フリチョフ・ナンセン。彼は世界で最初の難民高等弁務官。彼は元々は海洋学者で北極圏の探検もしたのです。そんな彼の運命を変えた事件が起こります。第一次世界大戦、それからロシア革命です。戦争と革命で、難民が急増したのです。ロシア革命では、ロシアの難民は100万人以上だといわれています。さらにロシア西部のボルナ川でも干魃カンバツによる大飢饉が発生。そこに記録的な大寒波が襲い、150万もの飢餓難民が生まれたのです。人々は土を食べるほど飢えていたのです。

この問題に取り組んだのは当時発足したばかりの国際連盟。国際連盟において難民救済の指揮を取ったのが難民高等弁務官。その役に就任したのがフリチョフ・ナンセン。しかし、海洋研究者と難民救済は畑違い。ナンセンは悩みますが、引き受けたのです。まずナンセンは現地を訪れ、貧しい人のために炊き出しを始めたのです。そしてソ連へ5000万ドルの援助を国際連盟に提案しました。しかし、ソ連が国際連盟に加盟していない、社会主義国家にお金が流れることへの懸念から、ナンセンの提案は却下されます。それでナンセンはビデオカメラを持参し、ロシアの難民の現状を映像に移し、その映像を世界に向けて公開。その映像は日本でも公開されたと言います。この映像の効果は絶大で、4000万ドルもの寄付が集まったと言います。さらにナンセン・パスポートというものを提案します。これは難民のためのパスポートです。難民は身分証明書がなかったので、他の国に入国することすら許されなかったのです。それがナンセン・パスポートのおかげで世界30ヵ国に入国することができたのです。

そうした働きが認められ、ナンセンはノーベル平和賞を受賞。しかし、その賞金を手にすることなく、全額難民のために寄付。授賞式の時もナンセンは笑顔なし。むしろ、「なぜ、今まで難民たちに手をしのべなかったのか」と憤ったとか。ナンセンはノーベル平和賞受賞から8年後に亡くなります。

戦後、難民の問題で活躍された緒方貞子さんもナンセンの功績を参考にされたといいます。

最後にフリチョフ・ナンセンの言葉を

「私は諸君に人々が餓死するのを見るということが何を意味するのか考えてもらいたい。ただ眺めているばかりで、手ひとつあげることもできないというのは、私には不甲斐ないのです。あくまでも戦って、道を開いて進まねばならぬ。失敗でも敗北でも何もしないよりはマシだ。成し遂げなければならないことを達成するための道は常にあるのだ」