History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:護良親王

護良親王は首を切られてしまい、しかもその首は野に捨てられてしまいました。そのことを不憫フビンに思ったのが、護良親王の側室の雛鶴姫ヒナヅルヒメです。雛鶴姫といえば、小説「キミノ名ヲ」(漫画化もされた)で知ったという方もいらっしゃるのではないかと。雛鶴姫は、護良の首を拾い、従者とともに、今の神奈川県の戸塚にある王子神社に足を運び、そこの井戸で護良の首を洗い清めたと言います。その井戸は首洗い井戸と言われております。鶴姫一行は京へ向かおうとしたのですが、足利の追手から逃れるために山道を通ったのです。

雛鶴一行は険しい道を歩き続け、今の神奈川県の津久井を通って、それから今の山梨県の秋山というところまで辿タドり着きました。しかし、雛鶴姫のお腹の中には赤ちゃんがいたのですね。しかも時期も悪く、12月の終わり。年の暮れ。とっても寒い時期です。こんな時期に妊娠中ニンシンチュウの女の人が寒いところを歩き回るのは危険極まりない。

雛鶴姫の従者は村の人たちに「一晩泊めてくれ。女が一人お産なのだ」と頼み込みますが、村の人たちは皆「ダメです」って断るのです。なぜかって?村人たちは一行が身なりとか、立ち振る舞いからして、護良親王の関係者だってことがわかったし、もし自分たちがカクマえば、足利の者からとんでもないおトガめがあると思ったから。ひどい話だと思いますが、いざとなったら自分が可愛いもの。僕だって村人と同じ立場だったら、同じように断っていたかもしれない。

そうこうしているうちに雛鶴姫は産気付いてしまうのです。従者たちは木の枝や木の葉を集めて、そこに雛鶴姫を寝かせたのです。そして雛鶴姫は子供を産みました。しかし雛鶴姫はその子供を産んで息を引きとったのです。冬の寒さと飢えが原因です。かわいそうに・・・

従者たちは深く悲しみました。村人たちが親切に泊めてあげれば、雛鶴姫は死なずに済んだかもしれない。あんまり村人が冷たくて薄情だから、この村は無情(情がない)で、とうとう無生野ムショウノと呼ばれるようになったとか。

雛鶴の亡骸ナキガラは従者たちによって、亡くなった場所で手厚く葬られたと言います。

また、せっかく雛鶴姫が命をかけて産んだ子も幼くして亡くなってしまうのです。

そうして護良の首は、富士吉田の富士山下宮小室浅間神社フジサンシモミヤオムロセンゲンジンジャに塚がつくられ、その塚に護良の首がめられているとか。

一方で、山梨県都留市ツルシ石船神社イシフネジンジャにも護良の首がマツられていると言います。この首は頭蓋骨ズガイコツには金箔キンパクられ、目には水晶スイショウがはめこめられていると言います。ちなみにこの首は普段はお目にかかることができず、年に一回しか公開されないそうです。

さらに、この記事の初めの方でも触れた神奈川県戸塚にある王子神社にも、静岡県の清水町の智方神社チカタジンジャにも、護良の首が祀られているというのです。それから栃木県の佐野市、ラーメンで有名なところですよね。その佐野市にある浅沼八幡宮に護良の首が持ち込まれたという伝説があるのです。

どれが本物なのでしょうね。まさか護良は首が5つあったw?だとしたら化け物ですよね。そんなことありませんからwこの5つの神社のうち、一つは本物の首が祀られ、残りの4つは護良の霊を慰めるために祀られている(いた)のだと思われます。あくまで僕が感じたことなのですが、富士吉田の小室浅間神社の塚から何か神々しいものを感じたのですね。ここに護良の首があるかどうかはわかりませんが、護良の思いみたいなものはすごく感じられました。

* おまけ
かつて秋山の村人たちは雛鶴姫に冷淡な態度を取りましたが、秋山の人たちは本当は心苦しかったといいます。無生野の大念仏 ムショウノノダイネンブツはかわいそうな雛鶴姫の供養のために始まったとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されております。




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(富士吉田の小室浅間神社)


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(説明板 写真をクリックすると拡大します)

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(護良の首があるという桂の木)

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(同じく桂の木)

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(石神神社)
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石神神社の説明板


