history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:渋沢栄一



クイズです。今日は、深谷ねぎについて。さて、この深谷ねぎは普通のネギとちがい、特徴があります。その特徴とは次のうちどれでしょうか?





  1. メロンなみに甘い




  2. 玉ねぎにちかい形をしている




  3. 防虫効果がある




正解は1番です。利根川がたびたび氾濫はんらんをおこすのですが、その氾濫により肥沃ひよくな土が上流から運ばれるのです。そうした栄養分が豊富な土壌が深谷ネギのおいしさにつながっているのですね。僕は昨年、大河ドラマ「青天を衝け」に影響されw、埼玉県の深谷にいってきました。深谷は渋沢栄一の故郷です。行ったら、ネギ畑がたくさんあって、その広大な景色にまるで北海道のようでした。お土産にネギも買ったけれど、美味しかったこと。僕が深谷ねぎのことを知ったのは数年前に放送されたNHKの高校講座の地理でした。番組を見て「ネギが甘い?そんなことあるもんか」と思っていたのですね。でも、いつかは食べてみたいとずっと思っていたのが、昨年念願かなったのです。食べてみたが、普通のネギとは明らかに違い甘味があって美味しかったです。NHKの高校講座での深谷ねぎの話は本当だったと確認できてよかったです。

深谷ねぎの由来は、明治初期に藍の値が暴落したことをきっかけです。「青天を衝け」にも出てきましたが、深谷は元々は藍の産地でした。渋沢栄一の実家でも藍を愛を込めてw育てていたのですね。幼い頃から藍の売買を手伝い、それで渋沢栄一は商売のコツを身に付けたと言います。藍だけでは苦しくなったので、明治30年頃から新しい作物としてネギの本格的栽培が始まったのです。大正時代にネギの価格が暴落したのですが、その時農業指導者の渋沢治太郎は、地元の乾物問屋に頼んで、北海道・東北地方へ深谷ねぎの商標を付けて出荷したそうです。これが、深谷ねぎの名称の始まりであると。ちなみに渋沢治太郎は、渋沢栄一の甥だそうです。

また、深谷にある渋沢栄一の生家にも訪れました。そこのすぐ近くにある、飯屋さんがあるのですが、そこで、渋沢栄一が好きだったという煮ほうとうをいただきました。ネギも入ってて、美味でした。ほうとうというと山梨県のイメージがあり、味噌やカボチャを入れるのですが、深谷のほうとうは、味噌も入れず、あっさりとした味です。

D0A11FB1-3E95-4216-9E04-A76257CBDE98

(ねぎ畑)

86F27243-0024-493E-ACAB-FD0D83577BDE
452FAB04-50CE-45DC-B0DE-52BABE4CE52F
0A25A895-4862-4EF1-8F42-28BBCC05F9DA

(いづれも深谷の景色)
0312ADE9-7BBE-4EEF-974E-9D2D514066FB

(煮ほうとう)

1 労働組合に理解を示した渋沢栄一
 労働組合というと資本家(経営側)といつも対立しているイメージがあります。しかし、渋沢栄一は資本家でありながら、労働者の環境や地位の向上を求めて、大正元年(1912)8月に鈴木文治スズキブンジが創設した労働団体の「友愛会ユウアイカイ(現在の連合)の活動を支援したそうです。また、大正8年(1919)8月16日には、資本家と労働者の協調を図るために財団法人協調会を設立したと言います。

「治安警察法第17条は撤廃テッパイし、労働組合の勃興ボッコウを促し、労働者の利益を計るとともに、資本家側の利益をも計らねばならない。労働組合は意思の疎通ソツウを計り、労働者を統一する機関として、最もその必要を認めるものである」


今もそうかもしれませんが、渋沢の生きていた時代も労働組合に理解を示した経営者はほとんどいませんでした。従業員を安い給料でこき使うような経営者が多い中で、これはすごいなと。労働組合側にとっても渋沢の存在はとても大きかったのではないかと。

ネットでは渋沢は労働者を守る工場法の制定に反対したトンデモないやつとありますが違います。彼が工場法に反対したのは日本で工場法を導入すつのは早いから反対したのです。彼が工場法に反対したのは明治29年(1896年)のこと。発展途上にある産業の育成を優先せざるを得なかったのですね。そんな彼ものちに工場法に賛成します。

2 病人や震災復興に積極的に取り組む
 渋沢はハンセン病患者とも向き合いました。ハンセン病はらい病と呼ばれ、これにかかったものは差別されていました。渋沢は初代のらい予防協会の会長を務めるなど、らい病の予防にも力を入れたのですね。

