history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

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1 マスコミの罪
 
昭和17年4月18日、B25爆撃機が白昼堂々と東京や川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。死者も約90名もでたのですね。しかも死者はほとんど非戦闘員の一般人です。しかも、死者のなかには幼い子供もいたといいます。これは大変なことです。しかし翌日の新聞の一面は空襲の悲惨さや恐ろしさをほとんど触れず、それどころかこんなことが書かれておりました。

「家族が食卓を囲んで食事をしているところに焼夷弾が落ちた。とっさの機転で老婆がお鉢のふたをかぶせれば、あとの家族が砂やムシロなどを運んできて簡単に火を消し止めた」

「バケツのお尻で焼夷弾の灯をたたき消した」


いづれも『読売新聞』の記事から引用したものですが、呆れた話です。こんな話をまともに信じる人はそうそういないと思います。焼夷弾は3000度の熱があるといいます。僕も実際に焼夷弾を生で見たことがあります。見たことがあるといっても不発弾ですが、不発弾とわかっていても、近づくのが怖いくらいでした。バケツのお尻や砂で火が消せるわけないのです。消せるどころか爆発してしまいます。当時の大マスコミはこんなウソを平気で書いていたのですね。

さらに『朝日新聞』には「爆撃の状況を種々詮索したり、あるいは憶測などによって流言飛語をなすなどは厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力をあげてその持ち場を守り、各自の任務を全うすることが必要である」と軍部の談話、まさにDVオヤジの言い訳のような談話を嬉々としてとりあげておりました。その軍部が一番信頼できないのにこの言い方はないですよね。この新聞が戦後になって反戦平和なんていっても説得力がありませんよね、ホント。

こんな与太話ばかりで肝心な犠牲者の数は取り上げておりません。それというのも当時の政府というか軍部が、マスコミに空襲のことは書くなって命令したからです。本土空襲以降、報道規制が強まり、空襲の報道記事はすべて特高課によって検閲されたといいます。



2 うわさ話もするな
 戦時中はSNSはありませんでしたが、東京や神戸、横須賀などこれだけの都市が空襲にあえば、その恐ろしさは嫌でも日本の方々に伝わります。そのことに危機感を感じたのは軍部。国民に厭戦気分が蔓延するのが何よりも恐ろしい。なんたって戦争があっさり終わって困るのは、国民ではなく一部の勝ち組ですからね。で、軍部は、空襲の話を人々に話すのは非国民だとキャンペーンを張ったのです。

政府が刊行した広報誌『週報』にも、このように書かれております。

「(空襲の話を友達や親戚等に)知らせたいのはやまやまです。しかし考えねばならないのは国内に発表すればそれが津津根家に敵国に聞えるということです。先だっての空襲でも米国は空襲の真相がわからず、弱り切っています。そこへ国内発表することは、敵へ真相を教えてやるようなものです。」

「空襲の被害状況を発表できないのは、こういった理由からで、結局、国民を空襲の被害から救おうとしていることができます。」

「ここで特にお願いしたいことは、空襲のことについては、知ったかぶりをして、人から聞いた話など言いふらさぬようにしていただきたいことです。空襲のうわさ話などをしていたら、お互いで相戒め、でたらめな話をすることは非国民的な行為としてお互いに注意していただきたいことです。」

要するに、空襲の話をするなといいたいのでしょう。それにしても、敵に空襲の真相が知られるから、話すとはなんとバカなことを書いているなって。空襲を落としたのはほかでもないアメリカなのですから、空襲の真相なんてあったもんじゃありません。もし、この『週報』をアメリカ軍が読んだら鼻で笑われますよ。当時の政府はこんな態度だったのですね・・・・

うわさ話だけでなく、空襲のことを手紙に書くことも禁じたといいます。昭和16年10月に制定された勅令『臨時郵便取締令』がだされ個人が出した手紙も郵便職員が検閲することが認められました。つまり、空襲のことが手紙に書かれていたら警察にチクることもできたのです。今では考えられないことです。いまでは郵便職員が個人が出したハガキどころか年賀状も読むことを固く禁じられていますし、たとえ警察が犯人が書いたかもしれない手紙を見せろと言われても、郵便職員は通信の秘密を盾にそれを拒むことができますからね。

