1 元寇の話がやたら長い
「日本国紀」の鎌倉時代に関する記述はおよそ18ページにわたっておりますが、そのうち8ページほどにわたって書かれているのが、文永の役、弘安の役、つまり元寇の話なのです。百田先生にとって、元寇はとても重要なテーマだってことがわかります。なにしろ、元軍の侵略を日本は戦って防いだのですから。「元寇と同じように近々、日本にきっと中国が攻めてくるから、国防を強化して、若者を兵役につかせろ!」って百田先生の声が読んでいて聞こえてきましたよ。別に悪いって言ってるんじゃないですよ、ただ、僕と百田先生の考え方が違うって言っているだけですから。
元寇の時の幕府の執権は北条時宗でした。時宗は若くして執権になりました。百田氏は、
「驚くべきことに」という言い方が何か引っかかって、いろいろ資料を調べたところ、北条政村は実は引退しておらず、安達泰盛、平頼綱などの幕府の有力者らとともに若い時宗を盛り立てていたのですね。そりゃ若干十六歳の若者にいきなりこの国難を任せるのはリスクがたかいですからね。
僕も思わず「へ?」って思って、資料を調べたら、やはり幕府は断固たる態度で元の要求をはねつけたというよりも、執権が若いので時間稼ぎをする必要があったのですね。国内体制を整え、迎撃の準備を進めるための北条政村や、安達泰盛らの作戦だったようですよ。
百田先生らしい記述だなと思いましたが、これもからくりがありまして。実は元のフビライは日本との交渉の際や日本への攻撃の際、高麗を利用しておりますが、元に対する高麗の抵抗は結構すごくて、元の日本攻撃へのかなりの障害になっていたそうです。1270年に朝鮮半島で起きた三別抄の乱。当時の高麗は元の事実上の支配下にあったのですが、1270年に高麗の武将たちによる抵抗運動があったのです。その戦いはすさまじいものでした。それが三別抄の乱。高麗も日本に援軍を要請したほどでした。結局、幕府は高麗に一切協力することはなかったのですが。先ほど、幕府が時間稼ぎをしたというのも、こうした朝鮮半島における元と高麗の情勢があったからなのですね。
1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、あしかけ4年にわたった反乱は収束するのです。実は、1274年の文永の役(最初の元と日本の)戦いは、そうした激しい戦いの翌年に行われたものです。もちろん、日本側の武士の奮闘もありましたしたが、「三別抄の反乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。」という意見もあるほどです。
文永の役のあとに元は南宋と戦って、南宋をほろぼしていますが、その戦いによる損害もそうですが、支配した中国での徴兵忌避なども重なり、兵力を多く集めた割には軍の指揮系統の乱れや士気の低下も見られました。元の捕虜になった兵士たちもやる気をなくし、元に協力するつもりもなかったようです。次の弘安の役でも、日本兵の踏ん張りもありましたし、暴風雨もそうですが、元軍の士気が低く、戦の途中で逃亡するものもいたほど。いくら兵隊を集めたって、士気が低ければどうしよもないですね。
実はフビライは三度の日本侵略を考えていたのですが、ベトナムの反乱があって結局、日本侵略はおじゃんになりました。元は日本に二度も攻めましたが、その前後で、中国、朝鮮、ベトナムの激しい抵抗運動があったのです。そうしたことが日本が蒙古を打ち破ることができた要因の一つなのですね。
それにもともと元が日本に求めたのは通交でした。日本に最初から侵略する意図はなかったのです。
2 なぜか触れられていない日蓮宗と時宗
百田先生は、鎌倉仏教について「日本国紀」のp108からp109にかけて触れておりますが、なぜか、鎌倉仏教のうち、日蓮宗については触れられておりません。法然と親鸞、つまり念仏宗のことは詳しく書かれておりますが、日蓮宗に関しては全く。なんで?って思いましたよ。日蓮は辻説法をしながら、幕府の政治の在り方を批判し「立正安国論」を北条時頼にだしたほどでした。今の政治のままだと外国に攻められてしまうかもしれないとも日蓮は言ったのですね。事実、そうなったのですが。時宗の代になって、日蓮は幕府の政治を批判したという理由で逮捕されてしまいます。鎌倉幕府を語るうえで日蓮は重要人物の一人なのですが、まったく語られていないのは不自然です。
禅宗の説明もあっさりで、臨済宗と曹洞宗の名前もでてきません。禅宗は鎌倉武士にも受け入れられ、執権である北条時頼も建長寺(臨済宗)を建立したほどなので、禅宗の説明ももっとあったほうがよかったんじゃないかって思うのですが。
さらに時宗も取り上げていない。踊念仏といわれ、民衆の間で熱狂的に広まったほどなのですが。
3 護良親王が全く触れられていない。
いよいよ南北朝の話になりますが、楠木正成のことはよく触れられておりますが、護良親王のことが「日本国紀」で全く出てこないのは、護良親王ファンである僕には悲しいものがありました。僕なんか、このブログでいくつものエントリーに分けて護良親王をとりあげたのにw
楠木正成も南北朝の戦いにおいて重要人物かもしれないが、護良親王の活躍は大きいと思います。
楠木正成は、楠公とよばれるほどで、戦前、戦時中と彼のことを学校で教えられたのです。百田先生は、当然戦前・戦時中支持派ですから、楠公を持ち上げるのは当然でしょうね。
* 参考文献ならびに参考サイト
「日本国紀」の鎌倉時代に関する記述はおよそ18ページにわたっておりますが、そのうち8ページほどにわたって書かれているのが、文永の役、弘安の役、つまり元寇の話なのです。百田先生にとって、元寇はとても重要なテーマだってことがわかります。なにしろ、元軍の侵略を日本は戦って防いだのですから。「元寇と同じように近々、日本にきっと中国が攻めてくるから、国防を強化して、若者を兵役につかせろ!」って百田先生の声が読んでいて聞こえてきましたよ。別に悪いって言ってるんじゃないですよ、ただ、僕と百田先生の考え方が違うって言っているだけですから。