他にも渋沢は災害の復興支援も熱心にやりました。明治39年(1906)に起きたサンフランシスコ地震では、サンフランシスコのために震災見舞金を率先して出したのですね。当時の多くの日本企業は躊躇チュウチョアメリカが日本人移民排除をおこなっていて怒っていたから。

大正12年(1923)の関東大震災でも国会と 商業会議所が共同して設立した大地震善後会の副会長に渋沢が就任し、復興活動に尽力したそうです。この時渋沢は高齢に達していて、家族も埼玉の深谷に戻るように進めましたが、渋沢は拒否。

「このような非常時にお役に立てなければ、何のために生きているのかわからない」と言ったとか。

 
3 救護法にも尽力
 渋沢が91歳の時に、社会福祉団体の代表が渋沢の邸宅テイタクを訪ね、生活困窮者セイカツコンキュウシャを救うために救護法キュウゴホウの予算化に尽力ジンリョクして欲しいとの依頼があったようです。救護法は、貧困者の救護を国や自治体に初めて義務化させたもので、今の生活保護にあたります。大正の昔は生活保護のみならず社会保障がなかった時代ですから。(あっても今と比べ乏しい時代)

しかし、救護法は政府の中でも「怠け者を増やす」など反対意見も少なくなかったのです。

当時の渋沢は風邪カゼをひいて体調もすぐれなかったのですが、車の用意をさせ、すぐに大蔵大臣オオクラダイジン内務大臣ナイムダイジンに面会申し込みの電話を入れたそうです。渋沢の主治医シュジイも渋沢の奥さんも驚き、渋沢の外出を止めようとしたのですね。よろける足で立ち上がり、大蔵大臣の元へ向かったそうです。その時、渋沢はこのように述べたそうです。

「こんな老ぼれが、平素から養生ヨウジョウを心がけているのは、こういう時に役に立ちたいからなんです。もし、これがもとで私が死んでも、20万もの不幸な人たちが救われるのであれば結構なことではないですか」


素晴らしいですね。自分の体が弱っても、人様のために働こうという気持ちが素晴らしい。これがどこぞのブラック企業の社長さんだったら、「甘えるな!そんなん自己責任だ」で終わりですもん。

しかし、救護法が制定される1932年(昭和7)の前年の昭和6年に渋沢栄一は永眠します。享年92歳。

* 参考文献


渋沢栄一は新一万円札の顔です。2024年には一万円札が一新され、福沢諭吉ともお別れです。なんだかんだで諭吉さんにはお世話になったのですね。ちょっとさみしい気がします。例えば3万円がサイフに入っていたら、諭吉が三人なんて言い方を僕はしていましたが、2024年以降は栄一が三人になるのですね。今のうちに諭吉さんの顔をしっかり脳裏ノウリに焼き付けておきますねw?

ちなみに、僕が小学校3〜4年生の頃まで一万円札といえば聖徳太子でした。驚いたのですが、聖徳太子がプリントされた一万円札は現在(令和3年9月23日現在)でも一応使うことができるそうですね。聖徳太子から福沢諭吉にバトンタッチして30年以上たつのにすごいですね。最近、ニセモノの聖徳太子の一万円をコンビニで使って捕まった事件も起こりましたっけ。

それはともかく本題に入ります。今日は渋沢栄一のちょっといい話です。

渋沢栄一が亡くなった後、当時の代表的な短歌誌である『アララギ』に渋沢栄一をしのんだ歌が掲載ケイサイされました。

「資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ」


渋沢栄一は日本を代表する資本家です。しかし、彼はもうけ至上主義ではありませんでした。むしろ、目先の損得からは距離を置き、世の中全体のことを考えていました。彼がどのような社会活動を行なってきたか。みていきます。

* この記事は「英雄たちの決断」を参考にして書きました。



続きを読む

本題に入る前にクイズです。この写真は、オシラさまという神様の人形なのですが、なんの神様でしょうか?



DSC_1078






  1. かいこや生糸の神様


  2. 恋愛の神様


  3. トイレの神様



まず3番はちがいます。昔、そんな曲もありましたねw正解は1番。カイコや生糸の神様です。オシラさまの右手には、まゆから取れる絹糸(きぬいと)、左手にはカイコが大好きなくわの葉を持っています。オシラさまは主に東北地方はもとより群馬県でも信仰しんこうされていたようです。群馬県は江戸の昔から養蚕ようさんが盛んでした。そういうことも富岡とみおかに製糸場が作られた理由にもなったのでしょう。続きを読む

このページのトップヘ