ちなみに空襲のことでも書いていいのは「どこどの誰かさんの家が焼けました」とか「誰かさんがけがをした」くらいならOKのようです。

3 空襲予測も隠蔽
 政府が隠蔽したのは空襲の被害だけではりません。空襲の予測さえ隠蔽していたのです。アメリカが昭和17年に続いてまたも日本を爆撃するということを事前に予測していたのです。それはガダルカナル島の戦いで日本軍が敗退した翌日(昭和18年2月8日)、政府は「絶対国防圏」を縮小し、次の空襲判断をしめしたのです。

「大東亜戦争は今や長期戦の様相を濃化し、これに伴う空襲は、来年度以降さらに深刻かつ激化すべ趨向すうこうを予想せらるる・・・(中略)小型焼夷弾の多数投下及び焼夷威力が大なる大型焼夷弾の混用投下し、消防活動を困難ならしめんとする公算大なる。(中略)大なる機数をもって反復空襲し一挙壊滅的効果おさめんとする公算大・・・」


なんと政府は昭和18年の時点でアメリカは再び空襲をする、今度は一回目よりもっとひどい爆撃をするだろうと割と正確に予測をしていたのですね。それにもかかわらず、大本営には「大したことがない」「逃げるな火を消せ」と昭和20年の8月15日まで国民に命令していたのですね。空襲がひどくなることが昭和18年の時点でわかっていながら、一般国民には知らされていなかったのです。

※ 参考文献

「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!
「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!

もちろん、防空法の問題点に関しては異論もありました。たとえば

中山議員は、「消防や避難、道路・水道・建築物を改良するなどの策があるのか」と問いました。すると、河原田内務大臣は「これらの問題は、あるいは国民経済、あるいは国家の財政ということも関係いたしますので、今回の防空法案は、とりあえず一般国民の訓練と、かつ最小限度における設備を命ずるというような制度にとめたのであります。」と答えました。この「とりあえず」がやがて国民を苦しめることになるのですが、それはまたのちほど触れておきます。

さらに野中徹也議員も「去年あたり東京市内で行われました防空演習のごときは、子供の悪さであります。ああいうものでは、私どもでいわせるならば、本当の防空というものは完備しない。本当に防空を完全に行おうとするあんらば、すなわち航空事業の発達が絶対条件ではないか」と質問をしました。そりゃそうです。実際に空襲になったら、消火よりもまずは逃げることを優先しなければいけないのに、防空演習のメインはバケツリレーですもの。少しぐらいのボヤだったらバケツリレーでもなんとかなるかもしれませんが、実際の空襲ではほとんど役にたちません。そのことを野中議員も訓練を実際に見て疑問視したのでしょうね。

しかし河原田内相は「ごもっともでありまして、従来のような訓練を実効あらしめるためにこの蜂起を制定したような次第であります・・・」というはぐらかすような発言を言うのみでした。

こうした疑問が出されながらも、昭和12年3月30日に「防空法」は制定されてしまいます。もし、この時代にネットがあったら中山議員や野中議員は「売国奴」か「パヨク」よばわりされていたでしょうね。


昭和16年に防空法が改正され、さらに厳しくなりましたが、その防空法のことで疑問を持つ意見は絶えませんでした。貴族院の水野甚次郎議員は国会で次のように質問しました。

「私は防空演習をみても『お祭り騒ぎ』の感があるのであります。三千度の熱をもった焼夷弾に対して、あのちいさなバケツで水をそばに持っていくような余裕は果たしてあるのか、そばに寄れるものじゃない。あんな状態でどうして火を消しえるのであるか、私ども誠に空恐ろしく感じました。」

まったくもって正論です。しかし、政府のお偉いさんは開き直るような態度だったそうです。

また芦田均議員(戦後総理大臣になる)は、防空施設の不足を指摘しました。ポンプ車や水道整備が立ち遅れていましたから。物資が不足していたとはいえ、空襲に備え防空施設を整えるべきだと思うのは、軍事に素人の僕でさえ思います。しかし、軍のお偉いさんの答えは「施設の足りない分は、精神で補う」というものでした。政府の無策を棚に上げ、各人の精神で乗り切れというまさに「自己責任論」です。僕もこのブログで度々書いておりますが、戦前、戦時中は現代よりも「自己責任論」がまかり通っていたのです。