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(雛鶴神社。雛鶴神社と呼ばれる神社はどうも二社あるみたいで、ここはその一社)

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(雛鶴神社の説明板 写真をクリックすると拡大します)


* 参考文献

キミノ名ヲ。(魔法のiらんど文庫版)1-4巻セット
梅谷百
アスキー・メディアワークス
2013T




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(護良が入れられた土牢)


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(護良の墓。この階段を登った上のところにある。2020年の台風で、ガケ崩れになり、そこまで行けない)

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(護良の墓の入口。鎌倉にある)

1 護良逮捕
 建武元年10月22日、清涼殿セイリョウデンで行われた詩会に護良は参加しました。その護良は後醍醐近臣の結城親光ユウキチカミツ名和長年ナワナガトシに逮捕され、武者所に拘禁されたのです。そして、最終的に護良は鎌倉の直義の所へ護送されたのです。護良親王モリヨシシンノウは鎌倉に送られた際、「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」と、ひとり言を言ったそうです。意味は足利尊氏アシカガタカウジより天皇のほうがうらめしいという意味です。護良が鎌倉に送られ東光寺というお寺にある土牢ツチロウの中に入れられてしまいました。




ちなみに『太平記』では後醍醐天皇の愛人の阿野廉子アノレンシが自分の子供を天皇にしたくてジャマ者の護良をなき者にすべく阿野廉子は後醍醐に護良の悪いウワサを吹き込んだという話が出て来ますが、この阿野廉子の暗躍が本当にあったかどうかは不明。そのような陰謀があったかどうかはともかく、後醍醐が護良を危険人物だと見なしたのは事実。護良が優秀だとしても、後ろダテを失えばただの人。実力者に可愛がられるか、逆らって敵に回るか。

護良を見ていると一昔前の長嶋茂雄監督を僕は思い出します。長嶋監督は巨人の監督を二期監督(一期目は1975から1980年まで。二期目は1993年から2001年まで)を務めましたが、一期目は不本意な形で退団したのですね。これは成績が悪かったというより、当時の巨人のお偉いさん、大物OBにウトまれたことが大きかったとか。元々巨人は伝統的に守りの野球で石橋を叩いても渡らないというやり方でしたが、長嶋さんは逆に攻撃野球。そういった野球観の違いも大物OBの怒りを買ったのです。長嶋さんが1993年(厳密にいえば1992年オフ)に再び巨人の監督になれたのは、大物OBと和解したこと、ナベツネさんの存在も大きかったそうです。

後醍醐は我が子をもコマとして使うような合理主義者。一方の護良は部下のために涙を流すような情に熱い人。例えるなら後醍醐が『ガンダム」のギレン・ザビだとしたら、護良は『巨人の星』の星飛雄馬っていったところでしょうか。だから、二人は親子でも正反対。相性は親子なのに良くない。

護良は後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに帝位を狙っていると誤解されましたが、護良自身は自分が天皇になれないことをよくわかっていたのです。護良は父のために必死に戦ったのに、父親である後醍醐に裏切られた気分で、さぞ悲しい思いをしたと思います。それゆえに護良は父から見放された悲劇の人と見られるのですね。しかしごからしたらスタンドプレーばかりして足を引っ張るΖガンダムのカツみたいなヤツにしか見えないのですね。カツってネット民からめっちゃ嫌われてるのですよね。もし、太平記の時代のsnsがあったら護良めっちゃ叩かれそう。逆に後醍醐はめっちゃ人気ありそう。好戦的なところとか強引とも言えるリーダーシップとかネット民に受けそうだし。


ちなみに、護良は土牢ツチロウに入れられたと言いますが、土牢というより土蔵のような建物の中で軟禁されていたのではないかといわれております。NHKの大河ドラマ「太平記」でも、護良閉じ込められたのは土牢ではなく、土蔵でした。



2 護良死去

護良が鎌倉に送られてから8ヶ月、護良にとって危機が訪れます。建武ケンム2年7月、北条高時ホウジョウタカトキの子、北条時行ホウジョウトキユキが信濃国で反乱を起こしたのです。鎌倉幕府の再興、おやじのカタキを取ろうと立ち上がったのでしょう。いわゆる中世代チュウセダイの乱です。時行軍は関東地方に侵入し、足利直義が派遣した軍勢を次々と撃破。直義はこいつは敵わんと鎌倉を放棄ホウキ、逃げたのです。すると、鎌倉にいる護良はどうなるのか





