2014年04月06日 飯沼貞吉と白虎隊 後編 本題に入るまえに、こちらの動画をどうぞ。 これは戸ノ口堰洞穴の動画。もともとこの洞穴は猪苗代湖の水を会津へ引くために作られたものだそうですが、この洞穴をとおって白虎隊は猪苗代湖から会津の飯盛山までやってきたのです。 続きを読む タグ :飯沼貞吉白虎隊
2014年04月05日 飯沼貞と白虎隊 前編 今日から2回にわたって飯沼貞吉(いいぬまさだきち)について取り上げます。飯沼貞吉は白虎隊びゃっこたいの生き残りで、昭和のはじめまで存命ぞんめいでした。彼は飯盛山いいもりやまで自刃じじんしたのですが、運よく助かったのです。 続きを読む タグ :飯沼貞吉白虎隊
2013年05月23日 白虎隊(びゃっこたい)のこぼれ話 その10 白虎隊のお墓 今日の記事は長いです。 1 靖国神社やすくにじんじゃに祀まつられていない白虎隊びゃっこたい (靖国神社) 東京は千鳥ヶ淵ちどりがふちにある靖国神社やすくにじんじゃ。靖国神社は戊辰戦争ぼしんせんそうの戦死者が祀るために作られた神社です。 戊辰戦争の戦死者と言いましても、幕府側の戦死者は一人も祀まつられていません。祀られているのは官軍側の戦死者だけです。幕府は朝廷ちょうていに弓を引いた朝敵ちょうてき、だから靖国神社に祀られる資格がなかったというわけです。 朝廷側でも、西郷隆盛は明治維新の功労者でありながら、西南戦争で反政府側に回ったので、靖国に祀られておりません。 伊藤博文(いとうひろふみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)、山県有朋(やまがたありとも)といった明治維新めいじいしんの功労者であり、新政府の担い手となった人たちも祀られておりません。彼らは戦死したわけじゃないからだと考えられます。 「じゃあ、東条英機(死刑)らは、戦死したわけじゃないのに、なぜ靖国に祀まつられるの?」って話が出てきそうですね。 「白虎隊はもちろん、伊藤博文でさえ靖国に祀られないのになぜだろうね」と僕も思うのですが、それは非常にややこしい話で、今の時点では僕もうまく説明ができないので、今回はとりあえず置いておきますw 2 ひどい扱あつかいをされた会津側 会津藩は新政府に降伏こうふくして若松城わかまつじょう(鶴ヶ城つるがじょう)が開城となり会津戦争が終わりました。しかし、戦場となった会津のには、戦死者たちの死体があちこちに転がっていました・・・ 雨や風にさらされ、野鳥やノラ犬などに食いちがれ、そして遺体いたいは腐敗ふはいしていたようです。それはひどい光景だったそうです・・・ みかねた会津あいづの人たちは懇ねんごろに弔とむらうようにたのみこんだそうです。しかし、新政府軍は「賊軍ぞくぐんにかまうな」と言って、 遺体を勝手に埋葬まいそうすることを禁止したそうです。ひどい話です・・・ それから、しばらくしてから官軍側が会津戦争でなくなった人たちの遺体を弔うことになったのですが、映画『おくりびと』のように、ていねいに死体を扱あつかったりはしませんでした。あくまでも官軍側が罪人ざいにんとして遺体を処理しょりしたので、その扱い方はひどいものでした。 飯盛山で自刃じじんした白虎隊も例外ではありません。飯盛山の白虎隊の遺体いたいは、埋葬まいそうもされないまま、野ざらしにされていました。それで鳥もたかっていたそうです。 二、三日も鳥の群むれが飯盛山の上空でやかましく鳴いていたので、村人達もなんだろうと思って見に行ったようです。それで村人達は白虎隊の死体をやっと見つけたのです。 3 いいことをしたのに捕つかまってしまう。 滝沢村(たきざわむら)の肝煎きもいり(※1)吉田伊惣次(よしだいそじ)が見かねて、白虎隊の遺体いたいをお寺に埋葬まいそうしたそうです。 しかし、その事が官軍に知られてしまい、吉田伊惣次は牢ろうやに入れられてしまいます。埋葬をしただけで、捕つかまってしまうとはヒドイ話です。とはいっても、吉田伊惣次はすぐに釈放しゃくほうされますが。 しかし、埋葬された白虎隊の遺体は、官軍によってふたたび掘ほり返されて、また野にさらされてしまいます・・・ ※1 名主や庄屋のこと 4 お墓がつくられる 明治二年になって、やっと白虎隊の埋葬の許可きょかがおります。初めは妙国寺(みょうこくじ)というお寺に仮埋葬かりまいそうされ、明治七年に飯盛山に埋葬されました。明治17年にはじめて白虎隊のお墓(合葬がっそう)がたち、明治23年に飯盛山で自刃じじんした19士のお墓もつくられました。 