1 マスコミの罪
昭和17年4月18日、B25爆撃機が白昼堂々と東京や川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。死者も約90名もでたのですね。しかも死者はほとんど非戦闘員の一般人です。しかも、死者のなかには幼い子供もいたといいます。これは大変なことです。しかし翌日の新聞の一面は空襲の悲惨さや恐ろしさをほとんど触れず、それどころかこんなことが書かれておりました。
「家族が食卓を囲んで食事をしているところに焼夷弾が落ちた。とっさの機転で老婆がお鉢のふたをかぶせれば、あとの家族が砂やムシロなどを運んできて簡単に火を消し止めた」
「バケツのお尻で焼夷弾の灯をたたき消した」
いづれも『読売新聞』の記事から引用したものですが、呆れた話です。こんな話をまともに信じる人はそうそういないと思います。焼夷弾は3000度の熱があるといいます。僕も実際に焼夷弾を生で見たことがあります。見たことがあるといっても不発弾ですが、不発弾とわかっていても、近づくのが怖いくらいでした。バケツのお尻や砂で火が消せるわけないのです。消せるどころか爆発してしまいます。当時の大マスコミはこんなウソを平気で書いていたのですね。
さらに『朝日新聞』には「爆撃の状況を種々詮索したり、あるいは憶測などによって流言飛語をなすなどは厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力をあげてその持ち場を守り、各自の任務を全うすることが必要である」と軍部の談話、まさにDVオヤジの言い訳のような談話を嬉々としてとりあげておりました。その軍部が一番信頼できないのにこの言い方はないですよね。この新聞が戦後になって反戦平和なんていっても説得力がありませんよね、ホント。
こんな与太話ばかりで肝心な犠牲者の数は取り上げておりません。それというのも当時の政府というか軍部が、マスコミに空襲のことは書くなって命令したからです。本土空襲以降、報道規制が強まり、空襲の報道記事はすべて特高課によって検閲されたといいます。
2 うわさ話もするな
戦時中はSNSはありませんでしたが、東京や神戸、横須賀などこれだけの都市が空襲にあえば、その恐ろしさは嫌でも日本の方々に伝わります。そのことに危機感を感じたのは軍部。国民に厭戦気分が蔓延するのが何よりも恐ろしい。なんたって戦争があっさり終わって困るのは、国民ではなく一部の勝ち組ですからね。で、軍部は、空襲の話を人々に話すのは非国民だとキャンペーンを張ったのです。
政府が刊行した広報誌『週報』にも、このように書かれております。
「(空襲の話を友達や親戚等に)知らせたいのはやまやまです。しかし考えねばならないのは国内に発表すればそれが津津根家に敵国に聞えるということです。先だっての空襲でも米国は空襲の真相がわからず、弱り切っています。そこへ国内発表することは、敵へ真相を教えてやるようなものです。」
「空襲の被害状況を発表できないのは、こういった理由からで、結局、国民を空襲の被害から救おうとしていることができます。」
「ここで特にお願いしたいことは、空襲のことについては、知ったかぶりをして、人から聞いた話など言いふらさぬようにしていただきたいことです。空襲のうわさ話などをしていたら、お互いで相戒め、でたらめな話をすることは非国民的な行為としてお互いに注意していただきたいことです。」
要するに、空襲の話をするなといいたいのでしょう。それにしても、敵に空襲の真相が知られるから、話すとはなんとバカなことを書いているなって。空襲を落としたのはほかでもないアメリカなのですから、空襲の真相なんてあったもんじゃありません。もし、この『週報』をアメリカ軍が読んだら鼻で笑われますよ。当時の政府はこんな態度だったのですね・・・・
うわさ話だけでなく、空襲のことを手紙に書くことも禁じたといいます。昭和16年10月に制定された勅令『臨時郵便取締令』がだされ個人が出した手紙も郵便職員が検閲することが認められました。つまり、空襲のことが手紙に書かれていたら警察にチクることもできたのです。今では考えられないことです。いまでは郵便職員が個人が出したハガキどころか年賀状も読むことを固く禁じられていますし、たとえ警察が犯人が書いたかもしれない手紙を見せろと言われても、郵便職員は通信の秘密を盾にそれを拒むことができますからね。
ちなみに空襲のことでも書いていいのは「どこどの誰かさんの家が焼けました」とか「誰かさんがけがをした」くらいならOKのようです。
3 空襲予測も隠蔽
政府が隠蔽したのは空襲の被害だけではりません。空襲の予測さえ隠蔽していたのです。アメリカが昭和17年に続いてまたも日本を爆撃するということを事前に予測していたのです。それはガダルカナル島の戦いで日本軍が敗退した翌日(昭和18年2月8日)、政府は「絶対国防圏」を縮小し、次の空襲判断をしめしたのです。
「大東亜戦争は今や長期戦の様相を濃化し、これに伴う空襲は、来年度以降さらに深刻かつ激化すべ趨向すうこうを予想せらるる・・・(中略)小型焼夷弾の多数投下及び焼夷威力が大なる大型焼夷弾の混用投下し、消防活動を困難ならしめんとする公算大なる。(中略)大なる機数をもって反復空襲し一挙壊滅的効果おさめんとする公算大・・・」
なんと政府は昭和18年の時点でアメリカは再び空襲をする、今度は一回目よりもっとひどい爆撃をするだろうと割と正確に予測をしていたのですね。それにもかかわらず、大本営には「大したことがない」「逃げるな火を消せ」と昭和20年の8月15日まで国民に命令していたのですね。空襲がひどくなることが昭和18年の時点でわかっていながら、一般国民には知らされていなかったのです。
※ 参考文献
「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!
