
歴代の法隆寺の宮大工たちは、毎日法隆寺のなかを見て回り、いたんだところを見つけたらすぐさま修理をしたといいます。それくらい宮大工たちだけでなく、時の権力者までも法隆寺を大切に守ってきたのです。
たとえば、鎌倉時代に五重塔にカミナリが落ちたのですが、そのとき4人の大工が火を消して、五重塔の焼失をふせいだといいます。
そして安土桃山時代には法隆寺の宮大工・中井正吉(なかいまさよし)をリーダーとする大工集団が大坂城づくりにかかわったといいます。法隆寺は、豊臣秀頼(とよとみひでより)によって大改修を行われましたが、それも中井達大工集団の大坂城づくりに活躍したことに、秀頼が感謝したからかもしれません。
元禄時代(五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代)にも、法隆寺は大修理を行いました。その時は綱吉のお母さんである桂昌院(けいしょういん)が法隆寺に修理に必要なお金をたくさん出したといいます。
法隆寺は今日まで持っているのは、その時生きている人たちの努力、たびたびのメンテナンスのたまものでもありました。
明治30年になると法隆寺は国宝に指定されました。昭和九年から、戦争をはさんだ20年間に大改修が行われました。いわゆる昭和の大改修で、西岡常一(にしおかつねかず)さんもかかわっていました。
しかし、昭和24年に法隆寺は火事になってしまい、壁画などが焼失したのは残念です。そして平成5年に法隆寺は世界遺産に登録され、今日まで至っております。
それにしても、宮大工だけでなく時の権力者までも法隆寺を守ろうとしましたが、彼らの心をつき動かしたのは何しょう?おそらく、聖徳太子の仏教の教えで世の中を救いたいという願いが法隆寺に込められていたのではないかと。
飛鳥時代という時代も戦乱があったり、疫病や貧困の問題があって、大変な時代だったそうです。そんな乱れた時代を仏の力ですくってもらいたいと聖徳太子は願っていたのではないかと。
また、法隆寺の宮大工の口伝(※1)の一つとして、
「仏法を知らずに、塔伽藍(とうがらん)を論ずべからず」
というものがあります。お寺を建てるのに、仏様のことをしらないでただ形ばかりを語ってはダメだということです。法隆寺の歴代の宮大工たちは、仏教の勉強もキチンとやっていたようですね。だからこそ、宮大工たちは聖徳太子の理想を肌で感じることができたし、時の権力者たちも聖徳太子の思いに少しでも応えようと思ったのだと思います。
※1 言葉で伝えること
※ 参考文献