墓地の建設費用は、元会津藩士たちや、村の人々が苦しい生活の中から精一杯せいいっぱいのお金を出しあったそうです。 会津の人々は、かわいそうな白虎隊をねんごろに弔とむらってやりたいと願っていました。「野ざらしにしてはかわいそうだ」と。その願いがやっとかなったのですね。 (飯盛山の白虎隊の墓地) 5 受け継がれる白虎隊の思い 白虎隊のお墓には、かつての会津藩主・松平容保も訪れました。かわいそうな白虎隊の冥福めいふくを祈いのりつつ、彼は白虎隊のために句くを残しました。 「幾人いくにんの 涙なみだは石にそそぐとも その名は世々に朽(くち)じとぞ思う」 明治の世になって、会津の人たちは朝敵とされ、バカにされたり、つらい思いをしました。けれど勇敢ゆうかんなる白虎隊は、人々の記憶きおくに残るだろうと松平容保は言いたかったのかもしれません。 白虎隊の生き様は未来にも受け継がれました。戦時中は白虎隊は残念ながら軍国主義に利用されてしまいましたが、平和な時代になっても白虎隊の生き方に感動する人もたくさんいます。 僕が飯盛山におとずれた時、地元の高校生が白虎隊のお墓でお参りをしているのをみかけました。うやうやしくお墓に頭を下げる高校生の姿をみて、僕も感動しましたね。 (松平容保の句) これまで10回以上にわたり白虎隊をとりあげてきましたが、今回で白虎隊のエントリーをいったん終了します。また白虎隊のことで新しいことが分かり次第、白虎隊のことをふれたいと思います。 ※ 参考文献 会津白虎隊のすべて [単行本]新人物往来社2002-01 タグ :白虎隊
2013年05月22日 白虎隊のこぼれ話 その9 白虎隊に魅せられたドイツ人 (飯盛山) (ローマ市から送られてきた像) (フォン・エッツドルフが送った石碑) (石碑の説明板) 白虎隊は、外国人にも高く評価されました。会津あいづの飯盛山いいもりやまにいくと、大きな鳥が羽ばたいている銅像をみかけます。その銅像はローマ市から送られたものだそうです。 また、駐日ちゅうにちドイツ大使フォン・エッツドルフも白虎隊の心意気こころいきに感銘かんめいを受け、このような碑ひをつくっております。 そして、もうひとり白虎隊に魅みせられた外国人がいました。その名をリヒャルト・ハイゼ。 リヒャルト・ハイゼ(1869〜1940)は明治初期にお雇やとい外国人として、日本にやってきたドイツ人です。ハイゼはドイツ語教師として、東京高等商業学校(いまの一橋大学)や学習院で先生をやっていました。学習院では、昭和天皇にドイツ語をハイゼは教えていたそうです。ハイゼの授業はとてもレベルが高く、生徒達は授業についていくのに大変だったそうです。 ハイゼの教え子には、日独伊三国同盟にちどくいさんごくどうめいに調印した外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)、戦後日本を代表する経済学者の久武雅夫(ひさたけまさお)などがいます。 ハイゼはとても日本びいきで、信仰しんこうもキリスト教から神道に替えたほど。20数年にもわたり日本に滞在たいざいし、日本人の妻をもち、四人の子宝にも恵まれました。妻の名前は和田ヨシ。子供は息子二人、娘二人。長男の名はエエーリヒ・カメイチロウ。次男の名前はカール・ヒロタロウといい、日本風の名前をつけたのですね。ただし、二人の娘にはドイツ風の名前をつけていたのです。またハイぜは 北里柴三郎とも交流がありました。 ハイゼは友人に奨すすめられるまま、会津の飯盛山にもおとずれました。飯盛山の頂上にたどり着いたハイゼは、自刃じじんした白虎隊士たちの墓の前でたたずみました。ハイゼは墓前で座り目をつぶり、若くして亡くなった少年達に思いをはせていたようです。短いながらもひたむきに生きた白虎隊の姿にハイゼは心を打たれていたのでしょう。ハイゼは白虎隊のお墓に訪れるずっと前に赤穂あこうの四十七士のお墓に訪れた事があるのですが、四十七士のときよりも、得も知れぬような感動を覚えたようです。 ハイゼは「自分が亡くなったら、自分の亡骸なきがらはこの白虎隊の丘おかに埋うめて欲しい」と思うようになったようです。 日本人の女性と結婚けっこんし、私生活でも仕事の面でも充実じゅうじつしていたハイゼでありますが、そんなハイゼ一家に不幸がやってきます。なんと日本政府が、ハイゼなどの在日お雇いドイツ人の財産没収ざいさんぼっしゅうを命じたのです。なぜ、政府はわざわざ日本に招いたドイツ人にそんなヒドイことをしたのでしょうか。 