足利直義は家来の淵辺義博フチノベヨシヒロに命じて護良の暗殺を命じたのです。護良は雛鶴姫ヒナヅルヒメのお世話になりながら、法華経の経典を読んでいました。そんな二人に忍び寄る淵辺。そして淵辺は刀でりかかろうとします。護良も抵抗しますが、護良は武術の達人とはいえ、何ヶ月も監禁されていましたから、体が思うように動きません。それでも護良は抵抗し、なんとで淵辺の刀をくわえ、しかも刀を折ったと言います。


そして、護良は必死に抵抗したものの、結局淵辺に殺され、首もちょん切られてしまいます。淵辺は護良を撃った証拠に首を拾ったら、その護良の首をみて、淵辺はびっくりしたのです。なんとその首ははっきり目を見開いていて、世にも恐ろしい形相をしていたのです。さすがの淵辺も驚いて、その首を捨ててしまったのです。なお、淵辺義博は実はいい人で、護良を逃し、護良は東北へ落ち延びたという伝説もあります。



3 護良の死をしのぶ

護良の死を報を受けて、後醍醐は大変ショックを受けました。そりゃいくら護良と後醍醐が対立してたとはいえ、実の息子が殺されて平気な親なんていませんからね。というか、尊氏でさえ、自分の弟が護良を殺すとは思わなかったでしょうし、暗殺を命じた直義でさえ、北条の反乱は想定外で、それがなかったら直義も護良を生かしていたかもしれません。この護良暗殺が、のちに後醍醐が足利と対立する要因の一つとなります。


『太平記』では護良は怨霊オンリョウになり、足利尊氏と直義兄弟二人を仲違いさせ、二人を戦わせたなんて記述があります。足利兄弟の内紛を見ると、護良のタタりじゃないかってつい思ってしまいます。

護良が幽閉された東光寺はのちに廃寺となりました。その跡地にできたのが鎌倉宮です。鎌倉宮を建てたのが明治天皇。もしかしたら明治天皇も護良の怨霊を恐れたのかも?鎌倉宮には参拝者が絶えず、皇室の人も護良の面影をしのぶ歌をつくられました。以下、引用させていただきます。


くだかれし 玉のひかりは代々をへて くにのたからと かがやきにけり
                           伏見宮博恭王妃経子フシミノミヤヒロヤスオウヒツネコ 殿下


かまくらの 露とはかなく 消えませど みたまぞ 永遠の かがみなりける  
                           伏見宮博義王妃朝子 フシミノミヤヒロヨシオウヒトキコ 殿下


時を得ば 世をすべまさむ 皇子にして 土の牢に 果てまさむとは      
                           久邇宮妃静子クニミヤヒシズコ 殿下


大比叡オオヒエに ころもすてて きみがため 剣とらしし 皇子ミコの雄々しさ      
                          高松宮喜久子タカマツミヤキクコ 殿下




護良は不幸な亡くなり方をしましたが、彼の死後に彼のことを慕ったり、忍んだ人もたくさんいたのですね。やはり護良を気の毒に思った人も少なくないのでしょう。



さて、護良親王の首は野ざらしに捨てられてしまったのですが、それを見るに見かねて、護良の首を運んだ人がいました。その人の名前は?その人はどうしたか?それはまた次回に。



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(護良の命を狙っている淵辺義弘。Wikipediaより)

1 護良の反抗
 後醍醐天皇は建武の新政を行いましたが、あまりに早急な政策のため混乱を生じます。そのため二条河原の落書でも批判され、味方であるはずの北畠顕家キタバタケアキイエ(北畠親房キタバタケチカフサの子)にまで批判されるほど。しかも、武士は恩賞を期待して戦ったのに、実際には公家ばかりが優遇され、武士には官位ばかり与えられ、肝心の恩賞は大してもらえない。そうなると当然、武士たちは不満が高まり、朝廷に見切りをつけ、尊氏に声望が集まります。そんな尊氏を危険視したのが護良親王。

護良は、大和国信貴山シギサンに籠城し、戦いの準備をしておりました。そのことに驚いたのが後醍醐天皇。後醍醐は護良のところへ使者を送りました。「幕府は滅んだし、戦も終わった。そのようなことはやめて僧に戻れ」と。その旨を使者は護良に伝えました。

