「観応の擾乱」。この言葉を初めて知ったのは僕が大学受験生だった頃。日本史の授業で知りました。僕は当時、代々木ゼミナールに通っていて、その時、菅野祐孝先生という方に習っておりました。その先生が「観応の擾乱」を「菅野の冗談」って覚えろって言われましたw。「観応の擾乱」の「観応」は宴号、「擾乱」とは揉め事って意味です。観応の擾乱は平たく言えば、足利尊氏と足利直義の兄弟喧嘩です。

しかし、ただの兄弟喧嘩ではなく様々な人間関係が入り混じった複雑な事件でした。

事件の発端は、足利直義と高師直の対立から始まります。足利尊氏が征夷大将軍になって幕府を開き、宿敵の後醍醐天皇も亡くなったことで、南朝が生き残っているとはいえ、尊氏もまずは一安心。尊氏は軍事を、弟の直義は行政を行い、そして執事の高師直がサポートするという、尊氏、直義、高師直のトロイカ体制は盤石かと思われました。しかし、直義と師直の対立は日に日に高まるばかり。それで直義は尊氏に直訴し、師直を執事罷免させます。しかし、それでめげないのが師直。逆に師直は仕返しに直義を引退に追い込むのですね。ところが、その一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出るのですね。そして、直義は尊氏&師直に戦いを挑むのですね。とは言いましても、直義は兄貴である尊氏のことは憎んでいないのです。あくまで高師直のことが嫌だったのですね。


尊氏を裏切り直義に寝返る武将が続出し、直義軍の勝利。そして、高師直とその弟の高師泰が殺されてしまうのですね。高師直兄弟を殺めてたのは直義の仕業だとか。師直を信頼していた尊氏は悲しみ、直義との関係が悪くなるのですね。それでも尊氏と直義はすぐ和睦を結ぶのです。尊氏と直義は血を分けた兄弟。2人とも戦いたくはないのです。2人は今後の幕府の運営について話し合ったのですね。基本的に政務は尊氏の子である足利義詮が担い、直義は義詮を補佐する。武士たちに与える恩賞論考は尊氏がやると。そして、同じく尊氏の子である足利直冬を鎮西探題(九州)に任命。これで一件落着かと思いきや、この人事はのちの波乱を生むのです。

まず、次の将軍だと目されている義詮と、直義の関係が非常に良くない。まして義詮は高師直のことをとても信頼していたのですね。信頼する部下を殺した直義のことを憎んでいたのです。また鎮西探題を担うことになる直冬は、尊氏との関係がよろしくないのです。直冬は尊氏の子供は言っても、直冬の母親は身分が低かったのです。だから尊氏は直冬に対して冷たい態度をとっていたのです。その直冬を不憫に思ったのが直義。直義は、直冬を養子として迎え入れたのですね。

それと、尊氏は負けた側なのに、なぜか恩賞充行アテオコナイ権(※1)になったこともまずかったのですね。本来、恩賞は勝ったはずの直義がやるべきなのに。この時代の武士は忠義よりも恩賞をくれる大将、あるいは自分にとってメリットがありそうな大将についたのですね。。楠木正成みたいな人は珍しかったのですね。尊氏も十分な恩賞を与え満足させないと武士たちは自分の言うことを聞いてくれないことをよく知っていたのですね。逆に言えば、恩賞さえ与えれば、武士達は自分の言うことを聞いてくれる。いくらトップがヘリクツを言っても、恩賞をくれない人間の言うことなど武士は聞かない。だから、この時代、恩賞を左右する立場の人は強いんですね。尊氏は恩賞担当をやらせてくれと直義に頼んだし、直義も兄貴の言うことだかと遠慮があったのですね。

それから直義は南朝との関係を良くする試みます。一時的な和睦ではなく、今後とも仲良くしてきましょうと。が、これは不発に終わります。南朝側は元々直義のことは良く思っていなかったのです。和睦なんて口先だけで、直義は北朝の利益しか考えていないことを見抜かれてしまったのです。また、直義は南朝と北朝とで交代交代で天皇を出せば良いと主張。これに対し、南朝は「俺たち南朝こそ正統だ!」って聞かないのです。むしろ南朝はいざとなれば戦う姿勢を崩さない。それで尊氏は南朝を討つために挙兵するのです。その挙兵を、悪いことに、直義は自分を討つための挙兵だと勘違いしてしまうのですね。こうした誤解がさらなる混乱を招くのです。そして、各国の武士達は直義につくか、尊氏につくか二分してしまうのです。