その原因は、第一次世界大戦で、ドイツと日本は敵国同士になったからです。第二次世界大戦ではドイツと日本は同盟を結ぶのですが、この頃は敵同士だったのです。およそ4年にもわたる長い戦争の末、ドイツは降伏こうふくしました。英仏連合国軍は負けたドイツにむちゃくちゃなことを押し付けました。 日本政府に対しても「敵国、ドイツ人の財産を没収してやれ」と要請ようせいしたそうです。それでも、北里柴三郎などのハイゼの友人達の協力もあって、日本にいたお雇いドイツ人の財産没収は免まぬがれました。財産没収は免れたものの、ハイゼは日本に居づらくなり、奥さんと子どもをひきつれドイツへ帰国します。それは1924年の出来事だそうです。奥さんが日本人と言う事もあって日本に残りたかったようですが、それもかないません。日本への想いを友人あてに手紙に書いたほど、ハイゼは日本を恋しがったそうです。 さて、ドイツにもどったハイゼ一家は苦労の連続だったそうです。(第一次世界大戦)敗戦後のドイツは大変なインフレで、国民は苦しんでいたそうです。日々の暮らしに苦しむ人々から「お前は、日本で稼かせぎまくってうらやましいな!」とハイゼ一家はやっかまれました。日本で稼いだと言っても、何しろドイツは大変なインフレ。何しろパン一斤買うのに一兆マルク必要だったと言います。それくらい札束の値打ちが下がってしまったのです。これじゃあ、せっかく貯金があってもすぐに使い果たしてしまいます。ハイゼ一家も生活にこまってしまいます。もっとも日本から恩賞おんしょうをもらっていましたので、うんと困っているわけではなかったのですが。 しかも、奥さんのヨシはドイツ語がわからずに苦労します。また、子ども達も学校でドイツ人と日本人のハーフということでいじめられたそうです・・・ 時代は進み、1937年の秋の終わりごろハイゼは久々に日本におとずれました。会津の飯盛山にもふたたびおとずれたそうです。 ハイゼが亡くなったのは1940年。遺骨いこつは本人の意思に従って白虎隊の丘おかに埋葬まいそうされることになりました。 ※ 参考文献 リヒャルト・ハイゼ物語 - 白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生 [単行本] タグ :白虎隊リヒャルト・ハイゼ
2013年05月21日 白虎隊のこぼれ話 その8 日本人で初めてカレーを食べた白虎隊士 みなさんは、日本人で初めてカレーを食べたのは、だれだと思われますか 白虎隊士中隊びゃっこたいしちゅうたいの一人だった山川健次郎(やまかわけんじろう)だといわれています。彼は白虎隊の生き残りの一人です。 (晩年の山川健二郎の肖像画しょうぞうが。ウィキペディアより) 彼がカレーを食べたのは明治四年の事です。その時の山川は国に命じられて、アメリカに留学することになりました。船で日本からアメリカにわたったのですが、山川にとってこまったことがありました。 船酔ふなよいではありませんw それは船内の食事が全て洋食だったことです。僕は三食洋食でも全然OKなのですがw、何しろ当時の日本人にとって洋食なんてなじみのないものでした。山川も口に合わないといって手をつけなかったそうです。心配した船医せんいが何か食べないと体に悪いですよといってカレーをすすめてくれたのです。 山川もしぶしぶカレーを食べてみたのですが、やはりカレーを食べる気分になれません。それでカレーのルーを残して、ライスだけを、つけあわせの杏あんずの砂糖漬さとうづけでかきこんだそうです。 そんな山川健次郎も、明治の世になって理学博士となり、やがて東京帝国大学(いまの東大)の総長や貴族院議員、枢密顧問官すうみつこもんかん(※1)などを歴任。そして男爵だんしゃくにも命じられました。会津出身の山川も朝敵ちょうてき(※2)と言われいじめられたかもしれません。しかし、それにもめげずに、そこまで成功を収めたところがスゲエなあと思いました。 ※1 明治憲法下、枢密院を構成した顧問官。ちなみに枢密院とは明治憲法下の天皇の最高諮問機関さいこうしもんきかんのことで、天皇に対して学者などが助言をしていた。 ※2 日本において天皇とその朝廷に敵対する勢力のこと。 ※ オマケ 「カレーライス」の動画を探していたら、「自衛隊のカレーの作り方」なんて動画を見つけました。使う調理道具はなんとも物々しいけれどw、おいしそうなカレーです。かくし味にコーヒー牛乳を入れるのもなかなか興味深いなと思いました。 タグ :白虎隊山川健次郎カレーライス