History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:雛鶴姫

護良親王は首を切られてしまい、しかもその首は野に捨てられてしまいました。そのことを不憫フビンに思ったのが、護良親王の側室の雛鶴姫ヒナヅルヒメです。雛鶴姫といえば、小説「キミノ名ヲ」(漫画化もされた)で知ったという方もいらっしゃるのではないかと。雛鶴姫は、護良の首を拾い、従者とともに、今の神奈川県の戸塚にある王子神社に足を運び、そこの井戸で護良の首を洗い清めたと言います。その井戸は首洗い井戸と言われております。鶴姫一行は京へ向かおうとしたのですが、足利の追手から逃れるために山道を通ったのです。

雛鶴一行は険しい道を歩き続け、今の神奈川県の津久井を通って、それから今の山梨県の秋山というところまで辿タドり着きました。しかし、雛鶴姫のお腹の中には赤ちゃんがいたのですね。しかも時期も悪く、12月の終わり。年の暮れ。とっても寒い時期です。こんな時期に妊娠中ニンシンチュウの女の人が寒いところを歩き回るのは危険極まりない。

雛鶴姫の従者は村の人たちに「一晩泊めてくれ。女が一人お産なのだ」と頼み込みますが、村の人たちは皆「ダメです」って断るのです。なぜかって?村人たちは一行が身なりとか、立ち振る舞いからして、護良親王の関係者だってことがわかったし、もし自分たちがカクマえば、足利の者からとんでもないおトガめがあると思ったから。ひどい話だと思いますが、いざとなったら自分が可愛いもの。僕だって村人と同じ立場だったら、同じように断っていたかもしれない。

そうこうしているうちに雛鶴姫は産気付いてしまうのです。従者たちは木の枝や木の葉を集めて、そこに雛鶴姫を寝かせたのです。そして雛鶴姫は子供を産みました。しかし雛鶴姫はその子供を産んで息を引きとったのです。冬の寒さと飢えが原因です。かわいそうに・・・

従者たちは深く悲しみました。村人たちが親切に泊めてあげれば、雛鶴姫は死なずに済んだかもしれない。あんまり村人が冷たくて薄情だから、この村は無情(情がない)で、とうとう無生野ムショウノと呼ばれるようになったとか。

雛鶴の亡骸ナキガラは従者たちによって、亡くなった場所で手厚く葬られたと言います。

また、せっかく雛鶴姫が命をかけて産んだ子も幼くして亡くなってしまうのです。

そうして護良の首は、富士吉田の富士山下宮小室浅間神社フジサンシモミヤオムロセンゲンジンジャに塚がつくられ、その塚に護良の首がめられているとか。

一方で、山梨県都留市ツルシ石船神社イシフネジンジャにも護良の首がマツられていると言います。この首は頭蓋骨ズガイコツには金箔キンパクられ、目には水晶スイショウがはめこめられていると言います。ちなみにこの首は普段はお目にかかることができず、年に一回しか公開されないそうです。

さらに、この記事の初めの方でも触れた神奈川県戸塚にある王子神社にも、静岡県の清水町の智方神社チカタジンジャにも、護良の首が祀られているというのです。それから栃木県の佐野市、ラーメンで有名なところですよね。その佐野市にある浅沼八幡宮に護良の首が持ち込まれたという伝説があるのです。

どれが本物なのでしょうね。まさか護良は首が5つあったw?だとしたら化け物ですよね。そんなことありませんからwこの5つの神社のうち、一つは本物の首が祀られ、残りの4つは護良の霊を慰めるために祀られている(いた)のだと思われます。あくまで僕が感じたことなのですが、富士吉田の小室浅間神社の塚から何か神々しいものを感じたのですね。ここに護良の首があるかどうかはわかりませんが、護良の思いみたいなものはすごく感じられました。

* おまけ
かつて秋山の村人たちは雛鶴姫に冷淡な態度を取りましたが、秋山の人たちは本当は心苦しかったといいます。無生野の大念仏 ムショウノノダイネンブツはかわいそうな雛鶴姫の供養のために始まったとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されております。