もちろん軍部のなかにもまともな考え方を持っている人もいました。たとえば室井捨治(海軍少佐)は「空襲の脅威」という座談会でこのように述べております。

「東京全体としては、まず避難させるのが一番よい。いくら施設(整備)をしてもかなわぬから避難させる。むろん根本的な対策は色々ありましょうが、現在差し迫ってどうしたらよいかといえば・・・実際対策はないですね。とりあえず消防力を強化する位の手しかないんじゃないでしょうか」


室井少佐はベルリン駐在の経歴があり、空襲の恐ろしさも見聞していたと思われます。避難すべきというのは率直な実感でしょう。

しかし、ある中佐が「もし市民全部が逃げてしまうと空になって火を消す人がいなくなる」と反論。こうして室井少佐も黙ってしまい、この後「空襲はこわい」「避難させるべき」という論調は姿を消したといいます。怖いですね。至極マトモな意見でさえ、パヨクと罵られ、意見を封じられる怖さ。

* 参考文献

政府は、決して米国産の焼夷弾の威力を知らなかったわけではないのです。政府が委嘱していた科学実験により、焼夷弾の消火が不可能であるという見解は政府部内で周知されていた。

大阪帝国大学の浅田常三郎教授(物理学)は、著書『防空科学』(積善館・昭和18年5月)のなかで、第一次世界大戦で使用された焼夷弾の性能調査を発表し、「いかなる消防でも、あるいはそれらの補助員も、一度にこれらの火事をけすということは非常に困難」、「約15〜20秒で燃えつくしてしまう」といい、焼夷弾を消せというのは無理だと結論付けたそうです。

テルミット焼夷弾(※1)については、水をかけるとマグネシウム反応により爆発が起こることから「消すことは不可能どころか、水をかけたら危険」と指摘しました。

黄燐焼夷弾(※2)についても「黄燐は非常に有毒なるゆえ、決して皮ふにつかないように」と注意を喚起したといいます。

それにも関わらず、焼夷弾に水をかけろだの、砂や土をかけろだの、そんなことを政府は言うのですね。特に黄燐は有害物質だから、近づくことさえ危険なのに。

さらに戦況がひどくなると、焼夷弾を手でつかめなんて意見さえでてきます。焼夷弾は水に浸した手袋などでその元部(火がでていないところ)を両手で持ち安全な場所に投げ出して処置しろなんて意見さえ出てくるのですね。

このほか政府は、第一次世界大戦後のヨーロッパの空襲防護技術についても研究をしておりました。一例として、スペイン内戦下のバルセロナ空襲(1938年3月)の被害状況について、内務省計画局は英国人技師の報告書「バルセロナにおける空襲に依る被害と防空施設」を和訳して冊子化しました。建物下の地下室は危険であること、地下駅は避難所として有効だったことが書かれておりました。日本の政府はこれらの情報を生かしていたかどうか疑問です。

実はナチスドイツ軍によるロンドン空襲の際、地下鉄駅が避難場所として役立ったという報告があったのです。それで、日本もそうすべきだという議員さんもいました。昭和16年(1942年)の春ごろ、貴族院の委員会で小川郷太郎鉄道大臣が「地下鉄がある程度、防空壕の作用を一部なしうることがある」と発言しました。ところが、最終的に政府が決めたのは「地下鉄道の施設は、これを待避または避難の場所として使用せしめざるものとす」、つまり地下鉄を避難場所として使わないよという方針です。この方針に従って、空襲時には地下鉄の入り口が閉鎖されてしまいました。

もちろん、すべての地下鉄が閉鎖されたわけではなく、大阪市営地下鉄は、防空要員輸送のために10分間隔で運行されたようです。しかし、優先されるのは軍隊や警察、公務員、それから消防団員と続いて、一般人は後回しにされました。昭和20年の6月以降の空襲時は地下鉄の入り口は固く閉ざされていたといいます。


日本も日本で1938年12月から中国の重慶を爆撃したのですね。重慶爆撃は非戦闘員を含む無差別攻撃だったといいます。だから、空襲の恐ろしさを日本政府が知らないなんてありえないんですね。この爆撃について大本営海軍報道部長は「我が空襲部隊は厳に軍事施設を唯一の空襲目標としていることはもちろんであるが、たまには爆弾炸裂の余勢で市民も犠牲をまぬがれないこともありうると覚悟するのが常識である」と述べたそうです。戦争だから非戦闘員が多少死ぬのは仕方がないという一種の開き直りともいえる発言でありますが、爆弾の被害は決して軽いものではないということも、この発言からうかがえます。

