寇だの、平将門の乱、藤原純友の乱だの、前九年後三年の役だの、果ては源平の合戦だの、大きな出来事結構ありますが。ともあれ百田先生にとって何より大事なのが、遣唐使をやめたことなのだと解釈できました。遣唐使をやめたことによって中国と断交できた、そのことが何より大きな出来事だということでしょうね。百田先生が昭和初期にいたら、松岡洋祐外相の国際連盟脱退をもろ手を挙げて支持しそう。

「私は、この遣唐使の廃止を日本が中国の文化を必要としないという自信の表れであったと見ている」(p69)

この言い方だと、中国よりも日本の文化のほうが優れているみたいなニュアンスです。最近、ようつべやXで見かける、日本すげー、中国韓国ダメ系の動画やつぶやきみたい。

しかも、遣唐使は中止しただけであって、廃止したわけじゃないそうですね。遣唐使中止を決めたのは菅原道真ですが、菅原道真は唐を見下していたのではなく、現実問題、戦乱で唐の国力も衰えているし、しかも航海は命がけ、リスクは大きすぎる。もう少し、唐の国内が安定したら再開しましょうって感じだったようですよ。けれど、日本国内の災害や唐の衰退、ほかにも色々な事情があって遣唐使派遣は遅々として進まず、もたもたしているうちに唐が滅んじゃったっていうのが真相だそうです。

むしろ遣唐使が終わってからも、朝鮮や中国の使節は往来したといいますし、民間の商人は中国との交流があったそうですよ。

百田氏は、遣唐使を中止することで、国風文化と呼ばれる日本独自の文化が花開いたといいますが、まるで中国の文化を日本が拒絶したみたいな言い方です。が、「唐物」といいまして貴族たちの中国に対するあこがれはむしろ高まり、商人経由で中国の品々を買い求めた貴族もいたといいます。

2 仮名文字の発明
 百田氏は仮名文字の発明についても言及されております。 

「それまでは文章を書く際は、漢文を使うか、そうでない場合もすべての文字を漢字を使用していた。(中略)最初に仮名を使用したのは9世紀初めの僧侶たちだった。彼らは経典などの難読文字の横に、読みやすいように省略文字でふりがなをふった。たとえば、江→エ、止→ト、多→タ、という具合だ。これが片仮名の由来である。片仮名はその後も漢文の読みを表す補助的な文字で使われた。その後、感じの草書体から平仮名が編み出された。平仮名は片仮名に比べ優美な曲線をもっていたことから、宮中で働く女官たちが好んで使った。そのため「女手おんなで」とも呼ばれた。この平仮名の発明は日本語における表現力を飛躍的に発展させた。」(p69)

百田先生は漢字は日本人が発明した、いわゆる漢字日本発祥説は主張されていないことは理解できました。そりゃそうですよね。最近のネトウヨと違いますね。いまのネトウヨは平気で漢字日本発祥説をいいますからw。Xみてるとマジでそれをつぶやき、しかも結構「いいね」がついて拡散されているから、真に受けている人もいると思う。今日はエイプリルフールですがw、ついていいウソといけないウソがある。

確かに日本人が発明した漢字もあるのも事実です。和製漢字といいまして、「笹(ささ)」とか「躾(しつけ)」。でも、基本的に漢字が発明されたのは中国。その漢字をもとにして作ったのが、仮名文字ですから。

3 刀伊の入寇といのにゅうこう
刀伊とい の入寇に関しましては、僕はこの『日本国紀』で知りました。刀伊といとは1019年に起きた出来事で女真族じょしんぞくの一派の海賊集団のことで、壱岐・対馬いき・つしまを襲い、さらに九州に侵攻した事件のことです。300人以上の人が殺され、1000人以上の人が拉致らちされたといいます。北朝鮮の拉致事件みたいな出来事が平安の昔からあったのかと思いましたね。しかも壱岐島の国司である藤原理忠ふじわらのまさただも殺害されたといいます。家屋も結構焼かれ、強奪もされたといいます。当時の朝廷は危機感を持ったといいます。

「この大事件に、朝廷が取った行動は常軌じょうきしたたものだった。何と武力を用いず、ひたすら夷狄調伏いてきちょうぶく(*1)の祈祷きとうをするばかりだったのだ。」

刀伊を撃退したのは太宰権師だざいごんのそち(大宰府の次官)だった藤原隆家ふじわらのたかいえです。百田先生は朝廷が武力を用いずと仰っておりますが、藤原隆家は朝廷の人間ではなかったってことでしょうか?矛盾していますね。大宰府の次官なら朝廷関係者でしょう。藤原隆家はみ出し者だと『日本国紀』で説明しておりますが、はみだしものというのは左遷どころか、朝廷から身分を完全にはく奪され、本当に野武士みたいにフリーになった人のことでしょう。

さらに同じ年の6月に高麗こうらいが使者を日本に派遣して、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送り返してくれたのですね。そして隆家は、そのお礼に高麗の使者にろくを与えたそうですね。なぜか、この辺の話は『日本国紀』には書いておりません。高麗が日本人捕虜を救ったなんて話は都合が悪いってこと?