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(富士吉田の小室浅間神社)


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(説明板 写真をクリックすると拡大します)

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(護良の首があるという桂の木)

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(同じく桂の木)

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(石神神社)
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石神神社の説明板


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(雛鶴神社。雛鶴神社と呼ばれる神社はどうも二社あるみたいで、ここはその一社)

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(雛鶴神社の説明板 写真をクリックすると拡大します)


* 参考文献

キミノ名ヲ。(魔法のiらんど文庫版)1-4巻セット
梅谷百
アスキー・メディアワークス
2013T




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(護良が入れられた土牢)


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(護良の墓。この階段を登った上のところにある。2020年の台風で、ガケ崩れになり、そこまで行けない)

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(護良の墓の入口。鎌倉にある)

1 護良逮捕
 建武元年10月22日、清涼殿セイリョウデンで行われた詩会に護良は参加しました。その護良は後醍醐近臣の結城親光ユウキチカミツ名和長年ナワナガトシに逮捕され、武者所に拘禁されたのです。そして、最終的に護良は鎌倉の直義の所へ護送されたのです。護良親王モリヨシシンノウは鎌倉に送られた際、「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」と、ひとり言を言ったそうです。意味は足利尊氏アシカガタカウジより天皇のほうがうらめしいという意味です。護良が鎌倉に送られ東光寺というお寺にある土牢ツチロウの中に入れられてしまいました。




ちなみに『太平記』では後醍醐天皇の愛人の阿野廉子アノレンシが自分の子供を天皇にしたくてジャマ者の護良をなき者にすべく阿野廉子は後醍醐に護良の悪いウワサを吹き込んだという話が出て来ますが、この阿野廉子の暗躍が本当にあったかどうかは不明。そのような陰謀があったかどうかはともかく、後醍醐が護良を危険人物だと見なしたのは事実。護良が優秀だとしても、後ろダテを失えばただの人。実力者に可愛がられるか、逆らって敵に回るか。

護良を見ていると一昔前の長嶋茂雄監督を僕は思い出します。長嶋監督は巨人の監督を二期監督(一期目は1975から1980年まで。二期目は1993年から2001年まで)を務めましたが、一期目は不本意な形で退団したのですね。これは成績が悪かったというより、当時の巨人のお偉いさん、大物OBにウトまれたことが大きかったとか。元々巨人は伝統的に守りの野球で石橋を叩いても渡らないというやり方でしたが、長嶋さんは逆に攻撃野球。そういった野球観の違いも大物OBの怒りを買ったのです。長嶋さんが1993年(厳密にいえば1992年オフ)に再び巨人の監督になれたのは、大物OBと和解したこと、ナベツネさんの存在も大きかったそうです。

後醍醐は我が子をもコマとして使うような合理主義者。一方の護良は部下のために涙を流すような情に熱い人。例えるなら後醍醐が『ガンダム」のギレン・ザビだとしたら、護良は『巨人の星』の星飛雄馬っていったところでしょうか。だから、二人は親子でも正反対。相性は親子なのに良くない。

護良は後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに帝位を狙っていると誤解されましたが、護良自身は自分が天皇になれないことをよくわかっていたのです。護良は父のために必死に戦ったのに、父親である後醍醐に裏切られた気分で、さぞ悲しい思いをしたと思います。それゆえに護良は父から見放された悲劇の人と見られるのですね。しかしごからしたらスタンドプレーばかりして足を引っ張るΖガンダムのカツみたいなヤツにしか見えないのですね。カツってネット民からめっちゃ嫌われてるのですよね。もし、太平記の時代のsnsがあったら護良めっちゃ叩かれそう。逆に後醍醐はめっちゃ人気ありそう。好戦的なところとか強引とも言えるリーダーシップとかネット民に受けそうだし。


ちなみに、護良は土牢ツチロウに入れられたと言いますが、土牢というより土蔵のような建物の中で軟禁されていたのではないかといわれております。NHKの大河ドラマ「太平記」でも、護良閉じ込められたのは土牢ではなく、土蔵でした。



