History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:野口英世

(この記事は2021年12月5日に加筆しました)

http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2099998.html
前回の記事

今日も楽しく参りましょう

野口英世が成功をしているときに、シカからの手紙が外国にいる野口英世の元に届きます。

http://www.geocities.jp/sybrma/315hideyonohahanotegami.html
(↑ シカの手紙の内容はこちらのサイトにっております。)

手紙の内容は、「あなた(息子)の出世ぶりにはとてもおろどきました。あなたの顔がみたくなりました。どうか、一目だけでもいいから家に帰ってきてほしい」というものです。

シカは、文字の読み書きができない人でした。それでもアメリカにいる息子に手紙を書くために、必死で文字を覚えたのです。味のあって、息子への想いが伝わるような字です。手紙の日付は1912年(明治45年)1月23日です。しかし、手紙を受けたった英世はすぐに日本に帰ることができませんでした。当時の英世はノーベル賞の候補に選ばれるなど多忙な日々だったのです。

1915年(大正4年)9月に英世は15年ぶりに帰国し、シカと再会しました。英世が手紙を受け取ってから、およそ3年経ってからのことでした。英世は2ヶ月滞在したと言います。しかし、これがシカと英世の今生の別れとなりました。

英世がエクアドルで黄熱病の研究をしていた頃、シカは病に倒れ66歳で亡くなったのです。シカは病床で息子の名前を何度も呼んだと言います。異国の地で母を亡くした知らせを聞いた英世はショックを受けました。英世は涙をこらえ、こうつぶやきました。

「身体は消えても、母は私の身体に残っているから、さみしくありません。」


戦後、高碕達之助(たかさき たつのすけ)という政治家が、猪苗代湖いなわしろこ湖畔こはんにある野口英世の記念館におとずれ、シカの手紙にたいそう感動したそうです。以下、高碕の言葉を少し引用します。

きわめて稚拙ちせつな筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、天衣無縫てんいむほう(※1)の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、照合しつつ読んでいくうちに、、私はとめどもなくなみだがでて困りました」


次回の記事 
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2038812.html




(野口シカの手紙の写し。野口英世記念館の売店で売っていた。)

※1 性格や言動がありのままでかざり気のないこと。 のびのびとして美しい様。 詩や文章が自然で美しく、わざとらしさのないことのたとえ。

*参考にしたもの
おみやげに買った「野口シカの手紙」の写しに同封どうふうされていた解説文を参考にしてブログを書きました。また、「THE歴史列伝」も参考にしました。




http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2038597.html

(前回の記事)

野口英世は猪苗代湖いなわしろこ湖畔こはんの村で生まれました。父親は 野口佐代助 ノグチサヨスケ(。母親は野口シカ。野口英世の生家は野口英世記念館に残っています。

よく、母のシカははたらき者で、父である佐代助は大酒のみで、貧乏で、シカたちを困らせたといわれていますが、実際はちがいます。佐代助は、郵便局員さんだったようです。郵便局員さんを約25年間にわたり務めたそうです。だから収入も特別良くもないが、悪くはなかったはず。

それから、佐代助は北海道と福島を行ったり来たりしていて、野口英世の恩師小林栄先生のもとに住み込み、農事を手伝っていたそうです。英世が小林先生とつながったのは、ある意味父のおかげでもあったのですね。子供たちからもしたわれ、「じいやじいや」と呼ばれたとか。

シカも夫の事を「おとっつぁは、天神てんじん様を背負せおってきたんだべ」と言い、夫の頭の良さをほめていたくらいですから、夫婦の仲も良かったのかもしれません。これが、佐代助がのんべえで、なまけ者だったり、借金を作っていたら、こうはいかないと思います。夫のグチと文句ばかりいうと思います。僕の祖母がそうだったなあ。祖父は働き者でしたが、何をやっても仕事を失敗。だから借金だらけになり、家中差し押さえの札ばかり。内職用のミシンだけは持っていっては困ると祖母が借金取りに泣きついたそうです。そんなこともあり祖母は祖父のこと「じいさんはしょうがない」って死ぬ間際まで僕にグチってました。僕にそんなことを言われても困るんだけどw

野口家の農作業全般ぜんぱんの仕事は、母親であるシカがやっていたみたいです。父親が郵便局員として家をあけている間、母であるシカが農作業をやりながら、わが子を育てていたのでしょう。野口英世の実家にたくさんの農作業道具や機織機などがが展示されていましたが、農家もやる事がけっこう多くて大変だったのではないかと感じました。

そういえば、『あゝ野麦峠のむぎとうげ』に出てくる女工さん達が、「うちの農作業よりも製糸工場の仕事のほうが楽」だと口々に言っていましたっけ。

また、野口英世が子どものころに、手をつっこんでしまったという問題の囲炉裏いろりも残されています。僕も映画『遠き落日』で幼い野口英世(幼少時は清作)がつっこむシーンは、本当に見ていられませんでした。まだ1才くらいの赤ん坊の清作は激しく泣いて、あわてて(三田佳子さんが演じられた)シカがかけつけ、清作の手をなめているシーンは今みても心がいたみます。

野口英世の生家の床柱とこばしらには「志を得ざれば再びこの地をまず」という文字を刻まれています。この文字は野口英世が上京する時に書いたものだとされています。文面から並々ならぬ決意が感じられます。

