History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:江島事件



今年の秋、長野県の高遠たかとおに行ってきました。


諏訪すわのインターチェンジから降りて、そこから山道をドンドコドンドコ行きましたが、一向に高遠にたどり着かない・・・・

車に乗ってて「ああ、絵島(えじま)も江戸からこんな遠くまで連れてこられたのだなあ」って思いました。

そうこうしているうちに高遠につきました。

絵島のかこ屋敷やしきは、高遠歴史博物館の中にあります。その高遠歴史博物館は高遠城あとのすぐ近くにあります。

高遠城跡周辺は桜の名所として名高く、春になるとメッチャにぎわうのですが、秋も深まり、落ち葉がい散る時期になると、ひっそりと静かで、お土産屋みやげも閉まっていました。





すぐ上の二枚の写真は、囲み屋敷の写真 なお、囲み屋敷は江戸時代当時のものではなく、昭和42年に造られたものだそうです。





すぐ上の2枚の写真は、囲み屋敷の説明文。写真をクリックすると拡大します。


囲み屋敷の外観


玄関げんかんと台所 絵島はどんな料理を食べていたのだろうか?


絵島の世話をした下女のひかえ室。下女達は絵島の話し相手をしていたのだろうか?




すぐ上の2枚は絵島のお部屋。なんと部屋は格子で囲まれています。

絵島は机の上で写経をひたすらしていたそうです・・・・

昔はテレビもインターネットも無かったから、ヒマだったろうなあ・・・というか、さみしかったことでしょう・・・


いちおう、お風呂ふろはあるのですが、浴槽よくそうがありません。かした湯で体を洗い流していただけ。冬の寒い時に湯を浴びていただけなんてカゼをひいてしまいます・・・



へいにはなんとトゲトゲが!!絵島にげられないように、こうしたのでしょう・・・





※ おまけ


高遠といえば桜が有名です。その桜の動画をどうぞ。

この記事は2008年8月18日に書いた記事を加筆修正したものです。

監督:林徹
収録時間:126分
レンタル開始日:2007-06-08

Story
江戸城・大奥を舞台に女たちの熾烈な闘いを描いたフジテレビの人気時代劇を映画化。大奥総取締の絵島と歌舞伎の看板役者・生島新五郎が繰り広げる禁断の恋を綴る。主演の仲間由紀恵ほか、西島秀俊、井川遥、及川光博(詳細こちら



1 大スキャンダル 絵島事件

 絵島事件って大奥おおおく最大のスキャンダルだといわれております。

この事件で絵島(えじま)は、信州の高遠に流されてしまいます。映画では、絵島は死刑しけい宣告されますが、7代将軍家継(いえつぐ)の「軽い刑にせよ」の一声で死刑はまぬがれます。いくら小学校低学年くらいのガキwでも何せ天下の大将軍ですから。

もちろん、将軍の一声で軽いけいになったとは、あくまでも映画の中の話でしてw実際に絵島の刑が軽くなったのは月光院(げっこういん)の口添くちぞえなどがあったからでしょう。


2 絵島事件の背景は派閥はばつ争い


 この事件は月光院、新井白石(あらいはくせき)、間部詮房(まなべあきふさ)派と、天英院(てんえいいん)&老中ろうじゅう派の対立が背景にありました。白石も間部も6代将軍の家宣(いえのぶ)に抜擢ばってきされた人たちだから、古参の老中達は彼らをこころよく思わなかったのでしょう。

しかし、7代将軍家継が8さいで亡くなって生母の月光院が悲しんでいた時、天英院ははげましたそうです。最終的には二人は和解しました。

それにしても、絵島はかわいそう・・・

無実の罪でとらわれて、江戸から遠くはなれた高遠たかとおに流されてしまったんだから・・・

27年間も幽閉ゆうへいされて、そのまま61さいで亡くなってしまうのですから・・・


さて、先月、私は家族と車で長野県高遠までドライブに行ってきました。絵島のかこ屋敷やしきも見てきました。その時の感想を次回の記事で書かせていただきます。


また、こちらの記事もよろしかったらどうぞ

※ 関連記事 

「天英院は倒幕派?」



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あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。

新年最初のエントリーは天英院の話。天英院は絵島事件にも関わっているし、八代将軍に吉宗がなるときにも、この人が関わっていました。12チャンネルで放送されたある歴史番組では、天英院は実は倒幕をたくらんでいたと。天英院の実家は近衛家、つまり朝廷側です。徳川家をうらんでいた島津家と組んで徳川を倒そうとしたのです。

島津家は幕府から、実際の石高よりも大目の税をとるなどいろいろと嫌がらせをされていたとか。

そこで、綱吉の養子でもあり、天英院の子飼いでもある竹姫を島津家に嫁がせ、幕府と島津家を和解させます。しかし、それは表面的なものでした。

幕府に島津家に対するいやがらせをやめさせる一方で、竹姫に幕府を倒すように洗脳(せんのう)をさせます。やがてその倒幕の志が島津家の子から子へと受け継がれ、13代将軍家定の代になって、島津家の娘の篤姫を家定に嫁がせ、将軍家定を毒殺したというものでした。

これが本当だったら怖い話ですね。

でも、天英院が本当に幕府を倒すつもりがあるのならば、7代将軍家継の後継を名君の吉宗ではなく、あまり領民からの評判のよくなかった尾張家の継友を推薦(すいせん)したと思います。しかも尾張家と近衛家は親せき関係だったそうですし。

というか、本当に天英院が倒幕派だったら、家継が亡くなった時の将軍不在のドタバタをもっと利用したはずです。将軍が決まらない状況なんて、幕府を倒すまたとないチャンスですからね。

それに、幕末の時代の島津久光は倒幕どころか、初めは佐幕派(幕府の味方)でした。後に倒幕へと傾くのですが、それはあくまで外国のこわさを理解し、日本が植民地になったらやばいと判断したからであって、個人的なウラミだとは僕には思えません。

竹姫は久光のひいおじいちゃんである島津重豪の養育をして、彼の藩政に影響を与えたのは事実ですが、倒幕どころか、むしろ幕府を憎まないように養育したんじゃないでしょうか?

島津重豪の娘は11代将軍の家斉の元に嫁ぎましたし。篤姫も、朝廷が幕府を本格的につぶそうとしたときに、和宮とともに徳川家の存続を薩長に対して懇願したといわれています。話を天英院に戻して、もしも天英院がいなかったら幕府はもっと早く滅んでいたと私は思います。




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