それに対して護良は反発。後醍醐からの使者に言い返したのです。聞かん坊の護良の返事に後醍醐は困ってしまいます。実はこれが護良の悲劇の始まり。

一方で、尊氏が後醍醐天皇と対立し、南北朝の戦いが始まるのは歴史が証明する通り。そういう意味では護良は先見の目があったともいえます。

2 護良 征夷大将軍に
そして、護良は自分を征夷大将軍セイイダイショウグン にしろと後醍醐に要求。後醍醐は、なんと、これに応じました。征夷大将軍というのは武官の最高位で、全国の武士を動かしうるほどの権威がある役職です。しかも、護良は、後醍醐から正式に征夷大将軍に任命される前から、無断で将軍を自称していたのです。後醍醐は護良の要求を飲んだというより、護良の言い分を追認したと言った方が近いのです。

本来は武士の出身じゃないと征夷大将軍になれないのはずなのですが、実は鎌倉幕府では皇室の出身者が4代にわたって征夷大将軍になっているのです。宗尊親王ムネタカシンノウ惟康親王コレヤスシンノウ久明親王ヒサアキラシンノウ守邦親王モリクニシンノウと。「鎌倉幕府だって皇室出身者が征夷大将軍になれたのだから、私だってなれるはずだ」というのが護良の言い分。しかし、護良が征夷大将軍になったことに反感を持つ人も少なくなかったのです。

尊氏も本来は自分がなれると思っていただけにショックも大きかったでしょう。ちなみに、尊氏はのちに自分を征夷大将軍にしてくれと後醍醐に頼みますが、後醍醐はキッパリと断ります。


護良は元弘3年6月、征夷大将軍に任命され意気揚々。護良は軍を引き連れ我が物顔で京の街を歩いたと言います。その護良一行の有様に人々は驚いたと言います。まずか家臣たちが三千人あまりが行進し、その中をさっそうと護良が美しい見事なヨロイを身にまとい立派な馬に乗って歩いているのです。 華やかな行列だったそうですが、一方で物々しく物騒な気配も満ちていました。人々は護良の行進に驚くと同時に「また、戦争になるんじゃないか?」って不安になってきたのです。為政者はともかく、庶民にとって戦争など迷惑な話でしかないのです。

さらに護良は後醍醐に陸奥将軍府ムツショウグンフの設置を進言しました。護良と縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王ノリヨシシンノウ(後の後村上天皇)を長とし、北畠顕家キタバタケアキイエを陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府の設置を護良は実現させました。東北支配のみならず、関東にいる足利軍の牽制ケンセイの意味もあったのでしょう。


3 征夷大将軍をやめさせられる
護良は征夷大将軍の他に兵部卿ヒョウブキョウもかねました。また和泉国(大阪の和泉市あたり)や紀伊国(和歌山県あたり)の知行国主チギョウコクシュ(※1)となりました。いづれにしても京の都から近い国です。そこまではよかったのですが、だんだん護良は尊氏だけでなく、父の後醍醐とも確執が生じるのです。

護良は鎌倉幕府滅亡後も令旨レイシを出しました。令旨の内容は所領の充行アテオコナイ(※2)や安堵アンド (※3)、寄進(※4)がメインでした。護良も征夷大将軍になれたので張り切っていたのでしょう。しかし、護良のとは別に後醍醐天皇も土地関係のことで宣旨センジ(※5)を出していたのです。そうした後醍醐と護良の競合が問題になったのですね。

それで、後醍醐は護良の出した令旨は無効だと言い出したのですね。そして、護良はたった3ヶ月で征夷大将軍を辞めさせられてしまうのですね。後醍醐からしたら、護良のやったことは、混乱を招くだけでありがた迷惑な話だと思っていたのですね。もちろん征夷大将軍を辞めさせられても兵部卿の地位は残っていたし、知行国主も続けたのですが、それでも護良の勢いは急速に衰えたのです。

