映画『峠』をご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。僕も見ました。感動しました。幕末もので、主人公は越後の長岡藩の河井継之助。河井役を役所広司さんが演じられました。これぞ男だと思いました。しかし、一方で主戦論者で、新政府軍と戦うことを選んだのですね。そのために長岡藩で多くの犠牲者が出たんですね。河井は英雄と言う意見と、長岡の町を焼け野原にし、民を苦しめた大悪人だという意見に分かれ賛否両論サンピリョウロン

まず河井の評価できる点は「民は国の本 は民の雇い」と言う書を書いたほど、民こそが大事で、役人つまり武士は民の雇われ人にすぎないという考え方を持っていたこと。

河井継之助は若い頃から勉学に励んだ人物で、中国の古典にも通じていたのですね。特に彼がのめり込んだのが陽明学。河井が17歳の頃「十七 天に誓いて 輔国ほこくに擬す」と誓ったほどで、国のために尽くそうと河井は思ったのでしょうね。その河井がそう思ったのは藩の危機的な財政赤字にありました。藩の再建を河井は考えたのです。河井は意見書を書き、その意見書が長岡藩主、牧野忠雄の目にとまり、そして河井は藩の役職を与えられるようになったのです。河井は重臣たちの会議に参加し、そこでも重臣たちに面倒向かって批判したものだから、重臣たちは激怒。また河井に長岡藩藩主の若様の教育係をしてくれと頼まれたが、それを河井は拒否。筋を通す人物だったのですね。

一方で河井は基本的に、この戦は勝つか負けるか関係ない、最後は武士らしく潔く死のうと言う考え方なんですね。男の美学としてはかっこいいが、それを民百姓まで巻き込むのはどうかと言う見方もできるのですね。厳しい見方ですが、道徳とか正義と、政治は別物。道徳や正義と言うのは心情的に美しければそれで良いが、政治はあくまで結果責任。どんなに道徳的に素晴らしくても、実際の政治となると成果が問われ、成果が挙げられなくても被害は最小限に抑えなくてはならない。新政府軍に一旦は恭順して、政権の中に入りその中で実権を握る選択を取れば、民百姓を犠牲にせずにすんだかもしれないのに、河井はそれができなかったのですね。太平洋戦争もそうだったなあ。最後まで戦い抜いて日本人が滅びようと、後々日本人は誇り高い民族だったと語られると。しかし、その考えは多くの国民の命を犠牲にしたと言う点では間違っているのですね。


そんな河井も一旦は長岡藩を離れますが、やがてその行動力を買われ、河井は郡奉行に抜擢バッテキされます。信濃川の治水工事をして米の増産に成功、信濃川の通行税を廃止し、人の往来をしやすくし流通の促進、商業の規制緩和など経済を発展させ、長岡藩は2年でおよそ10万両を蓄えるようになったのです。

しかし、長岡藩財政再建も束の間、世の中は幕末という激動の時代。大政奉還をしたにもかかわらず、徳川と新政府は戦をしてしまうのです。このままでは長岡藩も戦乱に巻き込まれると思い、河井は武器を買い集めます。河井は新政府軍と戦うためにガトリング砲を2台買ったのですね。ガトリング砲は一台3000両。2台で6000両。例えば、一万石の小さい藩の年収は4000両ですから、ガトリング藩は小さい藩の年収ではとても代えない代物でした。長岡藩は7万4000石あったから、まだ買えたのですしょうね。

新政府軍は破竹の勢いで各藩を恭順させ、長岡藩にも降伏を進めます。そして軍資金を3万両差し出せと命じます。長岡藩の重役たちの意見は割れます。恭順か、交戦か、意見はまとまらず。苛立つ新政府軍は長岡藩に迫ってきます。そんな藩の危機の中、河井は家老上席兼軍事総督に就任。事実上の最高責任者になったのです。そして交戦でもない、恭順でもない新たな道を探ります。新政府にも幕府にもつかず、武装をしたまま中立を保つと言う立場を取ったのです。いわば、スイスのような永世中立国の立場を取ったのですね。スイスは中立国と言いましても軍隊も持っていますし、徴兵制もとっていますし。

しかし、どっちつかずな長岡藩の態度に新政府軍はイラつくばかり。そして河井は嘆願書を携え、新政府軍のところに赴きました。河井は、長岡藩中立だけでなく、争いをやめ、日本は今で言う連邦国家みたいな国になって日本中が豊かになるべきだと訴えました。しかし新政府軍は軍備を揃えるための時間稼ぎだとしか思わず、わずか三十分で新政府軍は立ち去り、嘆願書すら受け取ってくれなかったのです。それでも河井は諦めずに新政府軍の本陣に訪れましたが門前拒否。他藩にも助けを求めましたが結局ダメ。とうとう河井は新政府軍と戦う道を選んだのです。しかし長岡藩兵1300人に対し、新政府軍は4000人。数の上では不利です。それで河井は会津藩など東北の各藩と同盟を結びます。そして戦は始まりました。

戦では長岡城に陣取って、河井は自らガトリング砲を操って応戦をしたと言います。しかし、河井たちの奮戦も虚しく、長岡城は落城。それでも長岡藩兵たちは今度は地の利をいかし、ゲリラ戦を始めます。そして長岡城奪還を目指します。城の裏手にある八丁沖という沼地を6時間もかかって渡りきり、城を襲ったのです。この八丁沖は広い沼地で大蛇が出るというウワサもあったほど危険な沼地だったのです。

まさか沼地から兵士たちが襲ってくるとは夢にも思わなかった新政府軍たち。城を守っていた新政府軍2500に対し、河井の兵わずか700。河井たちの不意をついた攻撃に新政府軍は敗走。再び長岡城の奪還に成功したのです。しかし、この戦いで河井は左足に銃撃を受けたのです。河井重症に、長岡藩の士気はいっきに低下。新政府軍は反撃にでて、再び城は新政府軍の手に落ちたのです。戦は三ヶ月にも渡り長岡の街は焼け野原と化したのです。

河井は会津に向かう途中に亡くなります。わずか42歳の生涯でした。賊軍の将として世をさって島田tのです。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

と言う句を河井は残しました。


※ この記事はNHK「英雄たちの選択」を参考にして書きました。