さらに義詮は、観応2年(1351)に御前沙汰ゴゼンサタと言う期間を設置します。この期間は恩賞の査定だけで無く、裁判も担っていたのです。そのため、御前沙汰を作った義詮の権限は強くなり、直義の居場所がなくなったのですね。直義は逃げるように、直義側についた畠山国清や桃井直常武士達と共に北陸へ向かったのですね。そして越前(今の福井県)にあった金ヶ崎城を拠点としていたのです。そして、直義と義詮&尊氏は再び戦うことになるのです。戦いの場所は近江国(今の滋賀県)の八相山ハッソウザン。とは言いましても、直義が戦場に出向いたのではなく、畠山国清や桃井直常ら武将達にたたわせて、直義は金ヶ崎城にこもっていたのですね。やはり兄貴と直接刃を交えることに後ろめたさがあったのでしょうね。この戦では尊氏がわの勝利。観応2年10月2日、近江国錦織興福寺で尊氏と直義は対面し、和睦をしようとしますが、結局破綻。直義は鎌倉に行ってしまいます。この年の12月に、直義と尊氏は再び戦火を交える羽目になります。尊氏と直義は仲直りしたいし、足利義詮ほか一部の強硬派を除けば、武将達の間で、不毛な戦いはもうやめようって厭戦気分が漂っていたのにも関わらず。

話を少し戻して、尊氏は観応2年の8月ごろから、南朝に接近していたのですね。複雑ですね。初めは南朝も難色を示したのが、二ヶ月かかって12月3日に和平は成立。その和平の全権を任されたのが、義詮。講和の条件は二つ。

1 後醍醐天皇が行った新政の時代に戻す。つまり南朝こそ正統だと認める。
2 直義を追討する。


この条件に義詮はサインしてしまったのですね。南朝と仲良くする代わりに直義を討てと。こうなったら、直義を攻めざるをえなくなる。尊氏は不満を持ったそうです。なぜなら実の弟を討たなくてはならなくなったから。義詮と尊氏のすれ違いが感じられます。それでも尊氏は直義を討伐すべく直義のいる鎌倉に兵を向けました。本当は嫌だったろうな。義詮も自分も戦うと行ったのですが、尊氏はそれを拒否しました。おそらく尊氏は直義との和平を諦めていなかったのでは。義詮を連れてきたら、それこそ殺せと言いかねない。実際、義詮は武力で持って直義を倒せって思っていました。

でも、幕府の政治基盤を安定させるために、尊氏は実の弟である直義を犠牲にするしかなかったのかなって僕は思うのですね。幕府の跡取りは義詮に決まり、幕府も義詮中心に回りつつある。そうなると、直義の存在が義詮にとって脅威。直義を生かしたところで、直義と義詮が戦争したら、それこそ世は乱れる。直義と義詮の仲は最悪なので。実の弟を救いたいが、かと言って世の中の秩序を乱す真似はしたくない。秩序を取るか、肉親への愛を取るか、尊氏はてんびんをかけたのかなって。


そして観応2年(1351年)、駿河国(今の静岡県)にある薩埵山サッタサン で尊氏軍と直義軍は激闘。しかし、直義はこの時も出陣せず、鎌倉にいたのですね。その時の直義の心境がありありと出ている直義が詠んだ歌が残されております。

暗きより 暗きに迷う 心にも 離れぬ月を 待つぞ はかなき

直義は最後の最後まで兄と仲直りしたかった。しかし、それが叶わぬような事態にまで追い込まれてしまった悲しさが伝わってきます。観応3年(1352年)1月5日に尊氏は鎌倉に入り、直義は降伏しました。この後、直義は浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉され、2月26日に急死したのですね。それから直義の死後、尊氏は九州にいる直冬に戦を仕掛けるのですね。戦に敗れたものの直冬はうまく逃げ延び、尊氏死後も生き延びたのですね。一説によれば、尊氏の孫の足利義満と直冬は和解したという話もあるほど。

こうして観応の擾乱と呼ばれる争いは終わるのです。



※1 充行とは、平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為をさして使われるようになった語。恩賞充行権とは、戦で手柄を立てた武士達に恩賞を与える権限のこと


※ この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。あと、こちらの本も参考にしました↓