また悪いことに、護良側についた武将たちが建武の新政時に冷遇されたのですね。代表的なのは赤松円心アカマツエンシン。幕府との戦いでは護良の令旨を受け大活躍したのに、朝廷から恩賞はわずかなもの。これでは円心は怒ってしまいます。基本的に後醍醐の新政権は公家には厚く、武士には薄い恩賞で、全国の武士は大いに不満を持ったのですが、とりわけ護良側の武将が冷飯を食わされた形です。なぜ、護良側の武将が冷遇されたのかよくわかりませんが、これでは、護良に味方したくてもできません。護良はこうして外堀を埋められてしまいます。

この時代の武将というのは裏切りや寝返りは当たり前で、恩賞がなければハイさようならです。恩賞がもらえなくても主君に絶対忠義という人は珍しかったのですね。そういう当時の武将たちの心情を護良は読めなかったのですね。それが彼の悲劇。

4 護良のスタンドプレー
追い詰められた護良はついに実力行使に出たのです。なんと、護良は尊氏暗殺計画をクワダてたのです。護良の軍勢が尊氏の館を襲撃するウワサまで立ったのです。そこで尊氏は外出の時は、大勢の軍勢をお供にしていたし、館にも兵をおいて防御を固めていたのです。結局、この護良暗殺計画は失敗に終わります。

こうした尊氏暗殺計画は護良の単独行為とも、黒幕は後醍醐とも言われております。どちらの説が正しいのか、わかりませんが、単独行動だとしたら、そりゃ後醍醐の怒りを買うのは当たり前だなって。尊氏というか足利家が脅威だったのは後醍醐も同じでしたが、一方で建武新政を支えているのも足利尊氏。その尊氏を殺すのは建武新政にとって自殺行為ですからね。それが護良のスタンドプレーでぶち壊されたらたまったものではありません。

もしも黒幕が後醍醐だとしたら、ひどい話です。護良に尊氏暗殺を命じといて、失敗したら、責任を全部護良に押しつけ、チンは知らぬですからね。

さらに、そんな護良に大ピンチがおきます。護良がやとっていた私兵がチンピラみたいな連中で、夜な夜な京の街を徘徊ハイカイしては、少年と少女たちを何人も殺害したのです。直接手を下していない、部下がやったとはいえ監督責任は護良にあります。少年と少女の親御さんたちの悲しみは深いものです。そして護良はどうなったか?それは次回に。

※1 古代、中世の日本において特定の国の知行権を得た皇族、有力貴族、寺社など。
※2 平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為を指して使用された語。
※3 主君が土地の所有権などを承認すること
※4社寺等に物品や金銭を寄付する
※5 昔、天皇のお言葉を下に伝えること。それを書いた文書。それを伝える役目の人。

※ 参考文献







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(人物相関図。肖像画はWikipediaより)

* 参考文献






1 護良たちに起きた奇跡
護良親王モリヨシシンノウ楠木正成クスノキマサシゲたちの奮戦もむなしく幕府は倒れそうにもありません。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウも無事隠岐島オキノシマから生還したし、護良側に味方する武将が続々現れたけれど、それでも幕府に到底及びません。その戦力差は明らかでした。千早城に立てこもっている楠木も幕府の猛攻撃に長くはえきれぬ状況だったのです。

護良はあせりました。このままでは幕府に勝てない。幕府の方が勢力が上だ。護良ピンチ。そんな後醍醐や護良たちに奇跡が起こったのです。それは幕府側の有力武将の戦死および裏切りです。

まずは名越高家ナゴエタカイエの戦死です。名越は北条一門の有力だ武将でした。その名越は元弘ゲンコウ3年の4月27日、名越は赤松円心アカマツエンシン久我縄手コガナワテ(京都市伏見区)というところで戦いました。この時名越高家は流れ矢に当たって戦死してしまったのですね。これは幕府軍にとって大きな痛手した。

さらに幕府側だった足利高氏アシカガタカウジ(後の尊氏)が裏切り、後醍醐に味方したのです。それは元弘3年5月7日のこと。実は後醍醐は高氏に綸旨を高氏にだしていたのですね。それに高氏が応えた高氏。これが後醍醐が高氏を信頼するようになる理由のひとつなんですね。

ともあれ高氏が後醍醐側についたことは非常に大きかったのです。足利家も軍事力を持っていましたし、高氏をしたう武将たちはたくさんいましたから。高氏は、京都に攻め寄り幕府の六波羅探題ロクハラタンダイを攻撃。

さらに翌月の5月7日には新田義貞も倒幕のために挙兵。新田は幕府と関東各地で死闘を繰り広げました。新田義貞はその勢いに乗って5月21日に鎌倉に突入。幕府側もついに鎌倉幕府は滅びたのです。



2 ライバル高氏

 六波羅探題を滅ぼした高氏は京都に奉行所を開設し、全国から京都にやってきた武将たちに着到状チャクトウジョウ (*1)や軍忠状グンチュウジョウ(*2)に承認の判を押す作業をしたり、京都の治安維持も行いました。え?高氏にそんな権限があるのかって?

