History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:鬼婆

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これは、福島県の二本松にある安達ケ原の岩屋です。この岩屋になんと人を食べるという鬼婆が住んでいたというから驚きです。この岩屋があるのが観世寺というお寺で、境内には鬼婆が出刃包丁を洗ったという血の池や鬼婆の石像などもあります。





僕がこの安達ケ原に住む鬼婆のことを知ったのは実は小学校の時です。小学校の時に読んだ『日本のミステリー』という怪奇や伝説が子供向けに書かれた本で、安達ケ原の鬼婆を知りました。僕も子供のころから、この岩屋に行きたいと願っておりました。けれど、なかなかその願いがかなわなかったのですが、昨年(2015年)に訪れることができました。長年の願いがかなったのですから、うれしかったですね。



どういうお話かというと、この鬼婆というのはもともと悪だったわけじゃなく、京都で公家の娘(姫)の乳母だったのです。乳母の名前は岩手といいました。しかし、この姫様が病気がちで、姫の病気をなおすには妊婦の生き肝を飲ますしかないと、ある祈祷師から言われたのです。





その姫の病気を治すために、乳母・岩手は東北まで行ったそうです。なにしろ新幹線も飛行機もなかった時代ですから、女一人で京都から東北まで長い道のりを何日もかけて歩いたのですから、大変な旅だったと思います。ちなみに岩手には幼い娘がいたのですが、娘を京において一人東北まで行ったのです。岩手は二本松に庵をかまえまして、若い妊婦を待ち構えていたのです。それも何年も。







そこへ、若い夫婦が岩手の庵にやってきたのです。嫁のほうが産気づいていたので、岩手はやったとおもったことでしょう。そして、岩手は快く若夫婦を庵に泊めました。夫が薬を求め外出をしたので、そのスキに若い妊婦を殺したのです。しかし、その岩手が殺した若い妊婦は、岩手の娘だったのです。



生き別れの娘を自らの手で殺してしまった岩手は気がくるってしまいました。それから岩手は鬼のような人間になり、庵に人を誘っては殺すようになったのです。





ある日、紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩木の庵に泊まりました。東光坊祐慶は岩木がニコニコ親切にもてなしたので、そんな恐ろしい女だとははじめは気づかなかったのです。







ところが、岩木が薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言い残して庵から出て行きました。けれど、見てはいけないといわれるとついつい見たくなるもの。祐慶がこっそり戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。びっくりした祐慶は、あの老婆こそ人を食い殺すこと鬼婆だと感付き、その庵から逃げ出したといいます。



祐慶が逃げたことに気づいた岩木は恐ろしい鬼婆の姿となってすごい速さで追いかけて来たのです。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えました。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたといいます。















そして、鬼婆は観音菩薩の功徳により成仏したといいます。その鬼婆のお墓がいまも残っており、黒塚とよばれております。



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(いづれも浅草寺の写真)

1 浅茅が原あさぢがはらの石のまくら
 今日は、東京の浅草あさくさに伝わる「浅茅が原あさぢがはらの石のまくら」のお話をします。

「浅茅が原」って何ぞやと思われる人もいらっしゃるかもしれませんが、大昔、花川戸はなかわどあたりは、浅茅が原と呼ばれていました。今の花川戸は東武伊勢崎線とうぶいせざきせんの浅草駅を中心にお店やビルがいくつも立ち並び、浅草寺せんそうじもすぐ近くなのですが、昔は宿屋やどやがまったくないような荒野こうやだったのです。

その浅茅が原には母とむすめが住んでおりました。旅人がまった時には、娘が誘惑ゆうわくし、ているところを母が石のマクラを使って殺害するのです。(石でできたマクラで寝かせて、寝ている所を旅人の頭を石でたたき割る)

2 娘が母のためにしたこと
 母親が人殺しばかりするので、それにえかねた娘は文句します。そりゃそうです。しかし、母は「生きていくためには仕方がない」と聞き入れてもらえません。そこで娘はどうしたか。


娘は自ら命をって、母に抗議こうぎをしたのです・・・

娘が自ら命をった経緯いきさつはこうです。ある日、1人旅の子どもが母と娘の家に泊まりました。娘は子どもをがし、自分がその子どもとすりかわりました。

母はなにもためらいもなく寝ている人間を殺してしまいました。寝ていたのが自分の娘だと知らずに・・・

変わりてた娘をみた母は「ああ、私は今まで何と悪いことをしてきたのだ・・」後悔こうかいしたそうです。


3 姥ヶ池(うばがいけ)


そこへ以前に泊まった子どもが再び現れました。実は子どもは、浅草寺の観音菩薩かんのんぼさつの化身であり、母に人の道を説くために子どもの姿で家を訪れたのでした。

その後は、観音菩薩の力でりゅうになった母が娘の亡骸なきがらとともに池へ消えたとも、母は仏の教えを信じるようになり、死者たちをとむらったともいわれています。

母が身を投げたという池は「姥ヶ池うばがいけ」と呼ばれ、今もあるようです。ただ、その池は母娘がいた時代よりもコンパクトになったようですが。(しかも池も干上がって水がないみたいですし)

また、浅草の浅草寺に鬼ばばが使ったという「石のマクラ」が今も保存されているそうです。ただし、「石のマクラ」は非公開だそうです。



(姥ヶ池の動画)



※参考文献

鬼 (Truth In Fantasy)
高平 鳴海
新紀元社
1999-08



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オニばばと聞くと、どんなことを連想します。うちの母ちゃんだなんていわないでくださいねw

オニばばの伝説は日本各地で伝わっています。有名なのは福島県の安達が原あだちがはらのオニばばでしょうか。

こうしたオニばば伝説の源流が、今日お話しする「石のまくら」伝説です。伝説とはいいますが、おどろいたことに本当に起きた出来事です。

何らかの理由や事情があって、村を追い出される者がいたとします。他の村に身寄みよりがいればよいのですが、そうじゃない人は人里はなれた荒野こうやをさまようことになります。

今で言えば、派遣はけん切りにあったものの、帰るところも無く、ネットカフェをハシゴするハメになったようなものでしょうか・・・

ムラを追い出された人たちは、畑をたがやすような時間的な余裕よゆうもありませんし、りをするといっても、うまく鳥やイノシシをつかまえられるとは限りません。

下手すりゃえ死にしてしまいます。生活をするためには、それこそ旅人をおそってお金や品物をうばうこと以外に生きる方法がなかったのです・・・そうして追いはぎへとなってしまうのです。

.オニばばに限らず、地方に伝わるおに伝説の多くは、こうした追いはぎをモデルにしているそうです。

しかし、男の追いはぎならともかく、女性の追いはぎならば男に返りうちにあうかもしれません。

それどころか、イヤラシイ男の旅人にエッチをされるかもしれませんw?
そこで女の追いはぎは色じかけを使います。

夜更よふけにたずねてきた旅人に自分の、時には娘(あるいは自分)の体をあたえてパフパフしてもてなし、ているところを殺害し物品をうばう・・・

そうやって生計をたてていた女の追いはぎもいたようです。

もっともよく使われていた殺害方法が、石をマクラ代わりにかせ、その上に別の石をたたきつけて頭をくだくというものです・;・・なんとおそろしい((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

よく日本昔話とかで、人の良さそうなおばあさんのうちにまったら、ばあさんはオニばばに化けておそってくるなんて話がでてきます。オニばばのモデルはこうした女の追いはぎたちなのかもしれません。

次回は、東京浅草に伝わる石のマクラ伝説についてお話します。


※参考文献

鬼 (Truth In Fantasy)
高平 鳴海
新紀元社
1999-08






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