また、日本による投下弾が防空壕を直撃し、数千人の窒息死者がでたといいます。蒋介石が防空壕を整備したが、かえって、その防空壕で死者がでたのですね。それで1940年(昭和16年)6月22日付けの『読売新聞』には、「防空壕内での窒息事件は本年が最初ではなく、昨年のわが連続空襲に際しても同様事件が惹起じゃっきし、その時も、当局(蒋介石率いる国民党軍)は言論機関を圧迫して真相を伝えず、対策をとらず今次の惨劇を招いた。(中略)わが防空設備の万全を期する上においても、他山の石以上のものがあるように思われる」と報道されました。が、これを日本の政府は他山の石としなかったのですね。蒋介石が、空襲において対策をとらないから余計被害が大きくなったこと、しかも言論弾圧をしたことも失敗だったことも含め、日本が蒋介石を反面教師にすべきでした。

それどころか東京大空襲の前夜には「待避所(防空壕)の安全度は今のままでよい、居心地よくせよ」といったほど。この『読売新聞』の報道も政府は知らないはずはないのに。


知らなかったのあれば、仕方がないことなのですが、「知っていながら」というのが一番質が悪いのです。




※1 テルミット(サーマイト)とはアルミニウム粉末と他の金属の酸化物の粉末を混合したものである。
テルミットに着火を行うとアルミニウムと金属酸化物の間で激しい酸化還元反応が起き、その結果還元された金属と酸化アルミニウムが生成する。この反応をテルミット反応・テルミット法と言う。
また、この反応は膨大な熱の発生を伴うもので、たとえば酸化鉄との反応では約3000℃もの高温になる。テルミット焼夷弾とはテルミット反応を応用して兵器として使われたもの。

※2 黄燐の自然発火を利用したもの

1 空襲で避難してはいけない
防空法も昭和16年以降になると、退去禁止を法律上で定められます。空襲が起きても持ち場を離れるな、火を消せといわれるようになったのです。政府が出した『時局防空必携』には「(火は)心がけと準備次第で消せる」という言葉に始まり、家の柱やふすまに火がついたら、火をたたいて消せだの、服を水で濡らして消火せよだの、焼夷弾に直接砂や土をかぶせろだの、無理難題が書かれているのです。花火やたばこの残り火と焼夷弾とは訳が違います。しかも、自分の命は守れという記載は一切ないのです。

昭和16年に防空法改正を審理する衆議院防空法改正特別委で、佐藤賢了・陸軍省軍務課長はこのように述べました。

「空襲をうけたる場合において、実害そのものは大したものではないことは度々申したのであるが、周囲狼狽混乱に陥ることが一番恐ろしい。またそれが一時の混乱にあらずして、ついに戦争継続意思の破綻という混乱にあらずして、ついに戦争継続意思の破綻ということになるのが最も恐ろしい。

いかなる場合においても、戦争とは意思と意思の争いである。たとえ領土の大半を敵にとられても、あくまで戦争を継続する意思を挫折せしめなければ、このものは結局において勝つのである」



この佐藤賢了のコメントは翌日の新聞各紙に大々的に取り上げられたといいます。

それから、防空法に加えられた退去禁止。その違反者への処罰は最大で懲役6か月または罰金500円でした。消火義務に違反したものは懲役こそはなかったものの最大罰金500円とられたといいます。500円なんてワンコインでマックのバリューセットより安いじゃんと思うのは現代人の感覚。当時の教員の初任給が月55円でしたから、500円なんてその10倍。当時の500円がいかに大金かわかります。

また、灯火管制(家やオフィスの電気を消して真っ暗にすること)をしているときにドロボウをしたり、物資の買い占めや売り惜しみをした場合も処罰されたそうです。東日本大震災も買い占めが問題となりましたね。

しかし、こうした法律による処罰だけでは手ぬるいと政府は考えました。だって「空襲で死ぬくらいなら、処罰され刑務所に入ったほうがましだ」と思う人も出てくるかも。はっきり言って、刑務所の中のほうが安全かもしれませんよねw?それで政府は精神主義的なキャンペーンを重視しました。昭和16年9月3日発行の政府広告誌『週報』256号の記事にこのように書かれております。