朝廷は祈祷をしたのがおかしいといいますが、この時代は別に珍しいことではないのです。なにしろ帝が病気になると加持祈祷を行ったような時代ですからね。何か事件とか問題があると昔の人たちは祈祷を行ったんですよ。令和の今だって神社で病気平癒びょうきへいゆだとか家内安全、交通安全はもとより、コロナの時も疫病退散の祈祷を行ったでしょう。要するに百田先生は平安時代は比較的平和な時代で、現在の日本と似ていると。それで人々が平和ボケになり、祈祷を行った朝廷を今の日本の政府の国防意識の低さと重ねたのでしょう。刀伊の入寇を例に挙げ国防の意識を高めなきゃダメだと主張されていることがよく理解できました。

この刀伊の入寇の意義は大変なもので、この事件を契機に国防の重要性が高まり、武士の台頭にもつながったのは本当のことです。

 飛鳥時代の政府(朝廷)は、防人制度さきもりせいどを作ったり大宰府だざいふ水城みずきを築いたりして、常に外国からの侵略に備えていたが、三百年も平和が続くと、朝廷も完全は平和ボケにおちいり、国を守るという考えが希薄になっていた
(p81)


百田先生は、飛鳥時代を明治から昭和初期にたとえ、平安時代が今の日本と同じだと仰りたいのでしょうね。少なくとも、平安時代も決して平和な時代ではなく、いろいろと争いもありました。それと桓武天皇かんむてんのう健児の性こんでいのせい郡司ぐんじの子弟たちや弓馬きゅうばに秀でた農民たちで構成された兵士たちを組織しております。だから、平安時代の朝廷だって平和ボケではなかったのですね。


*参考サイトならびに参考文献




百田尚樹の『日本国紀』の感想を書いてみて、「う〜ん」と思うこと多々あったのですが、『日本国紀』の突っ込みどころといいますか、『日本国紀』を通して知った話もいろいろありました。大伴部 博麻 おおとものはかまの存在もそうです。

今日は、「日本国紀」の感想をいったんお休みして、大伴部の話をします。

大伴部は、新羅の攻撃によって滅亡した百済を再興すべく派遣された人間です。こうした日本の百済再興運動は白村江の戦い(*1)に発展します。

大伴部は唐軍にとらわれて長安まで送られてしまいます。長安には唐と日本が戦争状態になったために捕まった4人の遣唐使がいたのです。664年に唐が日本侵略を企てていることを大伴部が知ってしまった。それで、自らを奴隷として売り、そうして得たお金を4人の遣唐使たちの帰国資金に充てたといいます。4人は671年に帰国し、唐が日本侵略を企んでいることを伝えたといいます。

唐に残された大伴部は長安に残ったのですが、690年に許され、帰国することができたのです。そして持統天皇は大伴部の功績をたたえ、官位を与えたり、褒美もあたえ、また、子孫三代に渡って水田を相続を許可する事と税の免除を約束しました。

そして、勅語も送りました。「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」と。なんて読むのか不勉強の僕にはわかりませんが、この勅語には「愛国」という言葉があります。そして、この勅語は天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語だといわれております。第二次世界大戦時の日本で大伴部博麻は愛国心の象徴的存在として崇められたといいます。

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12



1 『l嫌韓流』のような主張
百田氏の『日本国紀』の飛鳥時代、奈良時代の章を読ませていただきましたが、一言でいえば、朝鮮や中国に関して、敵意を通り越して、侮辱ぶじょくさえ感じられる記述がみられました。まるで『嫌韓論』みたい。たとえば、

  1. 「朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対である」(p40)


  2. 「遣唐使は朝鮮半島を経由しない海路を通った」(p49)


  3. 「現在は語られることはないが、中国には古代から近代まで『食人文化』があった(p50)


てな具合。

まず1ですが、筆者は、朝鮮の外交がヘタレという一方で、聖徳太子がずい煬帝ようだいに対して毅然とした外交を行ったことを称賛しております。でも朝鮮半島の国々が必ずしも中国の王朝に対して平身低頭の態度ばかり取っていたわけじゃないのですね。

たとえば隋と高句麗は緊張関係にあって、たびたび隋と高句麗は戦争を行っていたのですよ。いわゆる隋の高句麗遠征というもので、煬帝の父である楊堅ようけんの代からはじまって煬帝も高句麗に戦いを挑みました。それは598年から614年の間で4回もあったといいます。高句麗は隋の大軍に屈せず、4度の遠征のうち3度も勝利しております。そのうち三回目の第三次遠征(613年)では高句麗の抵抗も激しく、隋国内で内乱があって軍を引き上げる羽目になったのです。