「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!
昭和17年4月18日、B25爆撃機が白昼堂々と東京や川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。死者も約90名もでたのですね。しかも死者はほとんど非戦闘員の一般人です。しかも、死者のなかには幼い子供もいたといいます。これは大変なことです。しかし翌日の新聞の一面は空襲の悲惨さや恐ろしさをほとんど触れず、それどころかこんなことが書かれておりました。
「家族が食卓を囲んで食事をしているところに焼夷弾が落ちた。とっさの機転で老婆がお鉢のふたをかぶせれば、あとの家族が砂やムシロなどを運んできて簡単に火を消し止めた」
「バケツのお尻で焼夷弾の灯をたたき消した」
いづれも『読売新聞』の記事から引用したものですが、呆れた話です。こんな話をまともに信じる人はそうそういないと思います。焼夷弾は3000度の熱があるといいます。僕も実際に焼夷弾を生で見たことがあります。見たことがあるといっても不発弾ですが、不発弾とわかっていても、近づくのが怖いくらいでした。バケツのお尻や砂で火が消せるわけないのです。消せるどころか爆発してしまいます。当時の大マスコミはこんなウソを平気で書いていたのですね。
さらに『朝日新聞』には「爆撃の状況を種々詮索したり、あるいは憶測などによって流言飛語をなすなどは厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力をあげてその持ち場を守り、各自の任務を全うすることが必要である」と軍部の談話、まさにDVオヤジの言い訳のような談話を嬉々としてとりあげておりました。その軍部が一番信頼できないのにこの言い方はないですよね。この新聞が戦後になって反戦平和なんていっても説得力がありませんよね、ホント。
こんな与太話ばかりで肝心な犠牲者の数は取り上げておりません。それというのも当時の政府というか軍部が、マスコミに空襲のことは書くなって命令したからです。本土空襲以降、報道規制が強まり、空襲の報道記事はすべて特高課によって検閲されたといいます。
2 うわさ話もするな
戦時中はSNSはありませんでしたが、東京や神戸、横須賀などこれだけの都市が空襲にあえば、その恐ろしさは嫌でも日本の方々に伝わります。そのことに危機感を感じたのは軍部。国民に厭戦気分が蔓延するのが何よりも恐ろしい。なんたって戦争があっさり終わって困るのは、国民ではなく一部の勝ち組ですからね。で、軍部は、空襲の話を人々に話すのは非国民だとキャンペーンを張ったのです。
政府が刊行した広報誌『週報』にも、このように書かれております。
「(空襲の話を友達や親戚等に)知らせたいのはやまやまです。しかし考えねばならないのは国内に発表すればそれが津津根家に敵国に聞えるということです。先だっての空襲でも米国は空襲の真相がわからず、弱り切っています。そこへ国内発表することは、敵へ真相を教えてやるようなものです。」
「空襲の被害状況を発表できないのは、こういった理由からで、結局、国民を空襲の被害から救おうとしていることができます。」
「ここで特にお願いしたいことは、空襲のことについては、知ったかぶりをして、人から聞いた話など言いふらさぬようにしていただきたいことです。空襲のうわさ話などをしていたら、お互いで相戒め、でたらめな話をすることは非国民的な行為としてお互いに注意していただきたいことです。」
要するに、空襲の話をするなといいたいのでしょう。それにしても、敵に空襲の真相が知られるから、話すとはなんとバカなことを書いているなって。空襲を落としたのはほかでもないアメリカなのですから、空襲の真相なんてあったもんじゃありません。もし、この『週報』をアメリカ軍が読んだら鼻で笑われますよ。当時の政府はこんな態度だったのですね・・・・
うわさ話だけでなく、空襲のことを手紙に書くことも禁じたといいます。昭和16年10月に制定された勅令『臨時郵便取締令』がだされ個人が出した手紙も郵便職員が検閲することが認められました。つまり、空襲のことが手紙に書かれていたら警察にチクることもできたのです。今では考えられないことです。いまでは郵便職員が個人が出したハガキどころか年賀状も読むことを固く禁じられていますし、たとえ警察が犯人が書いたかもしれない手紙を見せろと言われても、郵便職員は通信の秘密を盾にそれを拒むことができますからね。
ちなみに空襲のことでも書いていいのは「どこどの誰かさんの家が焼けました」とか「誰かさんがけがをした」くらいならOKのようです。
3 空襲予測も隠蔽
政府が隠蔽したのは空襲の被害だけではりません。空襲の予測さえ隠蔽していたのです。アメリカが昭和17年に続いてまたも日本を爆撃するということを事前に予測していたのです。それはガダルカナル島の戦いで日本軍が敗退した翌日(昭和18年2月8日)、政府は「絶対国防圏」を縮小し、次の空襲判断をしめしたのです。
「大東亜戦争は今や長期戦の様相を濃化し、これに伴う空襲は、来年度以降さらに深刻かつ激化すべ趨向すうこうを予想せらるる・・・(中略)小型焼夷弾の多数投下及び焼夷威力が大なる大型焼夷弾の混用投下し、消防活動を困難ならしめんとする公算大なる。(中略)大なる機数をもって反復空襲し一挙壊滅的効果おさめんとする公算大・・・」
なんと政府は昭和18年の時点でアメリカは再び空襲をする、今度は一回目よりもっとひどい爆撃をするだろうと割と正確に予測をしていたのですね。それにもかかわらず、大本営には「大したことがない」「逃げるな火を消せ」と昭和20年の8月15日まで国民に命令していたのですね。空襲がひどくなることが昭和18年の時点でわかっていながら、一般国民には知らされていなかったのです。
※ 参考文献
「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!
「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!