「関東大震災では地震そのものがもたらす惨害を食い止めることができずに、その何十倍もの惨害を引き起こしたのは、当時の人たちに大多数が太平の夢に慣れ、士気がたるんでいたからで、激震に逆上して周章狼狽し、自分一人の安全を願って逃げだし、ついに大火となり、そのうえ荒唐無稽な流言飛語に迷って混乱に混乱を重ねたからです」


つまり関東大震災の被害が大きくなったのは地震そのものではなく、逃げた人間が悪いという無茶苦茶な論法です。当時の政府のお偉いさんはマジでこのような発想をしたのですね。この記事で納得できるとすれば「荒唐無稽な流言飛語」のくだりだけですね。さらに続けます。

「富んだ者も貧しいものもすべてのものが、大なり小なり都市の恩恵や利益を受けているのです。それが平素恩恵だけを受けて、いったん風雲急になると、都市を放棄して退去することは、日本の武士道、帝国の国民道徳からいっても許されないことです」


逃げることは武士道の国民の道徳にも反しているなんて言われたら返す言葉もないですね。ちなみに『武士道』の話がでてきたので、『武士道』のお話を少し。確かに『武士道』は素晴らしいし、僕もなるほどと思うこともあります。でも、あれは平時のときの武士の心構えで、むしろ風雲急の時はマイナスになることが多いみたいです。

『武士道』といえば「武士とは死ぬことを見つけたり」というセリフを連想しますが、そもそも戦国時代の武士たちは生き残るためなら、だまし討ちや裏切りもOKだったそうですよ。当然、生き延びるためなら、逃げることもOK。江戸時代になって、戦争がなくなってから『武士道』の本質も変わってきて、平時の武士たるものの心構えに代わっていきました。そうして江戸時代に出来上がった武士の価値観が明治になって新渡戸稲造が『武士道』にまとめたのですね。生き残るよりも死ぬことが大事だといわれた『武士道』がある意味、戦時中の日本人を呪縛したのかもなって・・・・


3 隣組の組織化
 政府は防空法実施にあたって「ご近所づきあい」を重視しました。国民が逃げずに火を消す方針を守らせるには、監視役が必要だと。それで国民同士を監視させるためにつくられたのが「隣組」です。 隣組とは10戸前後の家庭から構成され、防災訓練だとか、配給される食糧の分配などを行っていました。隣組にはいくつもの決まりごとがありますが、そのなかでも焼夷弾が落下したときの心構えも決められていました。

「焼夷弾が落下してきたら、防空壕のなかに待避している人も家の中にいる人も一斉に飛び出して、直ちに防火に努めねばなりません。防火にあたるのは単に防空責任者だけでなく、隣組全員の責任です」
政府広告誌『週報』256号(昭和16年9月3日)より引用。


「国を守れ」と政府のお偉いさんが言うよりも、顔なじみの人に言われたほうが恐ろしいです。政府のお偉いさんなんて一般国民にとっては遠い存在ですが、隣近所の人を敵に回すと、あとで報復があるかもしれない。

焼夷弾が落下しても、逃げたら「非国民」といじめられてしまう。それが怖いから、しぶしぶ従ってしう。だから、隣近所の人間が嫌な奴でも従わざるをえない、というか嫌な奴ほど、ここぞとばかりにえばり散らす。以前の記事にも書いた『はだしのゲン』の鮫島伝次郎のような男。現代ならば自粛警察。

それにしても戦争を遂行する側からすれば、労働力や兵力を温存する意味でも避難を認めて、人命を守ったほうが合理的だと思うのですよ。災害の時は、消防とかそういう仕事についている人はともかく、誰それかまわずとにかく逃げたほうがいいそうです。東日本大震災の時、津波がくるぞ逃げろといって、一目散に逃げた人は助かったといいます。空襲のときも逃げた人のほうが、生き延びて戦後の復興のために働き、一方で防空法をかたくなに守ったほうが尊い命を落としたのですから・・・

でも、当時の政府はまったく逆のことをしていたのですね。

*参考文献


1 朝令暮改
 空襲から身を護る防空壕をめぐる政策は昭和16年前後では異なります。昭和15年だと、「防空壕は、なるべく各戸に、その敷地内の空き地に設けることを原則とする」とあります。家の空き地、つまり多くの家庭では庭に防空壕をつくりなさいとなっていました。さらに、消防活動を積極的にしなさいといいつつも、「家屋の崩壊、火災などの場合、速やかに安全地帯に脱出しうる一に設けること」、つまり、空襲で家屋が火災に合ったら、防空壕に逃げ込めと言っていたのですね。「逃げるな、火を消せ」といいつつも、まだこの当時の政府は優しかったのですね。