幕府が滅んでも後醍醐天皇はすぐに京都に戻ったわけじゃなく、まだ鳥取県の船上山センジョウサンにいます。新政府の組織や制度もまだでき上がっておりません。京都は事実上の無政府状態だったのです。後醍醐が京都にもどるまでの間、高氏が仕切ったのは別に不自然なことではないのです。

そんな最中、高氏と護良がぶつかったのです。護良の家来に殿宝印良忠トノノホウインリョウチュウという坊さんがいましたが、その良忠の手のもの二十人が京都の土蔵を打ち破って財宝を運び去ったのですね。これは良忠が悪いというより、良忠の配下の兵は統制が取れておらずチンピラみたいな配下が少なくなかったのです。それで高氏は彼らをとらえ、首をはね、その首を六条河原ロクジョウカワラにさらしたのですね。

しかし、なぜか護良はこのことを激怒。これが護良と高氏の争いの始まりだと言われております。

3 尊氏を優遇
 後醍醐は元弘3年6月5日に京都に戻り、新しい体制を作るための準備に入りました。まず後醍醐は、皇太子を阿野廉子アノレンシの産んだ恒良親王ツネヨシシンノウでした。

後醍醐は高氏に昇殿ショウデンを許し、鎮守府大将軍チンジュフダイショウグンに任命。さらには官位を与えたり(正三位まで与えられた)、名前も高氏から尊氏タカウジと改名をしました。尊氏の「尊」は後醍醐の本名の「尊治」からとったもの。さらに尊氏は武蔵国(*3)や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。尊氏は雑訴決断所(※4)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※5)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。

実はこれ、後醍醐が尊氏を個人的に気に入っていたというより、尊氏の力に頼らざるを得ない現実があったからだと思われます。朝廷は独自の軍事力がなく、いたとしても野武士や僧兵ばかりでしたから。後醍醐はマキャベリストですから、仮に後醍醐が尊氏を内心嫌っていたとしても、足利の軍事力、尊氏の器量に甘えておいた方が得だと思ったのかも。

尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良から見て尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。しかも我が子である自分を差し置いて。で、護良はどうしたか。それはまた次回。


※1 合戦などで軍勢催促を受けて、または自主的に参戦した際に所定の場所に到着した旨を上申する文書。合戦における手柄を証明するものだった。
※2 合戦後に参戦したものが自身や一族の戦功などをかきあげて上申した文章。この軍忠状の内容に基づき論功行賞が行われた。
*3 今の東京都と埼玉県と神奈川県の一部

※4 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※5 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



* 参考文献



一方で家来だった村上彦四郎が犠牲になったことを触れました。今日はその続きです。護良は吉野から高野山へ落ち延びました。それは後日、幕府側の二階堂貞藤ニカイドウサダフジは護良が死んでいないことを知りました。二階堂は高野山に押し寄せ「護良はどこだ出てこい!」と言って尋ねました。




このとき、高野山のお坊さんたちは護良をかくまっていたのですね。護良は高野山の大塔のはりに隠れていたのですね。結局、二階堂たちは護良を探し出すことができませんでした。実は元々高野山は護良には非協力的だったのですが、吉野山落城後は護良に協力的だったのです。

護良は機内キナイをあちこち転々としながら、ゲリラ活動を行いました。そのゲリラ活動をしながら、護良は令旨リョウジを各地に発給していました。これは護良を語る上で欠かせない言葉です。令旨とは、親王や皇后などが出す文章で、従者が主人の意思を奉じて従者の署名で発給する形式のものです。

平たくいえば、天皇の子供や皇后が出した手紙です。それも内容はだいたい命令です。令旨の内容は、護良は武将たちだけでなく、お寺や神社、武装商人にまで呼びかけ、鎌倉幕府をやっつけろという内容がメイン。