元寇の時の幕府の執権は北条時宗でした。時宗は若くして執権になりました。百田氏は、
「執権だった北条政村は、この国難に対し、鎌倉武士断の団結を高めるため、六十二歳である自身は引退し、北条得宗家の時宗に執権の座を譲った。驚くべきことに、この時、時宗は満十六歳であった。
(P98)
「驚くべきことに」という言い方が何か引っかかって、いろいろ資料を調べたところ、北条政村は実は引退しておらず、安達泰盛、平頼綱などの幕府の有力者らとともに若い時宗を盛り立てていたのですね。そりゃ若干十六歳の若者にいきなりこの国難を任せるのはリスクがたかいですからね。
「北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする調停を抑えて、黙殺する態度を貫いた。(中略)無礼な手紙に対して返書をしないのは当然である」(p98)
僕も思わず「へ?」って思って、資料を調べたら、やはり幕府は断固たる態度で元の要求をはねつけたというよりも、執権が若いので時間稼ぎをする必要があったのですね。国内体制を整え、迎撃の準備を進めるための北条政村や、安達泰盛らの作戦だったようですよ。
「世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけである。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思う。」(p105)
百田先生らしい記述だなと思いましたが、これもからくりがありまして。実は元のフビライは日本との交渉の際や日本への攻撃の際、高麗を利用しておりますが、元に対する高麗の抵抗は結構すごくて、元の日本攻撃へのかなりの障害になっていたそうです。1270年に朝鮮半島で起きた三別抄の乱。当時の高麗は元の事実上の支配下にあったのですが、1270年に高麗の武将たちによる抵抗運動があったのです。その戦いはすさまじいものでした。それが三別抄の乱。高麗も日本に援軍を要請したほどでした。結局、幕府は高麗に一切協力することはなかったのですが。先ほど、幕府が時間稼ぎをしたというのも、こうした朝鮮半島における元と高麗の情勢があったからなのですね。
1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、あしかけ4年にわたった反乱は収束するのです。実は、1274年の文永の役(最初の元と日本の)戦いは、そうした激しい戦いの翌年に行われたものです。もちろん、日本側の武士の奮闘もありましたしたが、「三別抄の反乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。」という意見もあるほどです。
文永の役のあとに元は南宋と戦って、南宋をほろぼしていますが、その戦いによる損害もそうですが、支配した中国での徴兵忌避なども重なり、兵力を多く集めた割には軍の指揮系統の乱れや士気の低下も見られました。元の捕虜になった兵士たちもやる気をなくし、元に協力するつもりもなかったようです。次の弘安の役でも、日本兵の踏ん張りもありましたし、暴風雨もそうですが、元軍の士気が低く、戦の途中で逃亡するものもいたほど。いくら兵隊を集めたって、士気が低ければどうしよもないですね。
実はフビライは三度の日本侵略を考えていたのですが、ベトナムの反乱があって結局、日本侵略はおじゃんになりました。元は日本に二度も攻めましたが、その前後で、中国、朝鮮、ベトナムの激しい抵抗運動があったのです。そうしたことが日本が蒙古を打ち破ることができた要因の一つなのですね。
それにもともと元が日本に求めたのは通交でした。日本に最初から侵略する意図はなかったのです。
2 なぜか触れられていない日蓮宗と時宗
百田先生は、鎌倉仏教について「日本国紀」のp108からp109にかけて触れておりますが、なぜか、鎌倉仏教のうち、日蓮宗については触れられておりません。法然と親鸞、つまり念仏宗のことは詳しく書かれておりますが、日蓮宗に関しては全く。なんで?って思いましたよ。日蓮は辻説法をしながら、幕府の政治の在り方を批判し「立正安国論」を北条時頼にだしたほどでした。今の政治のままだと外国に攻められてしまうかもしれないとも日蓮は言ったのですね。事実、そうなったのですが。時宗の代になって、日蓮は幕府の政治を批判したという理由で逮捕されてしまいます。鎌倉幕府を語るうえで日蓮は重要人物の一人なのですが、まったく語られていないのは不自然です。
禅宗の説明もあっさりで、臨済宗と曹洞宗の名前もでてきません。禅宗は鎌倉武士にも受け入れられ、執権である北条時頼も建長寺(臨済宗)を建立したほどなので、禅宗の説明ももっとあったほうがよかったんじゃないかって思うのですが。
さらに時宗も取り上げていない。踊念仏といわれ、民衆の間で熱狂的に広まったほどなのですが。
3 護良親王が全く触れられていない。
いよいよ南北朝の話になりますが、楠木正成のことはよく触れられておりますが、護良親王のことが「日本国紀」で全く出てこないのは、護良親王ファンである僕には悲しいものがありました。僕なんか、このブログでいくつものエントリーに分けて護良親王をとりあげたのにw
楠木正成も南北朝の戦いにおいて重要人物かもしれないが、護良親王の活躍は大きいと思います。
楠木正成は、楠公とよばれるほどで、戦前、戦時中と彼のことを学校で教えられたのです。百田先生は、当然戦前・戦時中支持派ですから、楠公を持ち上げるのは当然でしょうね。
* 参考文献ならびに参考サイト