2 護良死去

護良が鎌倉に送られてから8ヶ月、護良にとって危機が訪れます。建武ケンム2年7月、北条高時ホウジョウタカトキの子、北条時行ホウジョウトキユキが信濃国で反乱を起こしたのです。鎌倉幕府の再興、おやじのカタキを取ろうと立ち上がったのでしょう。いわゆる中世代チュウセダイの乱です。時行軍は関東地方に侵入し、足利直義が派遣した軍勢を次々と撃破。直義はこいつは敵わんと鎌倉を放棄ホウキ、逃げたのです。すると、鎌倉にいる護良はどうなるのか





足利直義は家来の淵辺義博フチノベヨシヒロに命じて護良の暗殺を命じたのです。護良は雛鶴姫ヒナヅルヒメのお世話になりながら、法華経の経典を読んでいました。そんな二人に忍び寄る淵辺。そして淵辺は刀でりかかろうとします。護良も抵抗しますが、護良は武術の達人とはいえ、何ヶ月も監禁されていましたから、体が思うように動きません。それでも護良は抵抗し、なんとで淵辺の刀をくわえ、しかも刀を折ったと言います。


そして、護良は必死に抵抗したものの、結局淵辺に殺され、首もちょん切られてしまいます。淵辺は護良を撃った証拠に首を拾ったら、その護良の首をみて、淵辺はびっくりしたのです。なんとその首ははっきり目を見開いていて、世にも恐ろしい形相をしていたのです。さすがの淵辺も驚いて、その首を捨ててしまったのです。なお、淵辺義博は実はいい人で、護良を逃し、護良は東北へ落ち延びたという伝説もあります。



3 護良の死をしのぶ

護良の死を報を受けて、後醍醐は大変ショックを受けました。そりゃいくら護良と後醍醐が対立してたとはいえ、実の息子が殺されて平気な親なんていませんからね。というか、尊氏でさえ、自分の弟が護良を殺すとは思わなかったでしょうし、暗殺を命じた直義でさえ、北条の反乱は想定外で、それがなかったら直義も護良を生かしていたかもしれません。この護良暗殺が、のちに後醍醐が足利と対立する要因の一つとなります。


『太平記』では護良は怨霊オンリョウになり、足利尊氏と直義兄弟二人を仲違いさせ、二人を戦わせたなんて記述があります。足利兄弟の内紛を見ると、護良のタタりじゃないかってつい思ってしまいます。

護良が幽閉された東光寺はのちに廃寺となりました。その跡地にできたのが鎌倉宮です。鎌倉宮を建てたのが明治天皇。もしかしたら明治天皇も護良の怨霊を恐れたのかも?鎌倉宮には参拝者が絶えず、皇室の人も護良の面影をしのぶ歌をつくられました。以下、引用させていただきます。


くだかれし 玉のひかりは代々をへて くにのたからと かがやきにけり
                           伏見宮博恭王妃経子フシミノミヤヒロヤスオウヒツネコ 殿下


かまくらの 露とはかなく 消えませど みたまぞ 永遠の かがみなりける  
                           伏見宮博義王妃朝子 フシミノミヤヒロヨシオウヒトキコ 殿下


時を得ば 世をすべまさむ 皇子にして 土の牢に 果てまさむとは      
                           久邇宮妃静子クニミヤヒシズコ 殿下


大比叡オオヒエに ころもすてて きみがため 剣とらしし 皇子ミコの雄々しさ      
                          高松宮喜久子タカマツミヤキクコ 殿下




護良は不幸な亡くなり方をしましたが、彼の死後に彼のことを慕ったり、忍んだ人もたくさんいたのですね。やはり護良を気の毒に思った人も少なくないのでしょう。



さて、護良親王の首は野ざらしに捨てられてしまったのですが、それを見るに見かねて、護良の首を運んだ人がいました。その人の名前は?その人はどうしたか?それはまた次回に。



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(護良の命を狙っている淵辺義弘。Wikipediaより)

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