ところが翌年の昭和16年10月になると今度は「勝手に防空壕をつくるな」と政府が言い出すのです。なぜでしょう。政権交代したから?違います。それは当時の政府が「全部の家庭に防空壕をつくるとなると、一般に立派なものを作ろうとする傾向があり、そうなると資材が足らなくなる。大きな防空壕だと、なおさら。物資が不足している時代だから、防空壕なんて作る余裕はない」みたいな態度だったそうです。

もちろん、政府は必要になれば造らせるとは言いますが、物資が少なくなっている時代に、頑丈な防空壕はつくるのが困難になります。防空壕をつくるような余裕がないのだったら、さっさと戦争を終わらせろよと思うのですが、当時の政府の高官にはそんな頭はなかったのでしょう。

2 床下につくれ
本土空襲から3か月後(昭和17年7月)、内務省防空局は新たな指導要領を発表したのです。その内容というのが、防空壕を「空き地や庭ではなく、『屋内地下』に、小型で簡素なものを既存の資材で作れ」「自分の家に悪化する焼夷弾の監視と応急防火のために、速やかに動ける位置を選ぶ」というものでした。しかも、大きな防空壕は作ってはだめで、せいぜい「避難者4人につき半坪(畳一畳分)程度とする」です。

床下、つまり地下に畳一畳分で、人が入るくらいの大きさの穴を掘って、その中で空襲をやりすごせなんてきついですよね。それでは、爆撃をしのげるどころか、火事どころか爆風で死んでしまうかもしれません。火事どころか火災により発生した有毒物質が防空壕にたまって窒息死するかもしれない。令和2年の今だったら、三密状態になりますね。

さらに防空壕の呼び名を「待避所」と呼ぶようになりました。日本の為政者の大好きな言葉の言いかえです。やっていることは福祉の切り捨てなのに、それを「構造改革」だの「三位一体の改革」と言い換えているだけ。

この指導要領と同じ日に通牒が発表されました。その内容というのが、まさに人命無視のものでした。以下のとおりです。

国民が空襲への恐怖心を起こさない

安全な逃げ場所を与えず消火活動に専念させる

資材物資が不足しているから、無駄に待避所をつくらせない


3 さすがに反対意見が
 昭和17年の8月に内務省防空局が発表した「防雨空待避所のつくりかた」(『週報』304号)には「家の中に待避所をつくるのなら床下のほうが安全で、もし付近に爆弾が落ちても、その衝動でものが落ちてきても床が守ってくれるから大丈夫」と書いてあったそうです。爆弾による火災で家が燃えたら、床下にいる人は助かるはずがありません。かえって危ないです。このほか爆弾の破片を防ぐには、土を80センチ盛り上げるか、100センチくらいの厚さの布団ないし、本や紙を詰めたもの(40センチくらい)があれば防げるとまで言っているのです。

こんなとんでもないことを言いだす政府の姿勢に、一部の議員が疑問を投げかけました。前年の昭和16年11月19日の防空法改正を審議する衆議院防空法改正委員会である議員が、こう発言しました。

「有効なものを作りうるものは、そうたくさんいないと思うのであります。そして、その有効ならざるものを作ると、かえって危険を増すようなことになるのではないか・・・・日本のような木造の家屋においては、待避所(防空壕)はつくらないほうがいい」

この2年後に別の議員が「ベルリンやローマでは防護室が数千か所に設置されているが、わが国には貧弱で素掘りの待避所(防空壕)ばかりだ」と指摘しましたが、政府は聴く耳をもちません。この時代にネットがあれば、この議員はパヨク呼ばわりでしょうな。


実際、穴をほっただけの待避所(防空壕)は役に立たず、空襲のとき、建物の下で圧死したり、火災に巻き込まれそのまま焼死、あるいは窒素死した人が後を絶ちませんでした。恐ろしいことに、戦争が終わるまで、政府は丈夫な防空壕をつくることを認めず、それどころか、死ぬのは自己責任という態度だったようです

例えば、東京は、1944年11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模なものでした。3月10日の空襲だけでも、10万人の人が亡くなったといいます。それにもかかわらず、防空法は改正されず、終戦まで、政府は「逃げるな、火を消せ」って態度だったのですね。

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