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(猪苗代湖)


(野口英世の生家)


(野口英世生誕の地と書かれた


(野口英世の家の中)


(野口英世が生まれた部屋)
 

(かいこ。野口家は養蚕ようさんもやっていたようだ)


(野口シカが育てたクワの木)


(石うすに機織機に台所用具。



(野口が手をつっこんだイロリ)



 

(床柱の文字)


※ 参考サイト


http://www.minyu-net.com/serial/isei/isei34.html「野口 佐代助 英世の自慢少しもせず」(「福島民友」より)

(この記事は2021年12月5日に加筆修正をしました)


(シカと野口英世、恩師小林先生のレリーフ)

野口英世(1876年11月9日 - 1928年5月21日)は、とても有名な人です。野口英世の功績といえば。

千円札の肖像画しょうぞうがになった。


たしかにそれも功績の一つかもしれませんがw彼は黄熱病や梅毒等の研究をして、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったそうです。野口英世もえらいけれど、野口英世を育てた母シカは、それ以上にエラいと思います。

シカの愛がなければ、野口英世はあそこまでビックにならなかったかもしれません。それどころか、息子の野口英世のほうは、あちこち人に金を借りまくったり、アメリカ留学の渡航費用やロックフェラーからの研究資金を遊郭ゆうかくでのバカ騒ぎで使いまくったとか浪費癖ロウヒグセがあったのです。

ビッグになるためには本人の努力が大事なのはいうまでもありませんが、それだけでは非常に難しいのですね。英世は努力もしたけれど、運も強かった。よく努力すれば必ず成功するなんて話を聞きますが、必ずしもそうとはいえないのです。本人の努力も大事だが、運や人の助けも必要なのですね。

プロ野球でも、監督の就任した時期が悪くて、ダメ監督と罵られ退陣した話はよくあります。例えば前の監督の無茶な選手起用で主力の選手たちがボロボロになり、しかもフロントは補強に動いてくれず。今の監督が一生懸命頑張っても、そんな状況じゃ成績なんて残せるわけがない。前の監督やフロントが悪いのであって監督のせいじゃないですよね。

英世は、助けてもらったり、見守ってくれた人が母のシカをはじめたくさんいたことが大きかった。


野口英世は、幼少のころは清作せいさくと呼ばれておりました。母が清作を1人残し農作業で家を開けていた頃、まだ赤ん坊の清作が囲炉裏いろりの中に落ちてしまい、左手のヤケドをしてしまいます。激しく泣き叫ぶ清作の声を聞いた、シカはあわてて清作のところにかけつけました。必死で看病かんびょうしますが、近くに医者がなくどうすることもできませんでした。

やけどした左手の5本の指がくっついてしまい、農作業が出来ない手になってしまいました。わが子がそんな風になったのは自分の不注意だと、母シカは自分を責めていたのです。野口英世の父親は仕事で家を空ける事が多く、シカも農作業で忙しい、いわば共働きでした。

このころの日本は、今みたいに保育園もベビーシッターも普及ふきゅうしていなかった時代でしたから、子供の面倒をみながら働くのは大変だと思うのです。「シカもそんなに自分を責めなくてともいいのになァ」と僕は思いました。

清作は、手のことで小学校では「てんぼう、てんぼう」といじめられては、泣きながら家に帰ったそうです。そんな清作を必死にシカはなぐさめたのです。しかし、英世はガンバリ屋さんで、いじめられても、学内でトップの成績をとり賞までもらったのです。

また、シカはわが子の幸せを願って、観音かんのん様にいのりもささげたとの事です。

清作が13歳になった頃、高等小学校に進学することを夢見ます。しかし、高等小学校に行くには学費がかかります。野口家の家計も豊とはいえず、自分で働くにしても左手がネックでした。そんなとき、猪苗代いなわしろ高等小学校の教頭であった小林栄先生に優秀ゆうしゅうな成績を認められ、小林先生のはたらきかけで猪苗代高等小学校に入学できました。

小林先生は卒業まで学費の援助えんじょをしてくれたのです。卒業後も清作と家族の世話を続けたそうです。小林先生は清作(野口英世)にとって、まさに生涯しょうがいの恩師だったのですね。

しかし、清作の左手のコンプレックスは消えませんでした。ある作文の授業で、清作はこのようにつづりました。

鉛筆エンピツをけずることができない」
弁当箱ベントウバコを開けるのも容易じゃない」
「ナイフで癒着ユチャクした指を切り離そうとした。」


この作文を見た同級生たちは驚き、なんとか清作を助けようとカンパをしたそうです。小林先生を中心に先生たちもカンパをしました。そのお陰で清作のもとに十円のお金が集まりました。その十円を使い、清作は、猪苗代いなわしろで開業していた医者の所で手術をしました。左手は完全には治らなかったのですが、清作は医学のすばらしさを知りました。医学のおかげで体だけでなく、長年のコンプレックスも克服できたのです。

それから、清作は英世と名乗り医学の道へと進んでいき、活動の場を海外に移していきます。




続きの記事 
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2038597.html

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(野口英世の母が毎月一回おとずれたといわれている中田観音なかたかんのん

*参考にしたもの
「THE歴史列伝」

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