今日は速水堅曹はやみそうけんについて。彼は民営化の道筋をたてた富岡製糸場の所長です。速水は天保てんぽうの時代に埼玉県の川越の生まれ、幕末に前橋に移住しました。財政悪化からの脱出を図る前橋藩の命を受け、藩で生産される生糸の売買を横浜ではじめましたが、ヨーロッパでの生糸の売値が日本の2倍近いことをしり、生糸の品質を向上させて輸出すれば大儲けできると思ったのです。1870年(明治3年)、神戸に住んでいたスイス人を雇い、前橋藩が運営する前橋製糸場の建設に速水が携わりました。この前橋製糸場こそ日本最初の製糸場で富岡よりも古いのですね。



その後内務省の役人になった速水はすぐに富岡製糸場の経営実態調査におとずれました。経営の状況だけでなく、女工さん達の話も聞くなど広い視野で富岡の経営状況を分析します。その結果「経費削減と利益追求」が必要で、外国人を解雇し、民営化もしたほうがいいということでした。



1878年(明治11年)、ヨーロッパでの富岡製糸場の生糸の評判が落ちたので、内務卿ないむきょう(※1)の伊藤博文が心配したのです。伊藤は速水に相談を持ち掛けます。速水は「一刻も早く民営化」をと主張します。しかし、伊藤は「まずは官営の製糸場の改革が大事」といいました。そして速水は富岡製糸場の所長になります。しかし、速水は富岡民営化をあきらめませんでした。







速水はその後所長をやめ、富岡製糸場の生糸を独占して外国に輸出する会社を設立しました。これも富岡製糸場民営化の呼び水としたかったからだといわれております。



そして1885年(明治18年)、速水はふたたび富岡製糸場の所長に復帰し、民間なみの会計制度を導入するなど民営化の準備をします。そして富岡製糸場は三井に払い下げられ、民営化するのです。速水は粘り強かったのですね、粘り強さって大事ですね。排水溝のぬめりのような粘り強さw?

速水は工場内に木を植えたり、工女さん達に道徳を教えたり、工女さんの生活改善も行いました。1880年(明治13年)の正月には年始の行事をおこない、二日間に及んで役員、工女さんたちが宴会を行ったといいます。気さくな一面もあったのですね。



また、速水は三井に払い下げられたとき、このような歌を詠みました。





想ひきや 手植の菊も 此頃このごろの 雨と風とに 逢はんものとは









富岡製糸場を菊になぞらえ、民営化することへの期待と、これから待ち受ける雨風に、この菊は耐えられるだろうかという不安の気持ちが入り混じった歌を詠んだのです。





※1 、明治時代の太政官制における事実上の首相。旧内務省を指揮監督した。後身は内務大臣

※ 参考文献




富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08