このように隋と高句麗は戦争状態にありました。はじめ、聖徳太子からの「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」から始まる国書について、煬帝も怒ったのですが、煬帝としても日本と結んでおくのも悪い話ではないと思ったのでしょうね。

2についてですが、何もここまで嫌韓的な態度を示さなくてもって思いました。「韓国がよく『日本の文化は朝鮮が伝えた』と主張するが、史実があやふやな古代は別にして、遣唐使以降の文化や技術の輸入には、朝鮮はまったく関与していないといえる。」(p49)と『日本国紀』に書いてありますが、そもそも遣唐使が朝鮮半島を通らなかったのは陸路より海路のほうが便利だし、まして、朝鮮が嫌いだから海路を通ったなんてことはありえません。

それに遣唐使はあくまで政治的外交であって民間レベルだと朝鮮との交流もあったといいます。政治的外交と民間の通商は別物です。それどころか、新羅の使節もあったといいます。8世紀末には、新羅からの使節は途絶するものの、9世紀前半になると新羅商人が日本にやってきたといいます。

Kentoshi_route


3ですが、確かに中国では食人の記録は明の時代までありました。けれど、それが文化と断定はできないんですよ。たしかに人を食う話はあったけれど、文化と呼べるほどの広がりではなかったというのが真相です。


また、このような記述も気になりました。

 「私は大胆な仮説を述べたい。百済は日本の植民地に近い存在であった」(p46)。百済に大和朝廷から派遣された重臣が駐在していたこと、百済がほろんだとき、多くの百済人が日本に亡命したことを百田氏はその根拠とされているようですね。さすがにそれはないでしょう。任那 にんなが日本の植民地に近い存在というのなら、話は分かりますが。



2 17条の憲法のすごさ
 百田氏は『日本国紀』におきまして、聖徳太が制定した「17条の憲法」を称賛しております。僕もその点は全く同意です。ただ、百田氏は日ごろからネ〇ウ〇的な発言が目立ち、てっきり北朝鮮のような「軍国独裁国家」を肯定しているかと僕は思っていただけに、意外に思えたのですね。

まず、百田氏は、十七条の憲法第一条の「和を以て貴しと為し、さからふこと無きと宗とせよ」(原文は漢文)について、「世界の国のほとんどが先制独裁国であった時代に、『争うことなく、話し合いで決めよう』ということを第一義に置いた憲法というのは、世界的にも珍しい画期的なものであったといえる。」(p43)って称賛しているのですね。つまり民主主義を世界のどの国よりもも取り入れたことが素晴らしいと筆者は主張しているのですね。

それと百田氏は、「17条の憲法」において個人崇拝を否定していることを称賛しているのですね。
「さらに驚くべきは、第三条にようやく『天皇のみことのりを大切にせよ」と書かれていることだ。聖徳太子は天皇の摂政であり、同時に皇太子であったわけだから、これを最初に持ってきても何ら不思議ではない。しかし太子はこれを三番目に置いた。(中略)しかも「天皇」そのものではなく、天皇の「詔」を大切にせよと書かれている。これは個人崇拝を求めていないということを意味している。」(p43〜44)
と書いてありました。ということは、百田先生は、民主主義を重視して、個人崇拝を否定する立場なんだなって理解してよいのですね。

ちなみに17条の憲法は、厳密にいうと「憲法」ではないのですね。役人の決まり事とか、掟を定めた者であって憲法ではないのです。憲法とは「国家の統治権」を規定する法律のことです。



3 『逆説の日本史』の影響か?
 百田氏は天智天皇と天武天皇は兄弟じゃなかったみたいないい方をされておりますが、僕は「そうなの?」って思いましたよ。僕はずっと日本史で兄弟だと教わりましたが。天武天皇と天智天皇が血と血で争う戦争(壬申の乱)をしたのも、兄弟じゃないとしたら納得できるって主張ですが、それだけで二人が兄弟じゃないと主張するのは弱いですね。僕は普通に二人は兄弟だって考えたほうが無難のような気がするのですが。

それと、調べてわかったのですが、天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないって言い出しっぺは、百田氏ではないみたいですね。

どうも『逆説の日本史』の井沢元彦が天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないって説の言い出しっぺのようですね。僕は『逆説の日本史』って読み物としては面白いけれど、それが歴史的に正しいかといえば、?と思うことが多いんですよね。そして、百田氏の『日本国紀』は、天智天皇と天武天皇の話だけでなく『逆説の日本史』の影響を結構受けているみたいなんですよね。でも、その割には『日本国紀』には『逆説の日本史』を参考にしたとは書かれていないし、それどころか、普通こういった歴史本には参考文献なりサイトが書かれているのですが、それがないんですよね。




※1 663年に日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争。日本が百済を助けようとして新羅と戦ったが、新羅は唐に助けられ、日本軍を打ち破った。

※ 参考サイト
 


このページのトップヘ