さらに令旨の内容をさらに詳しくみてみると「北条高時は在長官人時政の子孫に過ぎない」とまで書いてあったのです。北条高時は時の執権でまさに鎌倉幕府の最高権力者。今で言えば、「菅総理だって、元々は農民の子孫」っていうようなもの。護良が時の権力者が地方の下級役人に過ぎなかったと宣伝することによって、北条氏の権威を失落させようとしたのです。そんな北条なんて恐るるに足らぬから戦えということでしょう。

もちろんこのように幕府と戦えもそうですが、お寺に対しては祈祷や供養をお願いなどもありました。

令旨は護良の直筆ではなく、護良の従者である四条隆貞シジョウタカサダらが護良の意思を奉じて発給する形式を取っています。この時代はパソコンも印刷もコピー機もなかった時代ですからね。手書きの文書を複数書くのは大変だったと思います。

実は護良は吉野で挙兵する前(*1)から令旨を出していたのですが、最も盛んに令旨を発給したのは元弘3年。護良は武将たちに決起を促していたのです。その範囲も機内だけでなく、新潟や九州までほぼ全国にわたったといいます。

後醍醐天皇が隠岐オキに流されどうすることもできなかったから、父の代わりに護良が各地の武将たちに倒幕の呼びかけをしていたのです。


どうすることもできないと言っても、父の後醍醐も1332年(元弘2)8月に、出雲<rt>イズモ国の鰐淵寺ガクエンジに念願成就の祈祷キトウ綸旨リンジを出しております。綸旨とは、天皇が出す命令書のこと。護良が出したのは令旨。綸旨と令旨、似たような言葉ですが、意味合いは全く違います。後醍醐が隠岐島に閉じ込められていましたが、それでも綸旨を出したのは、後醍醐が護良に呼応したからだと思われます。護良と後醍醐は連絡を取り合っていたようです。



そして、護良の呼びかけに赤松円心アカマツエンシン(則村)も護良の令旨に応じたと言います。赤松円心は、護良の家来だった赤松則祐アカマツノリスケの父親です。赤松則祐は護良の令旨を持参し、父のいる播磨の国に行ったそうです。そして、赤松円心も挙兵をします。赤松円心は、京の六波羅を攻めます。赤松軍の勢いは凄まじく京まで上り詰めますが、しかし六波羅の反攻も凄まじく、赤松軍は山崎まで追いやられます。山崎といえば、のちに明智光秀と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が戦った場所であり、今はサントリーのビール工場があります。赤松軍は京に登っては六波羅軍に山崎まで押し戻されということを繰り返したのですね。さすがの赤松でも六波羅に苦戦を強いられております。




赤松の他にも九州の武将や四国の武将たちも立ち上がりました。こうして護良は令旨でもって味方を増やして、幕府に立ち向かったのです。

また、護良自身も十津川トツガワや吉野、宇陀ウダなど地元の野武士を7000人も集めたといます。その野武士たちが、幕府側の兵糧を遮断シャダンしたと言います。そのため幕府軍は食べるものもなくなり、少しづつ退散し始めたと言います。

護良は比叡山ヒエイザンにも令旨を送っていました。3月28日に比叡山は蜂起ホウキし近隣の豪族を含め1万6千もの大軍勢が六波羅に押し寄せたと言います。しかし、比叡山軍は烏合ウゴウの衆。すでに六波羅と戦っている赤松と連携も取れず、結局、六波羅軍に負けてしまいます。


そして元弘3年 ウルウ二月には後醍醐が隠岐島オキノシマを脱出します。後醍醐は本州に戻るなり、名和長利ナワナガトシに迎えられ、伯耆ホウキ船上山センジョウサンに立て篭もります。後醍醐が戻ってきたところで、これで倒幕運動がさらに盛り上がるかと思いきや、幕府軍はまだまだ圧倒的な強さを持っていました。護良はどうなるのか。それはまた次回。

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(相関図 肖像画はWikipediaより引用)


1 記録に残っている中で護良が出した令旨で一番古いのが元弘2年6月6日、熊野三山宛に令旨を書いていたのです。護良が吉野に立てこもる半年ほど前のこと。また、同じ月の末に護良の令旨を所持する竹原八郎が伊勢国に入り、幕府の屋敷を襲ったという。


※ 参考文献


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